新年度
新年度の勤務先が決まった。西隣の署で知能・暴力係長をすることになった。車だと20分位で行けるので通勤が認められた。強行だと火事・変死での呼び出しが多いけど知能・暴力だとそれ程でもないから。
異動の内示があった。西隣の署で知能・暴力係長だ。まあ予想通りだ。今の署と今回異動した署以外の家から通える後2署は署員が30人未満の小さな署で事件の発生自体が少ないし、刑事課に係長は1人で何でも係だから情報の収集に時間を割けないので必然的にこの署になる。僕が重宝されるのはこの近辺に情報取集に役に立つ協力者が多いという理由オンリーだから。
僕の他には強行・盗犯係長と送致主任と鑑識主任が代わっていた。今休んでる強行・盗犯係が復帰しなかったので、今度来た署長が使えない地域主任を刑事にして強行・盗犯係を名目だけ地域係にしようと企てたのだが、代わらなかった強行・盗犯主任と地域課が断固拒否。
「あんな使えん奴刑事にされたら迷惑じゃ!あいつは私服でぶらぶらしたいだけじゃろう。毎日パチンコ行くだけの奴は要らん。」
「居らん奴事務分掌表に載せられても迷惑です。」
どちらも不同意。
去年来た巡査長は慣れてきて漫ろ悪癖が出、交通安全協会のお姉さんにちょっかいを出して署内の噂になっている。今は独身だから問題無いと言えばそれまでだけど。今度来る強行・盗犯係長は何か下手を打ったらしくて定年前に自宅を離れる異動をさせられたらしい。本部や大きな署で強行しかしたことが無いそうで
『儂が若かった頃は』
が口癖の御老体らしい。僕の後の知能・暴力犯主任も40歳を越えているらしいし、刑事課の平均年齢が一気に上がった。強行・盗犯主任頭を抱えている。
新しく配属される西隣の署は今の署よりもやや大きい。その署がある市は20年位前は僕の家がある市よりもずっと人口が多かったのだが今は急速に減少している。でも今の署は知能・暴力は2人だったが今度の署は4人居る。周辺の町が今の署よりも人口が多いせいかな。
係長と係は知能・暴力兼務だが、2人居る主任が知能と暴力を分けて受け持っている。そこまで厳密に職務を分けたら回らないから実際は何でもやるんだろうけど。たまに自分は自分の係の仕事しかしないと主張する奴が居て困るが、僕はそれを認める気は無い。
内示があった数日後に挨拶がてら引き継ぎを受けに行った。特に引き継ぐことは無い。此処は特にやり残した事件は無いし特段の実績を残しても無い。後始末をする事が無くて前と比較されるプレッシャーも無く結構な事だ。引き継ぎに来もしなかったと言われるのが嫌で行っただけだ。
僕の後に来ることになった知能・暴力主任とは特に引き継ぎは無く電話で、
「係長は代わっていないから分らない事は係長に聞いてください。」
で終わり。僕の後に来た人は今回選考昇任で主任になった人で、長い間刑事をしてきて大きな署で知能犯係をした事があるといった程度のキャリアの人で特に目立つ実績がある訳では無い人だ。電話では協力者を引き継いで欲しそうな口振りだったが、
「僕は遊び友達、飲み友達は居ても仕事だけの協力者はいませんよ。此処等の人は懐に飛び込んで一緒に遊べば自然と情報は入って来ます。」
協力者を探すならと、一応小料理屋と橋の袂のスナックの名前を挙げておいた。
「僕の情報は此処等で飲んで遊んで知り合いになった人達からが主です。今言った店の女将さんとママに気に入られたら協力者は自然にできます。結構お金は要りますけどね。日頃の付き合いもせずに情報だけをくれる都合の良い協力者は僕には居ませんよ。」
何か言いたそうだったが気付かない振りをした。こういう人は自力で協力者を作れる人では無さそうだから自分が後任に協力者を引き継いだことは無いだろうに他人の協力者は欲しがるんだ。正式に異動をして来た後、
「此処はええ協力者がようけ居って情報貰い放題じゃいうて聞いとったのに。」
と言ったらしく、それを聞いた強行・盗犯主任が、
「土居係長は此処に来た時何んの引き継ぎも受けとらん。情報網は1人で一から自力で作り上げたんじゃ。金も時間も使うてな。土居係長の協力者は土居係長が大好きで情報提供も協力もしてきたんじゃ。あんたみたいに自分の都合だけのくれくれマンが寄って行ったって鼻もひっかけて貰えん。」
今度の署長や副署長、刑事課長は初めて一緒に仕事をする人達だ。刑事課員は隣の署に5年居たから顔を知っている人も居るが親しい人は居ない。以前此処に居た中央署の最初の初捜班で一緒だった知能犯主任は一昨年本部の知能特捜に転勤している。今度の異動で管区学校の教官で転出した前知能特捜補佐に僕が推薦した。あの人が居てくれたら良かったんだけど。
異動前に元の署のJR駅と駅前のバス営業所に知り合いの伝手を頼って例の泥棒を職業にしている奴の行動確認網を作った。それまでは僕と係長が交代で駅とバスの営業所を回って確認をしていたのだが、係長も僕も異動したので動きが有れば本部の盗犯デスクに連絡が行く様に何とか連絡網を作り上げた。
泥棒を職業にしている奴は仕事に行くのに駅から列車に乗って出発するか、駅前のバス会社の営業所から路線バスに乗るかだ。県庁所在地方面に北上する時はJRで県外の最終の目的地までの切符を買うし、南下する時は駅前のバス停から県庁所在地と南隣の県の西端に在る市を結ぶ路線バスに乗り此の県の南方面で一番大きな城下町の市を経由して海岸沿いに県外の終点まで行き、そこから地元の路線バスか列車に乗り換えて仕事場を捜すみたいだ。
行確を始めてからずっと北上でJRばかりだったのだが4月中頃南行の路線バスに乗ったらしい。バスの営業所に頼母子仲間の知り合いがいたので僕が会って対象者の顔写真を渡し秘匿確認をお願いしていた。その人から本部にでは無く僕に連絡が来て、乗車時刻、切符の行先、終点到着時刻を教えて貰ったので一番最初に警部補任用科の同期生に連絡した。次いで本部の盗犯のデスクに。
僕が住んでいる街から路線バスだと南隣の県の終点まで4時間足らず。午後4時頃の到着か。犯行は大体深夜午前0時を過ぎてからなのでその間に見失うなよ、ドジ踏むなよ。
本部の盗犯デスクから電話があった。原票の配分の事だった。
「まだ気が早いんじゃないですか。」
「いやいや大事な事よ。」
