11. 襲来
あのワンマンライブと打ち上げから数日経った、6月のある日。
雨は降っていないが、空気はどこかじっとりとした重みを感じさせた。
円居屋のカウンターには、今日も海堂がいた。
「荒井さん。日本酒お願いします。何か、初心者におすすめのやつ」
「日本酒か。じゃあ、これかな」
結露をまとった青いボトルが、目の前に差し出された。
荒井は栓を抜き、木升に入れたガラスのコップに注ぎ始める。
トクトクと心地よい音をたてて、透明な液体がコップを満たしていく。縁まで到達した酒は表面張力で盛り上がり、やがて幾筋かの雫が、光りながら升へと滴り落ちた。
「はい、どうぞ。まずは口で迎えにいって」
「えっと……こうでいいんですか?」
海堂はグラスに顔を近づけ、ひと口すすってみた。
「美味い……」
喉をすっと落ちていき、甘やかな香りが鼻腔にふわりと残る。
「これは特に飲みやすいやつだけど、ビールと違って度数は高いからね。ゆっくり飲みなよ」
「わかってますよぉ」
海堂は2口目を飲みながら、のんびりとメニューを吟味し始めた。
間もなく、背後の引き戸がガラガラと開く音がした。
「ほのかちゃん、いらっしゃい!」
荒井のその声に、海堂も思わず表情を緩ませながら振り返る。
「お疲れー、ほのかちゃん。おかえり」
……が、そこにはほのかと、隣にもうひとり女性が立っていた。
ほのかに向けた緩み顔を第三者に見られたかと思うと、途端に恥ずかしくなって、海堂は思わず顔を引き攣らせた。
「カイくん! こんばんは」
ほのかは海堂を愛称で呼ぶようになっていた。
「こんばんは……えっと、そちらは、友達?」
「うん。高校の時からの友達の、山路花乃ちゃん」
「はじめまして。山路花乃です」
花乃がペコリとお辞儀をしたので、海堂も慌てて頭を下げた。
「どうも……」
さて、ほのかとの関係性を、どう説明したらいいものか。一瞬、考え迷う。
花乃はニンマリと、何かを含んだ笑みを浮かべた。
「海堂さんですよね? ほのかから色々と、話は聞いてますよぉ?」
「ちょっと、花乃! 私が何か変なことを話したみたいな言い方!」
慌てるほのかをよそに、花乃は興味津々といった表情で海堂を観察する。
どうにも居心地の悪さを覚え、海堂は自分から切り出した。
「……酔い潰れたところを、初対面のほのかちゃんに介抱してもらったこととか?」
「ええ。そのへんの出会いのエピソードから、バッチリと!」
楽しそうに答える花乃。
「ははは……まあ、そんな感じで、ほのかちゃんにはいつもお世話になってます」
海堂が頭を掻きながら困っていると、荒井が水を用意しながら声をかけた。
「なるほど。花乃ちゃんは、ほのかちゃんのお目付け役として来たって感じかな?」
「まあ、そうですね」
花乃は海堂をチラリと見る。
「でも、円居屋さんの料理も食べてみたくて。すごく美味しいって、ほのかがいつも自慢するから」
「はは。嬉しいことを言ってくれるね。メニューはそこにあるから、決まったら呼んでね」
「はーい」
海堂の隣に座ったほのかと花乃は、メニュー表を一緒に覗き込んだ。
「わあ、色々ある。こういうのをいつも食べてるのね」
「うん、どれも美味しいよ」
「うーん、生姜焼き食べたいかも……あ、定食にもできるんだ? いいなぁ。じゃあ、生姜焼き定食で!」
「私はブリの照り煮定食!」
「はいよー! ちょっと待っててねー」
カウンター奥から、荒井の返事が聞こえた。
「ほのかと海堂さんって、いつもこんな感じで一緒にご飯食べてるの?」
「んー? 別に約束してるわけじゃないけどね。あそこのおじさんたちもそうだけど、みんな常連だから」
