第五話
「そうですねぇ……」
長野はあごに手を当てると、けろりとして答えた。
「立てかけていた物干し竿が倒れてきたり、マンションの玄関扉を引っ掻くような音がしたりはありましたけど……」
「それ、怪奇現象じゃないですか! 近づくなって警告してるんじゃ……」
田端は目を剥いて長野に食ってかかったが、当の長野は特段あわてた様子もない。
「日常生活でも、起こりうることですから」
絶句する田端をよそに、M氏の母は深々とため息をついて長野をにらんだ。
「にゃるら様のお怒りを鎮める儀式をしなくては……支度をしてきます」
M氏の母が台所に戻って儀式の準備をはじめる。ずいぶん手慣れた様子だ。田端は応接間の机に置かれたお茶を飲んで、そっと横目で長野の様子をうかがった。
そうして、あまりの長野の変わらなさに、自分が情けなくなった。田端は長野の助手……ボディーガードをしている気でいたが、長野本人はけろりとしているし、田端は怪異をおそれてびくびくしている。
「長野さんって、怪異譚が好きなのに、怪異殺しみたいなところがあるんスね……」
「え? 物理現象じゃないですか。誰も触っていなくても重量のかかり具合や風で物干し竿が倒れることはあるでしょう? 動物が通ったのかもしれませんし。玄関扉だって、誰かのイタズラや、傘がこすれた音かもしれませんよね? 驚きはするけれど、怖いかな?」
「怪異譚蒐集家なのに、やたら現実的だなぁ」
呆れる田端に、長野は頭を振って微笑んだ。肩のあたりで切り揃えられた髪が揺れる。
長野は美人だ。穏やかな切長の目と、すっと整った鼻梁には、理知的な印象がある。服装もごく一般的なシャツで、身体の線を強調するようなこともない。白衣を着ていれば、どこかの研究室にいそうな、凛とした外見である。
田端は呆れていたことも忘れて、長野の微笑に見入っていた。
「ホラー映画みたいに、見えちゃいけないものが見えたら、怖いですね。……そのときは田端さん、お願いします」
田端は一瞬言葉に詰まる。調子よく「任せてください」と喉元まで出かかったのをこらえて、「それ、僕にも対処できないスね……」と乾いた笑いを浮かべた。
「怪異ですもんね」
うっすらと笑う長野が、田端はほんの少し怖くなった。
時計がボーンと鳴った。玄関にあった時計だろう。
M氏の母が御膳を持って台所から戻ってきた。ご飯と水の入った小さな器がある。少し大きめの器に、こんもりとした水飴が盛られていた。
「それでは、奥の間にどうぞ」
***
廊下の奥にある三畳ほどの部屋の前に座ると、M氏の母は「にゃるら様、失礼いたします」と一声かけてふすまを開いた。
田端の腕が小刻みに震えている。緊張している。今回は一眼レフカメラを置いてきた。もしもカメラを持っていたとしても、指が震えてうまくシャッターを押せなかっただろう。
M氏の母が部屋に入り、長野がつづけて立ち上がる。座ったままの田端を、長野はそっとうながした。
部屋の奥には松を描いた屏風があり、その前に小さな赤い座布団がある。M氏の母は一礼して座布団の前に御膳を置くと、さらに一礼して下がった。田端と長野はその後ろで正座している。
「にゃるら様、どうか怒りをお鎮めください」
M氏の母が深々と頭を垂れる。見よう見まねで田端と長野もそれにならう。
少しして、何かがにゅるりと床に落ちてくる気配がした。
田端は目をつぶる。歯の根が合わず、ガチガチと鳴っている。このところつづいた怪奇現象の数々が脳裏をよぎる。それらが起こるきっかけとなったのが、にゃるら様なのだ。
「田端さん、何か……天井から出てきましたよ」
長野が声をひそめつつも早口でそう言うのに、田端は恐々と目を開けた。先ほどホラー映画のようなことが起きたら怖いと言っていたくせに、長野はちっとも怖がらない。食い入るようににゃるら様を見つめている。
田端は困惑しつつ、頭を下げたまま様子をうかがった。
茶褐色の粘り気のある何かが形を変えて、御膳の上の水飴をすすっていた。M氏の母が安心したように息をついた。
あれが、にゃるら様なのか──。
スライムのような形状の何かが、水飴を取り込んで大きくなっていく。にゃるら様は満足したかのように、座布団の上でぷるりと震えた。
田端は信じられず、再び目を閉じた。
──水飴を食べて、増えている。
ぺたり、ぺたりと、にゃるら様の動く音がする。