「あれは前の署での事じゃから個人じゃ無くて署でしょう。」
「それでええん?係長個人が容疑者見付けて他所との話も付けて確認のシステムも作ったんよ。」
「いや、実績は個人じゃ無くて所属でしょう。捜査した時は前の所属やったんじゃから。」
「分った。そういう事で。」
「これで取り逃がしたら大笑い。」
「そうならん様に南隣の県に頑張って貰おう。」
僕は今は盗犯係では無い。良く知らない此処の盗犯係の実績向上に寄与するよりも、一緒にやってきた前の署の強行・盗犯主任の件数計上の手助けをする方が良い。
翌朝出勤したら警部補任用科の同期生から電話があった。
「捕ったど~!」
「やったなー!」
「土居係長のお陰じゃ。容疑者教えてくれて行確してくれて。夕べは完璧にうちの捜査網の中で踊ってくれた。うちの盗犯補佐が是非とも一遍飲みに来てくれ言うとった。」
「其処の人等と飲む程僕は体丈夫じゃないですよ。」
「何を言うとるん。一緒に飲んで強いん知っとるよ。飲む酒選り好みするのも分かっとるけんちゃんとええ酒用意する。」
「また機会が有ったらお願いします。」
「必ずやで~。」
うちの本部の盗犯補佐からも電話があった。今度の異動で僕の最初の初捜班長と代わった人で以前中央署の三課に係長で居たから言葉を交わした事があり、大人しそうな人だが結構件数を上げていたイメージがある。その人が、
『所轄主導の県を跨いだ共同捜査での効果的検挙事例』
という事で南隣の県と共同で本庁報告をすることになったんで、切っ掛けから教えてくれという内容だった。
警部補任用科で他県の盗犯デスク主任との出会いから打ち合わせと、自県で発生がない事件の容疑者に着目した理由等を教えてくれたら南隣の県とすり合わせて本部で形を整えるといった話だった。
容疑者を発見する以前の酔っ払い対応と、そいつのヤサを確認しに行って偶然容疑者を見掛け、周りを気にする様子等で窃盗を行っていると確信し他県の盗犯日報を繰ってそいつの手口に合致する現場を見付けたが自県での発生が無く手をこまねいていたところ警部補任用科で出会った同期生と共同捜査をする事にした経緯を前段にし、協力者にお願いして公共交通機関での利用状況通報体制を作った事とそれが機能して南隣の県に行く容疑者を把握できた事を後段にした。
それを部内逓送で送った処、最終的には検挙取り調べを担当する南隣の県からうちの県との連名で本庁に報告することになったそうだ。勿論内容についての確認を求めてくることになっているからそれが来たら僕にも見せるとの事だった。
この街に来て一番最初に以前からお世話になっているフェリー会社、水産会社に手土産の日本酒を持って挨拶に行った。喜んで貰えた。警部補任用科で無駄遣いしなかったので予算は十分。年末に貰ったお酒のお返しも苦も無くできた。大々的にして貰った昇任祝いと送別会のお礼も。
ゴールデンウイークも過ぎたので本格的に件数を拾うか。第1四半期の知能・暴力係は実績0だ。残り9カ月で最低80パーセント。できればノルマ達成が望ましいがまだこの街の様子が分からないので何とも言えない。
第一弾は暴力団の身柄からだ。発生は昨年末の事で発生場所は前の署管内だが被害者がこの署管内の居住者だったから転勤してからと思って抱えていた事件。僕のお得意さんの暴力団もどきが今も駅前付近に屯する新手のパンツのゴムが緩いお姉ちゃんを巡ってこの街の不真面目な有職少年をど突いた事件。
事情聴取はしたが被害届は保留にしておいた。本当はやった奴等は直ぐに分かっていたのだが、
「捜査して被疑者が判明したら被害届を取る。」
と申し向けて放置していて、転勤後一段落ついたので被害者を呼び出して此処の署宛に被害届を取った。最近やっと被疑者が割れた事にして、
「被害者は○○という男と✕✕という男だと聞きましたがこんな奴等は厳罰に処してください。」
という調書を録って。
早速何時もの汚い借家に朝駆け。被疑者が2人居るから留置場の若いのと刑事希望で週休の地域課の若い衆を連れて6人で。車両は自分達に宛がわれているものと留置被疑者護送用の赤色灯が付いたやつで。奴等の体面なんか知った事じゃ無い。署を代わっても此処等が僕の草刈り場であることを示す意味もある。
期待に違わず本件被疑者だけでは無く緩パンのおねいちゃんを連れ込んでいる他の奴が居た。以前痛い目に遭わされた教訓が生きているのか今日は誰も逆らわない。連れて帰る人数が多くなったが応援を呼ぶのもめんどくさかったので搬送車に男3人を押し込んで運転者の他に警察官3人が乗り込み、緩パンのおねいちゃんは警察官2人で捜査用車に乗せて連れて帰った。
僕がこの間までいた署に今度代わって来た署長が、自署で発生した事件で他所の署に暴力団登録がある奴を3人も連れていかれて怒り狂っているらしい。今度来た刑事課長大分嫌味を言われて弱っていると聞いた。強行・盗犯主任が笑いながら電話をしてきて一緒になって笑ってしまった。
この署は年間の暴力団検挙目標人員が6だ。前の署よりも大きい署で暴力専門の主任も居るのにたった1人多いだけ。前の署には一応組事務所の出店があったが、此処には暴力団登録がある奴が何人か居住しているが組自体は無いのでこんなものか。一気に50パーセント達成。去年は1人しか入れていない。それも飛込の傷害をパトの現行犯で入れただけだ。普通にしていたら去年の係長に後れを取る事は無いので気が楽だ。
主任と係が3人で被疑者3人を調べたのだが、主任2人は僕より捜査経験が長い割にはもたもたしてとろ臭い。何度か調書の訂正をさせて罰金で終了。阿保たれ共には
「また来てねー。」
と笑顔で釈放した。
前は朝から外をうろついていたが今回は係長になっているので午前中は署に居て午後から外回りをしている。何か魚を工面しようと思って水産会社に行くとそこの社長が、
「丁度ええとこに来てくれた。署に行こうと思うとったんよ。」
「何ぞ困った事?」
「もう何年も前から此処の市場で盗難事件が出とってな。競りに来た仲買が一寸目を離した隙に現金入りの手提げ袋を盗られるいう事案が出とるんじゃ。今朝も出てな、仲買はそこそこの金額の現金を持ち歩くもんじゃから結構な被害金額になっとるんじゃ。」
「それはいかんな。」
