02. 撃沈
はじめこそ控えめな印象の海堂だったが、お酒の影響もあってか、次第に少し饒舌になってきた。
自分の不器用さや失敗談を自虐ネタにして、面白おかしく話すものだから、ほのかは思わず笑ってしまう。
そこへ、ガラガラと引き戸を開けて、作業着姿の中年男性が店に入ってきた。彼は常連仲間のいるテーブルに向かいながら、ほのかに声をかけた。
「よっ、ほのかちゃん! 今日も元気だな!」
「あ、大宮さん、こんばんは! んふふ、おかげさまで!」
笑いの余韻を残しながら、ほのかも挨拶を返す。
隣の海堂が大宮の目に留まった。
「おっと、今日は彼氏と一緒かい。邪魔しちゃ悪ぃな」
「あはは! 違いますよ、大宮さん。初対面です! 最近、この近くに引っ越してきたんですって」
「なぁんだよ。そりゃ失敬」
大宮は肩をすくめて苦笑した。
「えっと、はじめまして。海堂といいます」
急に自分を話題にされて、海堂は少々面食らいながら挨拶した。
「おう! よろしくな! 俺はこの店の常連で、大宮ってモンだ。ここの大将とは長い付き合いでよ」
そう言う大宮の言葉に、店主の荒井が口を挟む。
「うちに来てくれるようになって、どれくらいかね。20年は経ってるか」
「もうそんなになるのかよ。ここの飯が美味すぎて、気がついたらもうずっと通ってるよなぁ」
別の常連客も横から割り込んできて、次々に店への愛着を語る。
「そうそう、ここだけの話、大将の筑前煮食っちゃうと、家のかあちゃんの筑前煮じゃ物足んなくなっちゃってさ」
「俺はまだ15年くらいだけど、しょっちゅう通ってるよ」
「でも、結局酒ばっか飲んで、味なんか忘れちまってるんじゃないのか?」
「そりゃないぜ、大将! ちゃんと美味いと思ってるって!」
軽口と笑いが飛び交い、店中に輪が広がっていく。気づけばその輪の中に、自然と海堂も溶け込んでいた。
「よし、海堂くん! 歓迎の印だ! 飲んでくれ!」
海堂の目の前に、大宮が瓶ビールを持ってきた。
「えっ。いいんですか? ありがとうございます!」
海堂は恐縮しながらも、素直にグラスを差し出す。
「いただきます!」
そして、なみなみと注がれたビールを、勢いよく煽った。
「おっ、いい飲みっぷりだ!」
「じゃあ、俺からも1杯!」
「ありがとうございます!」
「兄ちゃん、いけるねえ」
「よし、もう1杯飲め!」
「あざっす!」
気の良い彼らに応えたかったのか、あるいは雰囲気に乗せられたか、海堂は勧められるままに次々と飲み干していった。
ほのかは、そんなペースで飲み続ける彼が、だんだん心配になってきた。
「あ、あの、無理に全部飲む必要はないですからね……!?」
思わず声をかけたが、海堂の耳には届いていないようだ。すでに顔は、だいぶ赤い。
そして数分後。
突然電池が切れたように、彼はガクッとカウンターに突っ伏した。耳まで真っ赤になったまま、微動だにしない。
「あ、あらら……」
「兄ちゃん、大丈夫か?」
「おーい、生きてるか?」
返事がない。完全に酔い潰れたようだ。
「もう。大宮さんたちが、あんなに飲ませるから……!」
「だーってよ、勧めたらあんな気持ちよく飲んでくれるからさ! 嬉しくなって、つい!」
「な! ガハハハ」
「だからって、限度があるだろうよ」
荒井が呆れ顔で言ったが、酒の入った一同は、ゲラゲラと笑い合うばかり。
「まったく」
「どうしましょう。どこに住んでるかもわからないし……」
困り顔でほのかが海堂を見つめると、彼は突然、ムクリと体を起こした。
「あ、起きた」
だが、ボーっとしている。そのうちに、顔色がみるみる悪くなり始めた。
「……気持ち悪い……」
「えっ、大丈夫ですか!?」
ほのかが声をかけると、海堂は青ざめた顔を、ゆっくりとこちらに向けた。そして。
「ゔゔぇ……っ」
その場にいた全員に、戦慄が走った。
「ちょちょちょちょちょ!! ストップストップ!! トイレ行きましょう、トイレ!!」
ほのかは慌てて海堂の腕を掴み、彼を引き起こすと、そのまま引きずるように店の奥へと連れて行った。
ノックする余裕すらなく、トイレのドアを開ける。男女兼用、個室1つだけのトイレだが、幸い先客はいなかった。
蓋と便座を上げて間一髪。
海堂は、便器に向かって胃の中のものを勢いよく吐き出し始めた。
「大丈夫……じゃ、ないですね……」
ほのかは彼の背中をさすってやった。
海堂は返事もできず、ただ苦しそうに吐き続けている。
「よしよし、ゆっくり吐いて……出るだけ出しちゃいましょ」
優しく声をかけながら、ほのかは背中をさすり続ける。
彼はしばらくえずいていたが、やがて吐き気も治まったようで、大きく息をついた。
「すみません……もうだいじょうぶ……」
「おさまりました? 良かったです。しんどかったですね」
ほのかは穏やかな声で言うと、洗面台の棚からティッシュペーパーを何枚か取って、口元を拭うよう、彼に手渡した。
心配そうな荒井の声が、トイレの外から聞こえてきた。
「おーい、大丈夫か?」
「あ、はい! 今、ちょっと落ち着いたところです。海堂さん、出られますか?」
「はい……」
海堂が水道水で口を濯ぐのを待ってから、彼をトイレから連れ出し、カウンターに座らせた。
「荒井さん、お水ください。あと、おしぼりも」
「あいよ。待ってな」
荒井はすぐに、冷たい水の入ったグラスと、おしぼりを出してくれた。
海堂はそれを受け取り、おしぼりで顔を拭うと、ゆっくりと水を飲みはじめた。
「少し、楽になりましたか?」
「はい、だいぶ……」
ほのかの問いにそれだけ答えると、海堂はまた、カウンターに突っ伏した。
「……すみません……初対面なのに……」
朦朧とした声で言っていたが、やがてそのまま寝息を立て始めた。
「あ、また寝ちゃった……」
「吐くだけ吐いたし、もうしばらく寝かせてあげれば大丈夫だよ。面倒見てやってくれて、ありがとうな」
酔客の対応に慣れた荒井がそう言うので、ほのかは素直に頷いた。
確かに、先程より顔色は良くなっているし、寝息も穏やかだ。急性アルコール中毒などの心配もないだろう。
ふと時計を見て、ほのかは慌てた。
「あの、すみません。私、明日朝早く友達と待ち合わせがあるので、そろそろ……。あと、お願いしていいですか?」
「ああ、もちろん。あとは任せな。今日はありがとね」
ほのかは身支度を整えると、お会計をして店をあとにした。
帰り際、なんとなく振り返ると、店の戸口から漏れる明かりが見えた。
円居屋の夜は、まだまだ続く。きっと、海堂もしばらくすれば目覚めるだろう。
挨拶もできずに帰るのを少し心残りに感じながら、ほのかは自宅マンションへの道を急いだ。




