第六話
M氏の母が御膳を下げるのに合わせて、田端と長野も退室した。
「興味本位で関わるのは、もうやめてください」
田端はぐったりしたまま、会釈した。いかにも不機嫌という顔をしたM氏の母に見送られて、そのままM氏の家を出る。すっかり日が暮れて、夜になっていた。
「ありがとうございました」
二人が駅へと向かう道すがら、長野が珍しくはしゃいだ声を上げた。
「にゃるら様、ああいう感じなんですね! 見られてよかったー!」
やけに興奮した口ぶりに、田端はぎょっとした。電柱についた蛍光灯の光が、じわりと揺れた気がする。
「長野さん、祟りとか怖くないタイプだったんスか?」
「いいえ! 怖いです! 怖いけど、なかなか見られるものでもないですよね! いやー! いいもの見ました! いるんですね! ああいうの!」
長野は目を輝かせている。田端は返答に困って、あいまいにうなずいた。
会社帰りのサラリーマンらしき男性が、奇異なものを見る目で二人にちらりと視線を送った。
「水飴を摂取していたけれど、あれってネバネバしないんですかね? 天井からぬるっと降りてきて、壁を伝って登って行きましたよ! 天井の板の隙間ににゅるって戻って行きました!」
「長野さん」
大きな声でしゃべりつづける長野を、田端がいさめる。
「え、田端さん、怖いんですか? 怖いんでしょう! 怪異に、にゃるら様に会えたんですよ! でもなんだかおかしな物体で、怪異って感じはあまりしないですね! 液体状だから変幻自在、あんな天井の隙間から出たり入ったりできるなんて!」
長野の様子がおかしいことに気づいて、田端は返答に窮した。
いつも物静かで穏やかな長野が目を見開いている。口数がやけに多い。思ったことをそのまま口に出しているようで、普段の思慮深い長野とは別人に見えた。
生ぬるい風が吹いて、田端の背筋がぞわりと粟立つ。怪異が訪れる気配に、田端はぎゅっと自分の拳を握りしめた。手のひらが汗ばんでいる。
「次、次は、いつお会いできますかね!? にゃるら様に! あははは!」
思わず足を止めた田端をよそに、長野は不気味な笑い声をあげながら駅へと向かっていく。
「長野さん、もう、やめましょうよ。……隠されているものを暴くなんて、よくない」
「どうして? 私は自分の目で見ようとして──」
長野が振り返って首を傾げる。蛍光灯が明滅した。
自分の目で見ようとして、なんだ。
言葉を待つ田端に、長野は応えない。
田端の胸の内に、次から次へと暗い焦燥がわきあがる。世の中の人の大多数が知らない、その家だけに伝わる、不思議な何か……。にゃるら様には、本来隠されるだけの理由があったのではないか。
急に訪れた暗闇のなかで、ぺたり、ぺたりと粘り気のある何かが近づいてくる音がした。
にゃるら様の怒りを鎮める儀式を行ったはずなのに──。
身体の奥から震えがわきあがってくるようで、田端はぎゅっと目を閉じて、拝むように両手を合わせた。
儀式は滞りなく済んだはずだ。けれどもその間じゅう、好奇心を隠しもしなかった長野に、にゃるら様がさらに怒りを強くしていてもおかしくはない。
ぺたり──。
「あ、電線が震えてますね! 何かが落ちてきて──にゃるら様かしら!」
長野の楽しそうな声に、田端はすくみあがった。すぐうしろで、にゃるら様の気配がした。蛍光灯の光が不自然に揺らぐ様子が、目を閉じていてもわかる。
しばらく何も起こらないことに気づいて、田端はおそるおそる目を開けた。
血の気の引いた青白い顔をした長野が、田端を近くでのぞきこんでいた。のけぞる田端に、長野は一際大きな笑い声をあげる。
「にゃるら様を崇める人間を、もっと増やさなくちゃ! ──私たちは、にゃるら様を見てしまったんだから!」
長野の笑い声が、泣いているようにも聞こえる。夜の住宅地に長野の声が響き渡ると、あちこちで、電線の上から何かが落ちる音がした。鳥だ。口から泡を吹いている。
「うわあああ!」
田端は来た道を引き返して、M氏の家へと駆け出した。足元に水飴が絡みついたように、うまく走れない。
「見たよ。見たよ。にゃるら様を見たよ」
どこからか子供たちの声が聞こえてきて、ブロック塀の隙間から、ぬるりとしたものがあふれだす。塀に次々と貼り紙が増えていく。不法投棄をいさめる目を描いた貼り紙、どこかの宗教の「崇めよ」と書いてある貼り紙、「見たよ」と書いてある貼り紙──未逮捕の容疑者を知らせるポスターの写真が、田端と長野になっている。
「止めたんスよ! 僕は長野さんを止めた!」
田端は頭を振って見ないふりをしながら、一心不乱に走った。塀に「見てるぞ」「聖域侵犯」という貼り紙が増えていく。
夜のなかで、カラスが不気味に鳴いた。
長野の笑い声の合間に、かすれるような「たすけて」という声が混ざる。その言葉はあっという間に長野自身の声にかき消された。笑い声が一際大きく響く。
田端は電気のついていないM氏の家のインターホンを連打した。誰も出ない。
ぺたり──と、空から何かが降ってくる音がした。
田端が電線を見上げると、丸い月から、茶褐色の水飴のような何かが、てらてらと光りながらこぼれ落ちていた。
<おわり>
参考資料
ハワード・フィリップス・ラヴクラフト/ Wikipedia