「被害届は出しとるんじゃけどこれまであんまり熱心に犯人探しをしてくれとらんもんじゃから犯人図に乗っとる。それで土居さんに相談してみようと思うたのがよ。」
「被害の時間帯は?」
「朝5時頃から7時頃の間。」
「明日から暫く僕がその時間帯来てみようわえ。毎日は来れんかもしれんけど週3回位は来れるじゃろう。」
「え、土居さんが自分で。」
「他人にやれ言うより気が楽やから。」
早速自前の作業服と長靴で翌早朝から市場をうろついた。水産会社が会社名入りの帽子と前掛けと手鉤を貸してくれていっぱしの市場関係者の振りでトロ箱の間を歩いてみた。初日は社長も来ていて、
「土居さん。競りが済んだら皆が居らんなる前にその手鉤で何でも好きな魚引っ掛けて持って帰んなはい。その帽子被っとったらうちに請求が来るけん。」
お言葉に甘えてやってみたら全然魚を引っ掛けられない。
「うーん。それじゃと市場関係者じゃ無いのが一発でバレるな。手鉤じゃのうて指さしてや、そしたら荷にするけん。」
「お手数掛けます。」
僕も当直等で毎日行く事は出来ないのだが、僕が行かなかった日にやられてしまった。僕が居ないので被害を電話で警察署に伝えたら派出所のお巡りさんだけが1人で来て被害届に署名をさせてさっさと帰ってしまったらしい。
暫く続けている内に1人気になる奴が出てきた。キョロキョロする目の動きと歩き方が何か不自然だ。社長にだけは気になる奴として伝えたが皆に知れるとそいつが気付くから他には言わないように口止めしてから。
ある朝少し離れた所から監視していたら、仲買のおっちゃんが荷物を置いて競りに加わったのを見てそいつが動いた。おっちゃんが置いた手提げ袋を手にしておっちゃんが居る方とは反対方向に歩いて来た。丁度僕が居る方向だ。通り過ぎさせた後右後方から右手首とベルトを掴んで取り押さえた。右腕を捻り上げて水産会社の事務所に連行。
被害者のおっちゃんの人相風体と競りをしている事を伝え競りが終われば此処に来て貰うように水産会社の従業員に伝えた。おっちゃん自分のバッグが無くなっている事に気付き慌てていたらしい。
初捜を呼んで現行犯人逮捕手続きをとった。自分の分掌する仕事では無いので盗犯係に後はお任せ。
結構長い間被害届を取るだけで放置していたものだから既届の現場が溜まっている。後は盗犯係が非侵入盗ではあるが原票を切れるだけ切って好きにすれば良い。
水産会社の社長さんすごく喜んでくれた。是非とも一献と言ってくれたので妻の決裁を受けてお招きに預かることになりこの街では一番と言われている料亭に連れて行って貰った。僕が若いからそう高級な店には行き慣れていないと思ったみたいで、自分の会社が納めている魚介類とこの街に古くからある蔵元が出している純米酒の説明をしてくれた。僕はこの酒が地酒だがなかなかいける事を知っている。
酒の温度を聞かれた。社長は冷酒での温度の積りだったらしいが僕が、
「日向燗でお願いします。」
と言うとちょっと首を傾げた。
「純米酒でも僕はこの酒は少し温めた方が好きなんですよ。」
「じゃあ儂も。」
良く脂がのったシマアジの刺身を食べて日向燗の此の酒を飲むとつい笑みが浮かんでしまった。
「ほんとじゃ。冷酒じゃと酒の切れがええけど、少し温めたら魚の味が引き立ってよう合う。土居さん通じゃね。」
「通という訳じゃあ無いんやけど口が卑しいもんじゃから。」
「何時も何処等で飲んどるん?」
「今の家が在る街では繁華街の中に在るおばちゃんが一人でやってる小料理屋だけです。」
「へー、其処は有名なん?」
「いや有名では無いけど、家賃も人件費も要らんから良心的でいい材料を使ってくれますよ。特に田舎風の巻きずしの巻き方が絶妙で、口の中でふわっと崩れる美味しさは絶品ですよ。」
「儂も一遍行ってみよう。その他は?」
「ちょっと遠いけど東の方のそこそこ大きな市に在る天桜いう店の大将に良くして貰っています。それと県庁所在地の若竹の女将さんにも。」
「えー、どっちも有名な店や。そこの常連?」
「常連いう程では無いけど良くして貰ってます。」
美味しそうに楽しそうに食べて飲んでいたらすごく喜んで貰えた。
「ええ顔して食べるし飲むなぁ。一緒に居るものまで楽しゅうなる。」
出てくるもの皆美味しそうに平らげたらすっかり気に入ってくれた。
その店を出たら、
「もう1軒だけ。」
と言われて、まだ最終便まで時間があったので連れて行って貰う事にした。
「この街のスナックは婆ちゃんばっかりじゃけど、次行くとこだけは若いまあまあましな娘等が居るんよ。」
案内されて店に入ると確かにまあまあ若いホステスさんが揃っている。カウンターに座るとママらしき人が前に座った。社長は此処の常連で上得意みたいだ。
「あのぉ、お客さん土居さんですよね?」
「え、僕この店来るの初めてなんじゃけど。」
「私土居さんが住んどる街の橋の袂に在るスナックのママとは昔一緒の店で働いた事があって今も付き合いがあるんですよ。前にママに会いにあの店行った時お見掛けしてええ服着とる人やな思うてママに聞いたら刑事さんやいうて聞いて、お店のトラブル片付けてくれたり若い娘紹介してくれたりして本当にお世話になっとるいうて聞いてました。」
「えー、土居さん遊び人やったが?」
「違いますよ。名も無く貧しい公務員です。」
「あの時着とったスーツ高そうやった。今日のスーツも仕立てが良いしええ生地・ええ色で体に合っとるし。」
「うん儂もええ服着とるとは思うたんじゃ。靴も高そうじゃし、腕時計が普通の若い公務員がする時計じゃないし。」
警部補昇任で一人前と認めて貰い、この処の実績と、警部補任用科の優等で先輩達よりも一寸上等の高級時計を褒美に貰えた。今日はそれを着けている。ママさんが、
「土居さんは県庁所在地の舞の常連じゃいうてあの店のママに聞いたんじゃけど?」
「常連と言う程は行ってません。時々行く位です。僕そんなに飲みに出ないし余りあちこちには行きません。こういうお店で自分でお金払って時々行くのは、ママさんのお友達の橋の袂の店と、県庁所在地では舞と、東の方のノワール位です。」
「舞もノワールも有名やん。」
「土居さんは何か一寸違うと思うたんよ。今日最初の店で飲んどる姿見たら中々堂に入ったもんじゃった。」
