二十章《二節 もう一度初めの問いを》2
ロゼが顔を上げれば、
「アィーアツバスの携行食……と言うか、菓子みたいなものだ」
甘みを足した凝乳を固め、乾燥させたものだと、オルグレンが言う。
その青年がひざに置いた袋の上で、手にした白いものに力をかけた。手に傷痕が見えるものの、不自由はない様子で青年が指を動かす。
彼の手の中でいささか硬い――しかし、小気味のいい音が響く。幾度か彼はその作業を繰り返した。そうして菓子をほどよい大きさの破片とすると、その一片をロゼの前へと差し出してくれる。
ロゼは思わず、青年の手を見た。
その手はあの長旅の中で、幾度もこうしてくれたことがある。
硬い保存食を割ってくれた頼もしい手。煩わしい果物の皮むきを担ってくれた手。
心に、懐かしいあたたかさが染みてくる。
思い出のままに手を伸ばそうとする傍らで、一つ言うべきか迷う。
実は、味がわからないのだと。
それでも、ロゼはその菓子を受け取った。
変化してしまっている自身を認識しながらも、断ることは思い浮かばなかった。
せめてかつてあった時間をもう一度と、その菓子を口にする。
噛めないほどではないが、少し硬い。そして、ロゼは口を押さえて小さく呻いた。
「……口に合わなかったか?」
眉を寄せるオルグレンへ、ロゼは首を振った。
そうではない、そうではないのだと否定をする。
噛み砕いたその菓子からは酸味と、砂糖のものでありながらほどよい、とろけるような味が口腔に広がった。
その味が口の奥に染み渡る。
ほのかな甘みのある、優しい味。
それを呑み込み、
「違うよ。……このところ、味がわからなくなってきていたから、甘くて驚いただけだよ」
ゼオンの所へと寄った時も、実のところロゼは困ったのだ。
あれほど美味しかった一家の手料理の味が、何か布越しのようにしか、わからなかった。
それはまだいい方で、一人で何かを口にする時など、何を食べても砂を噛むようなものなのだ。
それが、今、酸味を伴った優しい味を感じている。ロゼが久々に感じた美味しさだった。
しかし、オルグレンが眉を下げる。
「……それは、始まりの種族に関して、なにかあったということか?」
青年が、顔を曇らせ腕を組んだ。彼が何か考え込む様子を、ロゼは感じた。
神の力を失えば、始まりの種族が器の姿――つまり人間となり、果てしない永続を絶たれ、解放される。
そのことを思い浮かべながらロゼは、陽を浴び輝きを流す川の方へと目を向けた。
「うん。君のお陰で、見つけたんだ。ラナン達を今のままで解く方法を」
ありがとうと、ロゼは小さく告げた。
始まりの種族を世から消し去ってしまうのではない道――第三の道、その糸口を発見したのはオルグレンなのだ。
「彼らが神から受け取った力の根源を、私が全て受け取ることでそれを成せた」
ロゼが言うと、オルグレンがそうかと言った。
その小さなつぶやきには、苦いものが混ざっている。
「私はラナンたちとは違うから、大丈夫かと思っていたけれど……少し影響はあるみたいだね」
味を感じない。食べたいともあまり思わない。
疲れはする。しかし、眠たくならない。
同じく川の流れへと目を向けたオルグレンへ、ロゼは呟くようにそれらを言った。
オルグレンが、深く息を吐く。
ロゼが横を伺えば、青年は川ではなく足元の石へと視線を落としていた。
「でもね」
その彼へ、ロゼは言いつつ手を伸ばした。
「でも、君といると、何だかお腹が空いてくるよ」
ロゼがそう伝えれば、オルグレンが手頃な大きさの破片を、また一つ摘まみ上げロゼの手のひらへと渡してくれる。
それを受け取り青年と共に口にしつつ、ロゼはふと精霊母シルユーノの言葉を思い出した。
彼女は、ロゼの縁が始まりの種族と、人間の双方に結びついていると言い、そこが分水嶺だと言ったのだ。自身の人間性が、そういう危ういところにあるのだと、ロゼはぼんやりと感じた。
確かに、オルグレンと言う青年は、ロゼにとって人である事を、許してくれる人物だ。
そして、あの旅路の中で、自身の役目を突き付けられた時、ロゼの支えとなってくれた人。
どうしようもないと、役目に従う他ないと諦めたとき、手を延べてくれたのがこの青年だったのだ。
友人であり、相棒であり、恩人であり、肉親――兄のような人。
変わらずに接してくれるオルグレンを、嬉しく思う。