「いつの間にか海堂さんも常連に。で、この前行ったっていうライブは、海堂さんに招待されたんだっけ?」
「うん! 良いライブだったよー」
「さらに、その後の打ち上げまで誘ってもらったと」
「そう。驚いたことに、あの奈良三四郎さんまで来たんだよ! 昔、Pillow Diaryをプロデュースしたんだって!」
「いやいやいや……それも驚きだけどさ……」
花乃は軽くため息をつくと、小声でほのかに囁いた。
「あんた、どれだけ特別扱いされてるか、ちゃんとわかってる?」
「え? あ、ははは。そうだねぇ。カイくん、義理堅いから」
「『義理堅い』って……」
花乃は半目でほのかを見た。その奥では必死に聞こえないふりを装いながら、海堂が日本酒をちびちびと飲んでいる。
「ほら、酔い潰れた件があったでしょ? すごく気にして謝ってくれてね。CD一式くれたり、ライブにも招待してくれたり。それでその後の打ち上げもね」
「……へー。そうなんですねぇ、海堂さん?」
聞こえてんだろ、わかってんだぞ、と言わんばかりに花乃は海堂に水を向けた。
「えっ!? あっ、はい!? あ、いや、ほのかちゃんには本当に迷惑をかけたので……。それでもバンドをすごく応援してくれるから、ほんとありがたいです。うん」
「そっか、そっかぁ」
頷く花乃の目を、海堂は直視できなかった。
気まずさに耐えかねていたところ、タイミングよく荒井が料理を運んできた。
「はい、おまたせ! 生姜焼き定食と、ブリの照り煮定食ね!」
「ありがとうございます! 来た来た!」
「わあ! 美味しそう! いただきます!」
追求から逃れられ、内心ホッとする海堂。
花乃はさっそく箸を取り、生姜焼きを一口。
「うまーっ! ほのかの言ってたとおりだわ」
「でしょ?」
その時、店の戸がガラガラと開いた。
「やあ、大将」
「奈良さん! いらっしゃい!」
奈良三四郎だった。先日の予告通り、店にやってきたのだ。
テーブル席の大宮たちとも軽く手を上げて、挨拶を交わす。
彼はカウンターの花乃の隣の空席に座った。
「海堂とほのかちゃんは、今日も一緒か。こちらの彼女は、ほのかちゃんのお友達かな?」
突然目の前に現れた、大物プロデューサー本人に、花乃の目は釘付けである。
「はじめまして! 山路花乃です!」
「奈良三四郎だよ。よろしく」
「存じてます! 奈良さんがプロデュースされたアーティスト、よく聴いてます。お会いできて感激です!」
「それは嬉しいね」
人懐っこく握手を求めてくる花乃に、奈良も上機嫌だ。
「そうだ、大将、座敷空いてる? この後、ここで人と待ち合わせしてるんだけど」
「ええ、空いてますよ」
「待ち合わせって……お仕事関係のかたですか?」
ほのかが尋ねると、奈良はニヤリと笑った。
「Kittensの、ショウだ」
海堂がぶっ、と酒を吹き出した。
店が一気にどよめく。
「Kittensって、あの人気アイドルの!?」
「マジですか!?」
「おい、すげえな! 芸能人が来るのかよ!」
ほのかが、花乃が、大宮たちまでもが食い付いた。
まさにそんな騒ぎの中、ガラガラと引き戸が開いた。
一同は一斉に口をつぐみ、一点に視線を集中させる。
入ってきたのは、キャップとフードを目深に被り、サングラスを掛けた、若い男性。
彼は荒井の「いらっしゃい」の言葉に軽く会釈を返すと、奈良に声をかけた。
「奈良さん、お待たせしました」
「おう。俺もいま来たとこだよ。こっちだ」
奈良は立ち上がり、先導して座敷へと歩き出した。男性もその後をついていく。
……はずだった。
彼は急に足を止め、サングラス越しにほのかたちを凝視している。
「あ、あの、何か……?」
「やっぱりだ! 山路さんと……、須東さんだよね!?」