「僕は山奥の水吞百姓の小倅なんですけど、刑事に成った時最初に付いた主任さんが頭脳明晰で度胸があって教養があって男前で背が高こうてお金持ちで非の打ち所がない人やって、その人の真似をしとるだけなんです。橋の袂のママさんが昔働いていた店で高いウイスキーをオン・ザ・ロックで飲んどったらしいですよ。」
「え、私もその店に居ったんよ。背が高うていつもいい服着て高いウイスキー飲んどる刑事さんがお客さんに居ったの覚えとる。私等にこの商売の手ほどきをしてくれたあの店のママはあの街の旧家に生まれた人で、戦前に日本女子大学校で教育を受けて和歌や美術に造詣が深い人やったんよ。あの刑事さんも美術や古典芸能や古典文学が好きでママと話が合うたもんじゃからあの人の相手は何時もママじゃった。ママもあの人が来ると嬉しそうでね間が空くと寂しそうやった。土居さんあの人の部下じゃったん。」
「ママさん達同じ店に居ったんですか。」
最終の特急の時間まで飲んでお礼を言って帰宅したら何時もの様に義弟がリビングで寝ていた。僕も風呂に入り缶ビールを飲んでリビングで寝た。
数日後天桜から送って貰った新潟の銘酒を1本下げて水産会社を訪ねたら大歓迎を受けて、
「また是非飲みに行きましょう。機会が有ったら若竹に連れて言って欲しいんじゃけど。田舎の漁師には一寸敷居が高こうて。」
「はい。立て続けに飲みに出ると嫁さんが怖いけど来月なら競輪がてら行けますよ。鱧が美味しい頃になったんで若竹で落としと端麗辛口の純米吟醸を涼冷えで。」
「ええなぁ。必ず連れって行ってよ。それはそうと土居さん競輪するの?」
「下手の横好きじゃけど。」
「実は儂も好きなんよ。」
「月に1回は好きに出かけて遊んで良いと言って貰ってるから、競輪やってる日を選んで行きましょう。日曜日は若竹休みやから土曜日の初日にでも。」
「うん、うん。楽しみができた。」
そうこうしている内に本部の盗犯デスクからこの間まで居た署に共同捜査の検挙原票の分け前が来たらしい。うちの県への配分は全て僕がこの間まで居た署に来て30件以上あったそうだ。前の署の強行・盗犯主任から電話があり、
「これ全部うちが貰うてええん?そっちは取らんの?」
「僕は今窃盗の原票要らんもん。それにその事件やったんは其処に居った時の事じゃけん。」
「知っとると思うけどうちの侵入盗の発生は年間40件位じゃ。今年1年食い物の心配せんでようなった。役に立たん係長押し付けられて検挙実績如何しようか思うて頭抱えとったとこじゃ。盗犯だけはお蔭で何とかなった。土居係長が居らんなって知能・暴力は首になった奴が居った頃と一緒になっとって、うちが今年のワースト刑事課になるんを覚悟しとったんやけど儂のノルマはお蔭で何とかなった。」
「係長今居らんの?」
「いや目の前に座っとる。2人共一日中座ったままで道端に居る石のお地蔵さんと一緒じゃ。目の前に居ったら腹が立つけん居らんなってくれたらええんじゃけどな。」
前々から思ったことを本人の前ではっきりと言う人ではあったがよほど腹に据え兼ねてるんだな。
「カッカ来過ぎると頭の血管切れるで。」
「うん。毎日異動したい異動したい言い続けとる。」
「其処の責任者は係長なんじゃから全部お任せして後は野となれ山となれ作戦で如何?」
「そうしようわえ。」
夏季休暇を取れる時期が来た。自分の係に積極的に休暇を取得する様に奨励して自分も率先して1日取得。暑い日だったが娘をベビーカーに乗せて外出をする事にして、暑さ凌ぎに駅前にある総合スーパーに行く事にした。
娘と妻の服を選んでいると橋の袂のスナックのママに出くわした。こちらが家族連れなので遠慮をしている様子に見えたのでこちらから近づいて挨拶を。妻に、
「お義父さん共々お世話になっているスナックのママさん。」
と紹介したら妻が腰を折って丁寧に挨拶をしてくれた。
その何日か後定例の頼母子に行った。頼母子の日は、
「協力者と会う。」
と言って退庁時刻がくると直ぐに帰宅して、娘の御機嫌伺をした後急いでシャワーを浴びて着替えてから小料理屋に向かう。着くと早速橋の袂のスナックに時々顔を出す土建屋さんが、
「ママに聞いたで。奥さん丁寧に挨拶してくれた言うてすごい喜んどった。旦那が行きよるスナックのママは普通は敵なんじゃけどな。」
「僕はこれまで怪しい行動を取った事が無いもんで。何でも早目早目に報告するし。」
頼母子の後土建屋さんと久し振りに橋の袂のスナックに行った。行っていない間にも毎月伸子へのささやかな手当ては出している。これまで結構良い情報をくれているし。
仲間の後ろから店に入るとほぼ満席だった。カウンターを詰めて貰い座ると、ママと伸子が急いで僕達の席に来た。
「こんな混んどるのに2人も来たら他のお客さんに悪いやん。」
「ママ他所の席お願い。」
「由紀が行ったら。」
「土居さんもてるなぁ。」
転勤先の街に在るスナックのママから電話が有ったらしい。
「時々は行ってあげて。ええ人やから。」
「うん。課の飲み会がある時には寄ろうわえ。自分の部下にも時には奢っとかないかんけん。」
次から次にお客さんが来ている。早々に退散した。
妻の決裁を受けて朝から特急列車に乗って競輪に行ってその後若竹に。暑い日だった。初日予選日の競輪も中々熱かった。現場に行くのは久々だったが礼儀正しい競輪場は久々の客を優しく手厚くもてなしてくれて若竹と舞の勘定が十分出た。連れの水産会社の社長は10万円位負けたみたいだが気にしている様子は無い。
レースの途中久し振りに石原部長の馴染みの売店に行ってビールを飲んだ。
「久し振りやね。元気にしとったん?」
「はい。あれから東に西に飛ばされて、東は隣の県の競輪と競艇があったからよかったけど西は何も無いんで退屈してます。」
「最近お客さんが減ってなー、うちらもやって行けん。」
「電話投票でですかね?」
「元々年金暮らしの年寄ばっかりで若い客は来んなっとったけんねぇ。」
串焼きは謎の肉が怖かったのでおでんにしてラガービールを貰って飲んだ。社長も暑かったのかビールを一気飲みしている。
最終レースが終わった後繁華街の一角に在る入浴施設で汗を流してから若竹に。社長背中に絵が描いてある。よく追い出されなかったな。