とはいえ、優しく菓子を分け与えてくれる彼の利き手が、家族である鷲獅子キュラスを刺し貫いたものであることを、忘れられはしない。
それが、胸に波のように寄せては引き、引いてはまた寄せてくる。
オルグレンも似たようなものだろうと、ロゼは感じた。
静けさが這い戻ってくる。
菓子を分けて食べ終わり、オルグレンが袋を脇にどければ尚のこと。
互いに話したいことはあるのだ。
だが話すべきかは、戸惑われた。
菓子を分け合って過ごすこの時は、すべて薄氷の上のこととお互いにわかっている。
ともすれば、砕けて永遠に消えてしまう。
かといって、このままでもこの薄氷は溶けて消えてしまう。
今も崩れつつある縁。
もう戻らぬものの、消えゆこうとする気配。
ただ風と川の音のみが響く。それらは人のことなど知らぬとばかりに、あるがまま流れていく。
ロゼは少し身じろいだ。
滞ることのない自然の流れに対して、ロゼの内心は渦を巻いたままだ。
だがこの渦は消えはしないのだと、この再会の中で分かってしまった。
唇を噛み締めれば、さきほど食べた菓子の甘さの中に、僅かな血の味が混じる。
青年の傍だからこそ取り戻せているのだろう感覚で、鉄錆に似た味を受け取る。
「ねえ、オルグレン」
ぽつりとロゼは声を掛けた。
呼ばれた青年が、夏空の色を映した目を向けてくる。
かつては色々とロゼへと言ってくれた青年が、今は言葉が少ない。
その姿に、ロゼは心を定めた。
このまま別れれば今立つ薄氷は、きっと姿を消す。もう二度と戻らない。
それは、惜しかった。
たとえ血混じりの氷であろうとも、……ロゼは失いたくなかった。
だから、決める。
言葉を紡ぐ。
目の前にいる青年が、一度は刃を向け合った以上、無理だと言うのであれば致し方ない。
彼を――彼の国を滅ぼそうとした者であるのだから、許せないと言うのであっても仕方がない。
それでも、伝えずに終わることはできないと。
「君は、あのつり橋の集落で……今、自由に希望を言うのであれば、と話してくれたね」
「ああ」
ロゼが言えば、オルグレンの頷きが返った。
あの時――あの懐かしく、優しいひと時。
今度は、お前の旅に付き合いたいと、青年は言ってくれたのだ。
それを思い出しつつ、ロゼは一度目を伏せた。
あの時の言葉は、もう叶えられはしないのだと分かっている。
立場も、なにもかにもが変わってしまっているのだ。
それでも、
「私も、ここで自由に希望を言うのであれば、という話をしていいかい?」
「……もちろんだ」
オルグレンが、居住まいを正す。
それを見て、ロゼも姿勢を整えた。息を吸い、そして吐く。
もう何も知らなかった頃と、同じには戻れない。ではどうするべきなのか。
どうしていくのがいいのか――
「率直に言うよ」
言葉を切り、続ける。
「――君、私の友人になってくれないかい?」
もう一回、もう一度、また築き直せられないだろうか。
ロゼははっきりと口にした。
「……君とはお互いに傷つけあった。だから苦しいだろうと思う。前とは違うと思う。でも、それでも」
失いたくない。
胸の奥からせり上がってくる熱いような心を飲み、口を引き結んで耐える。
「ロゼ……」
オルグレンの浮かべた表情を、ロゼは形容する言葉を知らなかった。
だが、少なくとも馴染みのない王太子の顔ではなく……ずっと共に歩いてきた青年の顔だ。
目の縁が赤く染まっている。唇が動いた。だが、続けようとしているらしい言葉が発せられない。
その様を、ロゼは見た。
何かを呑み込むように、青年の喉が上下する。
その後に、
「……俺からも一ついいか」
言う青年の声が、感情の震えを帯びている。
そして一つ息をした。
「今度は……、期限がなくてもいいだろうか?」
以前、青年は季節が一巡りするまで、と口にした。
彼自身がそれを崩す。
「本当は、こう言う資格などないと分かっている。それでも、どうかやり直させてほしい」
仇。そして、互いに譲れぬもので、本当に殺し合った者同士。
そうと意識しながらも、ロゼは頷いた。
見ればオルグレンが、右手を差し出している。
「……改めて、よろしく頼む。ロゼ」
それは、かつて、血に汚れた鋼を握っていた手だ。
集落の者を害し、キュラスを――家族を刺し貫いた、非情な手。
そうと理解しながらも、ロゼも自ら手を伸ばし、その手を取った。
握手を交わす。
握ったオルグレンの手は身長に見合った、包むような大きな手だ。
そして、悲しくも、あたたかい手だった。