早目に行ってカウンターなら大丈夫だと思い若竹には行く事を言っていなかったのだが歓迎して貰えた。水産会社の社長を紹介したところ、若竹が魚を入れている鮮魚商は社長の会社からも仕入れをしているらしい。
「この前送ったマトウダイは社長から分けて貰ったんですよ。」
「そうなの。うちの冷蔵庫で少し熟成させて出したら参事官も元巡視員もすごく喜んでたよ。」
「良かった。皆割と厳しいから。」
それを聞いて社長も喜んでいた。
カウンターに座り当初の予定通り最初に鱧の落しを頼んだ。辛口の純米吟醸を涼冷えでと思ったら女将さんが、
「その前にこれを。」
と言ったので、最初は女将さんお勧めのシャンパーニュを。
「土居さん此れの素性は?」
「うーん。ピノ・ノワール40、シャルドネ40、ピノ・ムニエ20のエペルネ界隈。」
「エペルネより少し東でピノ・ノワールが45、ピノ・ムニエが15。まあ合格じゃね。尚美のチョイスよ。洋美さんは一寸嫌がるかな。」
「確かに口当たりが石原部長には良過ぎますね。」
「土居さんワインも詳しいん?」
「いいえ、女将さんや女将さんの兄貴分御夫妻に教えて貰ってやっと味を楽しめる様になった程度です。」
そのシャンパーニュに合わせて鱧の肝のしぐれ煮を頂いた。肝のほろ苦さと良く合う。次いで鱧の落しとリンゴの香りがするやや辛口の純米吟醸を涼冷えで。その後は女将さんと花板の勧めであれこれ料理とお酒を出して貰い社長がすごく満足してくれた。
「これからも時々来させて貰うてもかまんですかいのぉ?」
「是非ともご利用ください。」
今日勝っているから今日の支払は僕が。社長が出したがったけど、
「一緒に博奕をしたら勝った方が出すのが決まりです。」
「えぇー、そがいな決まりがあるがぁ?」
「はい。お金出したかったら博奕の腕を磨いてください。博奕打ちは勝った奴が正義です。」
「分った。今度は儂が勝って奢る。」
「お願いします。」
舞に行った。女将さんが電話を入れてくれていたみたいで店に入るとカウンターに席が出来ていてスコッチが用意してあった。30年ものだ。女将さんとママが気を使ってくれたんだな。
「土居さん、いつもこがいなええウイスキー飲んどるが?」
「今日は大事なお客さんと一緒じゃから女将さんとママの気遣いじゃと思います。」
「ホ~………。」
馴染みのホステスさん達が入れ代わり立ち代わり前に来てくれて社長の相手をして楽しませてくれた。フルーツ、外国製のビターチョコレート、ナチュラルチーズ等高そうな摘みも一杯出た。
酒が少し回った社長は上機嫌。此処でもママに、
「次から儂だけで来さして貰うてもかまんですかいの?」
「勿論ですよ。土居さんの大切なお客様ですから。」
社長すごく喜んだ。
「儂は今でこそ水産会社の社長じゃの言うとるけど、素は漁師ですけん。今は寂れとるけど賑やかやった頃の儂の街の上品ぶった店で漁師風情は馬鹿にされて店に入れて貰えんかった。いやぁやっぱり一流の店は違いますなぁ。儂ら風情でも丁寧に接客してくれる。」
「社長さんはうちの身内同然の土居さんのお客さんやから大歓迎です。」
帰りの最終便の時刻が迫って来たのでお暇することにした。社長一寸名残惜しそうだ。此処の勘定は伝票にサインだけで。財布を出したら僕の割引会計がバレてしまう。此処も社長が払いたがったが、
「勝ってからです。」
ママがわざわざ道路まで出てくれて見送ってくれた。タクシーで駅に着くとまだ少し時間があった。社長が自動販売機で缶ビールを買ってくれて、
「いやぁー、今日は楽しかった。久し振りじゃこんなに気分良う遊んだんは。御馳走になってしもうたな。」
「僕も楽しかったですよ。また行きましょうね。今度は競艇に行って帰りに天桜でも。次は勝って奢ってください。ぼやぼやしとったらまた僕が勝って奢りますよ。」
「いや次は絶対儂が勝って奢る。」
今日のレースの事や、これから獲れる魚美味しくなる魚の話をしている内に僕が降りる駅が近づいた。降りる時若竹に行く前に繁華街にある人気のお菓子屋さんで若竹と舞にお土産を買った時一緒に買っていたフィナンシェとマドレーヌの詰め合わせを渡した。店へのお土産の他に家と妻の実家用と一緒に買っていたものを、
「此処の焼き菓子評判良いんですよ。お家にどうぞ。」
と言って渡してから降車した。
何日か後に外回りの途中水産会社に寄ったら社長が満面の笑みで迎えてくれた。
「いやー、あのお菓子嫁と子供が喜んでな。儂は飲みに行ってお土産買うて帰った事なんか無かったもんじゃけん。土居さん中々の気配りじゃね。」
「嫁さんや子供大事にせんとって寂しい老後は嫌ですけんね。」
泥棒を捕まえてからすごくフレンドリーになってくれていたのだが一緒に競輪に行ったらそれが一層。今日は近隣の漁協の話になって、この市のどうも社長とは反目の漁協の専務理事の悪口になった。
そこの漁協の組合員の中に社長と親しい漁師さん達が居るのだが、その専務理事がその人達を目の敵にしているらしく、その人達を冷遇し自分の取り巻きの漁師たちを連れて度々飲みに出ているらしい。
「漁協の金を自分の小遣いの様に飲み代にしやがって。」
と言っている。一寸面白い話かな。
署に帰ってその漁協の基礎資料をと思ったのだが見当たらない。前から居る知能主任のその事を聞いたら、
「そんなもの有りませんよ。」
駄目だこりゃ。
翌日また水産会社に行って近隣の漁協や関係団体の名簿や事務分掌表をコピーして貰った。その名簿から専務理事の人定をまずは運転免許証で探し、その名前・生年月日で総合照会を掛けると
『窃盗(かっぱらい・その他)』
の前歴があった。ついでに水産会社の社長を照会すると若い頃に
『傷害』
で2回罰金を払っている。窃盗犯・経済犯や性犯は駄目だけど若気の至りの罰金程度の粗暴犯は問題無い。僕的には。
金融機関に照会を掛けたら数日後回答があり、専務理事に給与以外の入金は無い。嫁さんに事情を説明し、
「一寸探りを入れたいから帰りが遅くなる時がある。」
と伝えたら即答で了解してくれた。
執務時間終了後数日漁協を張っていたら専務理事達が数名連れだってタクシーで市内方面に向かった。署からそう遠くない小料理屋に入り、其処を出たらこの前社長が連れて行ってくれたスナックに入った。
数日後列車で出勤し勤務終了後署の近くの小料理屋で真鰺の刺身でビールを飲んだ後頃合いを見計らって前に一度行ったスナックに。今日は生成りの麻のジャケットとライトブラウンのコットンパンツ。勿論お下がり。白色リネンシャツ、明るい茶色のグルカサンダル。その服に石原部長のお下がりのパナマハット。今日の時計は最初に貰ったやつ。
ぶらりと通り掛かった振りで店に入るとまだ早い時刻なのに結構客がいる。カウンターに座ると早速ママが来た。
「今日も素敵な服装ですね。時計も此の前のとは違うんですね。」
「型が古いけど気に入ってます。」
「綺麗に使い込んだ高級品は何とも言えん艶がありますよね。」
「綺麗なママが居る洒落た店に来るのにダサい恰好では来にくいけんね。」
「まあ、お上手。」
そこそこのボトルを1本入れてハイボールを作って貰った。
「ハイボールが好きなんですか?」
石原部長の真似をしてオン・ザ・ロックで飲んでいたら
『様になら無い・似合わ無い・絵になら無い』
と言われて止めたとは言えないから、
「県庁所在地の古いバーで飲ませて貰ってから嵌まってしまって。」
「其処って御夫婦がやってるカウンターだけのお店?あそこのハイボールと比べられると困るんやけど。」
「そんな事無いですよ。」
「やっぱり土居さんお上手やわ。」
いきなり他の客の話はできないので今日は様子伺い。
それから時々その店を覗いている内に少しずつ客筋が分かって来た。途中社長とばったり会ってしまい、
「土居さん、此の街で飲みに出とるんなら誘うて貰わんと。」
「忙しそうな人に時間取らすんもあれじゃから。」
「この街でもよう飲むん?」
「まだこの街がよう分からんから街の様子伺いに時々。社長みたいな有名人と一緒やと様子伺いがしにくいけん1人でこっそりと。」
「ふーん。」
見付かってしまったら仕方無い。家に遅くなることを伝えお付き合いをした。
「街の様子伺い言うとったけど、飲み代お上から出るん?」
「出ません。自腹です。」
「其れ大変じゃろう。」
「言われた事だけをするか、身銭切ってでも自分でネタを探して仕事をするか、まあ単なる意地ですけどね。」
「なるほどな。ママ、此の前儂土居さんと県庁所在地で飲んだんよ。一緒に競輪した後に若竹いう店と舞いう店とどちらも高級な店梯子して全部土居さんに払うて貰うた。」
「へー、いつも奢る側の社長が。」
「これまで警察の偉い人等と付き合うた事もあったが、皆奢って貰うんが当たり前いう人等やった。土居さんは違う。此の前
『儂が払う』
言うたら
『払いたかったら博奕の腕上げて勝ってからにせい』
言われた。競輪土居さんは勝って、儂は負けたもんじゃから。」
「まあ。でも2人とはいえ若竹と舞のお勘定じゃから若い勤め人には気軽には出せんですよね。」
「うん。若竹は女将と花板がええもん一杯出してくれた。酒も料理も。舞で出たんが30年物のスコッチと摘みはフルーツと外国製のチョコレートと見た事も無い舶来のチーズじゃった。ホステスさんが順繰りに交代で席に来てくれたしママが道まで出て見送ってくれた。」
「すごい。」
9月1日がトロール漁の解禁日なので8月31日午前8時から解禁日に漁場に着く様に出発するトロール漁船の出発式があって、僕も社長が呼んでくれたので夏季休暇を取得して港に行った。僕の家の近くに事代主命を御祭神とする神社が在るので、其処に銘酒5本を持ち込み大漁と海上安全のお祓いをして貰って、授与された大漁と海上安全祈願の御札5体と一緒に今日持参した。その神社はこの県で一番賑わう十日ゑびすの祭祀が行われている。社長の処は2統4隻のトロール漁船があるので夫々の船と事務所の分を。社長も会社の人達も大喜びしてくれた。どうせ飲み会になるだろうと思い重い荷物を下げて朝早くから特急列車に乗った甲斐があった。
出航をを見送った後は会社に帰り会議室で飲み会が始まった。社長と奥さんが僕の処に来てくれて、
「土居さん、ゑびす様のお札とお祓いを受けたお酒持参とは恐れ入りました。ちゃんと船名を調べてから神社に行ってくれたのがじゃねぇ。」
「家の近くの神社で、代々ずっと生糸の商いをしていた嫁さんの実家が崇敬している商売繁盛の神様でもあるんです。安産も守備範囲らしいんでうちの娘の安産祈願もして貰いました。」
「土居さん信心深いのが?」
「基本的に罰当たりですけどね。」
「この間は拝んでから行ったん?」
「もう長い間勝負事のお願いはしてません。御利益があった例が無い。それに元々あの神社は博奕の御利益は無いみたいやから。」
「ははは。」
スナックのママさんも来ていた。夜が遅い仕事の人には一寸厳しい時間かな。女の人はお拵えにも時間がかかるし。
「ええお客さんになりそうな人も来るんで気張らんとね。」
「成る程。」
「今日も良い服着てますね。」
今日の僕は先輩の結婚式に仕立てて貰ったアズーロのスーツ。茶色のストレートチップを履いて来た。まだ少し暑いけど今日は市長以下この街の顔役が来ると聞いたので位負けしないように勝負服で。
「一番の気に入りなんじゃ。もう少し涼しゅうなっての方がええんじゃけど今日はママが来ると聞いたんで。」
「まあ、やっぱり土居さんお上手。」
「ハハハ、嘘くさい?」
「奥さん綺麗で上品な人で、土居さんが大事にしとるいうて聞いとるけん。」
ママは会場内をひらひらと飛び回り営業に余念がない。僕は会場の隅でビールを飲みながら出席者の観察。社長夫妻は主催者だから出席者に挨拶に行ったり挨拶を受けたり。敵のはずの漁協の専務理事も来ている。事務員さんに聞くと近隣の漁協には全部声を掛けているのだそうだ。
挨拶をしたり受けたりしている社長は割と分かり易い。相対している姿で僕が見ても敵と味方が良く判る。市長他の首長達、近隣の県会議員、市会議員、町会議員等が居るが、首長達とは悪くなさそうだが市会議員の中には明らかに仲が悪そうな奴が居る。事務員さんに出席者の名前を一通り教えて貰った。後で名簿をくれるそうだ。
社長と反目の漁協の専務理事は寄っても行かない。明らかに社長と仲が悪そうな議員の内何名かと談笑している。教えて貰ったそいつ等の名前を記憶に叩き込んだ。
昼前に会場を出て港から繁華街の方に歩いていると、昼休みに外に出て来ていた知能犯主任と知能・暴力係に出くわした。
「何事ですか。今日は休暇でしょう?」
「明日解禁になるトロール漁の出発式に行っとった。」
「ええ、どうやって紛れ込んだんですか?」
「ちゃんとお招きを受けて。じゃから休暇を取った。」
昼飯を食べに行く処だと言うので一緒に行く事にしてお昼を奢って僕はビールを。
「係長は協力者が仰山居るいうて聞いとったんじゃけど此処にも前から居ったんですね。」
「違うよ。事務員さんとは知り合いじゃったけど社長とは来てから仲良くなった。」
「どうやって?」
「頼まれた事を嫌がらんと地道に何でもやる事からやね。」
「こないだの市場の張り込みの事ですか。」
「そうじゃね。何かをするから何かをして貰える。前の署でもその前の署でもそのまた前の署でも知り合うた人とは誠実に付き合いをして来た。その署を出たら終わりじゃのうてその後も何かと連絡を取ったり珍しものが有ったら贈ったり。」
「お金が掛かるじゃないですか。」
「贈る物は自分が川で獲った鮎やアマゴの焼き干や、山で獲った茸や山菜を干した物じゃからお金は余り掛けて無い。」
「でも付き合いにお金が掛かるでしょう。」
「うん。そうやって知りおうた人等がバブルの間に蓄財の指南をしてくれた。それをまた付き合いに還元しとる。」
「係長若いのに借金無しで立派な家を建てたと聞いたけどその時のお金ですか?」
「うん。それまでに倹約して貯めとったお金を経済に詳しい協力者に教えて貰うた通りに運用したらそこそこな金額になったんで家を建てたり交際費にしたり。バブルは弾けたけど株価が下がったところで堅い株を買うてその配当が小遣い位にはなっとる。」
【一寸事実を変更。石原組の捜査費は秘密なので】
「はあー、儂等には無理じゃ。」
「儂も1人では何も出来んよ。遊びを教えてくれる人、蓄財の手助けしてくれる人、事件情報をくれる人皆協力者じゃ。そういう人等に困った事があったらこちらもできることは積極的にする。それだけ。」
黙って座ってるだけでは美味しい餌に有りつけないのだという事が分かっただろうか。でも前の係長もその前の係長も目の前に流れてきたものしか扱わなかったらしいしな。それで給料がもらえるのなら無理はしないか。
昼休みが終わり店を出て僕は駅から丁度やって来た普通列車で帰宅した。帰って着替えて娘をあやし、一緒に昼寝をしてその後掃除をして夕食の準備をし、実に幸せな午後を過ごした。
翌日出勤すると僕に係が、
「係長一寸お話があります。」
「何んの?」
黙ってる。
「調べ室で聞こうか?」
話は仕事の不満だった。係はこの署で刑事に成った初心者だ。刑事に成って3年目らしい。捜査係になってから逮捕被疑者の取り調べをしたのはこの前の暴力団もどきが初めてらしい。もっと被疑者を捕まえて取り調べや送致の経験を積みたいらしいのだが先輩達は一日中課の中に居るし、午後になったら出掛ける係長は何をしているのか分からないし。
係は、
「僕も情報の取方を覚えたいです。先輩2人は殆ど外に出んし、係長は一人で出掛けて何も教えてくれんし。」
「そうやね。儂は団子になって行動して情報収集をするのは苦手じゃ。好き嫌いじゃ無くてやりにくい。協力者は儂じゃから話してくれることが多いんじゃ。横に見ず知らずの者が居ったら言う事があっても言わんというのはよくある事じゃ。それと情報をくれる人等は夫々仕事がある。必然的に時間外の活動が増える。水飲んで公園でベンチに座ったんじゃあ話も弾まん。部下に
『時間外に身銭切って情報収集をして来い』
とは言えんしな。」
「いや、昼中もよう出歩いとるじゃないですか。」
「あれは基礎資料の収集が主じゃ。事件情報だけを嗅ぎに行っとる訳じゃ無い。此の前
『漁協の基礎資料を』
言うたら
『そんなもの有りません』
言われたんはショックじゃった。一事が万事でそんな事さえして無いもんに情報収集の重要性が分っとるとは思えんし、増してや
『時間外に身銭切れ』
とは言えんわな。」
「………。」
「昼中基礎資料を集めて整理して、事件情報は毎日では無いが夜協力者に会うたり気になる奴の行動を洗いに行っとる。知能犯罪いうのは遊ぶ金が欲しゅうていう動機が多いからな。まあ昼中の基礎資料集めには付いて来てもええけど夜事件情報捜すのに同行は一寸。」
「………。」
「儂やって君の歳の頃から今みたいな仕事ができとった訳じゃ無い。初っ端は強行、次の署では強行・盗犯、前の署に代わってきた時はじめて知能・暴力になったんじゃ。その時の係長は交通しかしたことが無かったやる気が無い素人で何の役にも立たんかった。儂は単独で一から協力者作りを始めた。今居る協力者作るのに周りの一般の人等からの協力は一杯受けたが警察官からの協力を受けた覚えは無い。」
「如何やったらええんでしょうか。」
「少し考えて見んか。
『こういうやり方はどうでしょう』
言うてきたらそれに対するアドバイスができる。考えんもんには何を言うてええか分からん。まずは考えろ。そして動け。指示されるんを待っとるだけでは面白う無いと思うんじゃがの。」
「分かりました。」
その日の午後外回りに連れて行ってやった。先輩のお父さんの知り合いで市役所の水産港湾課長をしている人に会って管内漁協の事や事業について教えて貰って資料の提供を受けたり今後の見通しを教えて貰ったり。
係はこれまでこんなことをした事も無ければこういう捜査が必要だと考えた事も無かったみたいだ。情報の収集というのは事件情報だけを集める事だと思っていたみたいだ。
「知能犯罪は被害者が分かりにくい犯罪なんじゃ。犯罪を犯しとる者もそこそこの知恵があってそれを隠そうとする。黙って待っとっても転がり込んでは来にくい。こうやって基礎資料と情勢を調べながら大勢の人と顔繋ぎをしとったら事件情報に繋がることを言うて貰えるかもしれん。何かあった時こうやって集めておいた基礎資料が役に立つ事もある。儂がこれまでやって来た贈収賄も横領も選挙違反もこういう積み重ねで検挙した、こういう積み重ねで探し回って儂が引っ張り出さんかったら埋もれた儘やった。」
「如何やったらそれを見付ける事が出来るんですか?」
「其処を自分で考えろと言うとる。犯罪の端緒把握は千差万別で決まったパターンは無い。協力者達と一緒に遊んで他愛もない話をしとる内に何か自分の勘に触った事を嗅いで回る。大概はゴミじゃがたまに餌に当たる。その繰り返しじゃ。最初に嗅いだものが一発でご馳走じゃったいう事はまず無い。まずは協力者じゃ。協力者は道で拾えるものでも他人から貰えるものでも無い。自分が捜して獲得するもんじゃ。まずは其処からやな。これまで儂の協力者を盗ろうとした奴も結構居ったが誰も上手くいかんかった。儂に内緒で近づいてみたが一発で蹴り飛ばされたり、署長を使うて
『譲れ』
言うてきたバカも居ったが、そんな奴等は論外じゃ。その馬鹿の1人が首無し拳銃で首になった奴じゃ。
僕も駆け出しの頃、
「先輩いうんは後輩の面倒を見るのが当たり前でしょう。」
なんて言った事があった。この若い係がそう思っていてもそれを責めることはできないが、
「取り調べや書類の纏め方等の形を整える捜査技術は教える事が出来るが、人は十人十色で他人との付き合い方をなぞる事は出来ん。そこは皆夫々のやり方で協力者を作っとる。それができた奴が有能な捜査員と言って貰える。」
暫くして飲みに連れて行ってやった。漁協の専務理事が顔を出す署に近い小料理屋と社長に教えて貰ったスナックと。単に飲みに来ただけの風で。店にも僕の目的は悟られていないので普通に美味しい魚を食べて、ハイボールを飲んでママや顔なじみになったホステスさん達と談笑して。係は夜に連れ出して貰っただけで満足している。今日は専務理事はいなかったが専務理事と仲が良さそうで社長と反目に見えた市会議員が連れと飲みに来ていた。ちらりと置いてあるウイスキーのボトルを見ると専務理事の名前が書いてある。僕達の前に居たホステスさんが小さな声で、
「私あの人等の席は嫌なんじゃ。直ぐに触って来るし。何時来ても勝手に他人のボトル出させて勘定もその人に付けて帰るし。」
「付ける相手は色々居るん?」
「いつも同じ人。」
「ふーん。その人毎月相当な金額になるじゃろうね。」
「うん。この店だけで並のサラリーマンの1ヶ月分の給料より多いみたいよ。」
一緒に居る係は僕が何でそんな事をさり気無く聞いているのかに思いが至っていない。
少し涼しくなった頃この件を課長に話した。飲み代は漁協にでは無く専務理事に請求をさせている。専務理事の口座には給与以外の入金は無い。概算ではあるが毎月の飲み代が給与よりも大分多い。妻が働いている様子は無い。実家が援助している風も無い。
何の心配をしてるんだか課長は腰が引けており、腰が引けた課長から説明を受けた署長も腰が引けている。
「ゴーサインが出んのなら知能特捜にこの件を引き継ぎます。署長も課長も腰が引けとるけんいう理由で。知能特捜が事件挙げたら格好がつかんですよ!」
それは避けたかったのか渋々とゴーサインを出した。
「責任は土居係長が取れよ。儂等は反対したんじゃけん。」
「はい。はい。」
自分の係員に事案の概要を説明した。朝出勤時に身柄を攫って僕が叩き割る。自供を得て逮捕状と捜索差し押さえ令状を取って翌日漁協へのガサ。漁協自体は横領の被害者だけど辛抱して貰おう。知能主任が、
「調べは儂がします。」
「これまでの経緯や被疑者の行動を分かって無いのにどうやって?」
「儂のこれまでの経験で。」
「そんな危ない橋は渡れん。」
翌朝出勤のため家を出た処で任意同行を求めた。朝が早い漁協の仕事だから出勤もそこそこ早い。時間勝負の叩き割には好都合。調べ室に入れて容疑と供述拒否権を告げた後矢継ぎ早に僕が持った疑問をぶつけて行った。係にも調べに立会させた。刃物で突くような僕の調べに被疑者も係も面食らっている。昼前には完落ちした。主任達に逮捕状と捜索差し押さえ令状の請求を指示したのだがもたもたして進まない。こんなんでよく調べをするなんて言えたものだ。
殆ど僕が手続きをした。こいつ等は使えない。判事に説明も出来ないだろうから令状請求も僕が係を連れて自ら行った。主任は無能を自覚したのか自分が行くとは言わなかった。僅かな補足説明で令状は出た。翌朝漁協へのガサをかける事にして他の係からの応援を要請。午前8時に着手予定で集合時刻を決めて解散。
翌朝はすんなりと欲しい帳簿が手に入った。報道を引き連れて行ったから仕事をしているアピールにもなったし。知能特捜補佐から電話があった。
「やるならやると言うといて貰うたら良かったんじゃけど。」
「被疑者1名の単純な横領じゃし、それにうちの知能主任帳簿が読めてなかなかやるんで手を煩わす程の事じゃ無いと思いまして。」
知能主任の目の前でそう言ったものだから主任満足そうだ。チョロい。
夕方管区学校の教官になっている前知能特捜補佐から電話があり、
「難しい事件じゃ無いのは解っとるけど次からは一寸だけ嚙ましてやってくれ。何もネタが無いけんあいつも肩身が狭いんじゃ。」
「分かりました。以後気を付けます。」
勾留はすんなり出たし。逃げ様が無いと悟ったのか調べにも素直に応じている。親族から金を集めて被害弁償の手続きも取っているらしい。当然の事ながら職も失う。被害弁償と社会的制裁が揃ったから執行猶予だ。調べ官として不満はない。こんなものだ。
勾留後は連れて来た時の様な威圧的で刺す様な取り調べでは無く優しく諭す様な調べに代わり、立会させている係は戸惑っている。
「調べは一本調子ではいかんのじゃ。緩急つけて被疑者が一番うたい易い状況を作らないかん。
『自白は証拠の王』
じゃからな。でも冤罪を生むのも自白からやから圧迫し過ぎてこちらに迎合させるのは危険じゃという事を忘れたらいかん。」
係がそのことを課内や独身寮で喋るから皆の僕を見る目が変わって来ている。情報入手に長けているのは解っていたが調べも厳しくて抜けが無い。この課の中でも文句なしに一番だと認識されてきている。僕は石原部長やこの県の東方面で刑事課長をしている先輩のきつい取り調べを目の前で見て来たんだから。東端の署で刑事課長をしていた兄貴分は今年度から天桜が在る街の署で刑事課長をしている。課員がこの署の捜査員みたいな温い仕事や調べをしたら許さないだろうな。
署長と課長は着手前とは打って変わって上機嫌。今年から刑事部参事官になっている僕達の若頭には着手前の言動を全て伝えてある。若頭から年末に代わって来た本部長にも伝わっている。




