二十章《二節 もう一度初めの問いを》1
何を言うべきか、わからない。
そこにいるのが誰かを認識し、ロゼはただ息を飲んだ。
肩に鷹を乗せた大柄な騎士の向こうで、その人が馬を降りるのが目に写る。
赤銅の色が混じった見事な黄金の髪が揺れた。
深い藍色をしたアィーアツバスらしい長衣が、青年が持つ鮮やかな色彩によく似合っている。甲冑というほどではないものの、軽い武装をした姿が、その人の印象を凛然としたものにしていた。
ロゼは自身の心音で耳が塞がれるのを感じた。
それは逃げろと言う、警鐘のようにも思えてくる。
だが、同時に別のものでもあった。
しかし、何を感じようとも、心が揺れようとも、足も身体も、指先さえ動いてくれない。
目はただ、その人を映す。
静かに歩み寄ってくる、青年。
その人もまた、言い様のない表情をしていた。
強張ったような頬、はっきりと形作られず震える口元、多くを考え投げかけてくるような目。
揺れ、混ざり、どれかを選ぼうとしながら、どれにもなれない感情。
ロゼもまたそうだ。
鼓動に身を揺らされる心地のまま、両手をきつく握りしめた。
その目の前で青年が震えるように、短く息を吸う。目を伏せたまま、戸惑うように。
口笛を使い呼び止めたものの、相対した今迷いが生じたのだろう。
旅の間、ロゼへと様々な言葉を向けてくれていた青年。
だが、かの日昊天の峰では、口を噤んだ青年。
その時、自身はどうしたか。一言も発することができなかったことが過り――ロゼは、考えるよりも唇を開いた。
胸が詰まる。喉が引きつる。
声を出せるのか分からない。しかし、それでもと動かす。
脳裏には養父の顔が過っていた。言葉も交わせず断絶された、養父と師を思う。
それ以上に、あの時にも似た沈黙を、自らが破りたかった。
故に、
「――やあ、オルグレン」
口が動くままに、ロゼはそう言った。
絞り出した、どうにか出した震えた声。だがそれでも、かつてと同じ言葉を発する。
途端、夏空を写し取ったかのような色と、はっきりと目が合った。
オルグレンが息を詰めるように口を閉じ……、やがてそっと息を吐く。
そうして、青年の顔がゆっくりと和らいだ。
まるで、西へ西へと歩んで来た頃のままのように。
「……ロゼ」
呼ぶ声は、一音一音を確かめるようなそんな響きがあった。
その声に溶けるような落ち着きを感じる。
その一方で、ロゼの中には正反対の思いもあった。
だがそれでも、どうしようもなく溢れてくる、言葉にできない感情にロゼは深く瞬きをした。
❖
囁き合うような音を立て、川が流れていく。
揺れた草がこすれ合う。
吹き渡る風に、透き通るような緑の香りが混じった。
香る風の中を、鳴き交わしながら小鳥が飛ぶ。
だが、街道の外れは、長閑な景色とはまるで真逆のこととなっていた。
ロゼは、王太子の近衛と補佐と見える面々を見上げた。
下馬した一団。
突如の大休止を言い渡された彼らが、一様に漂わせているのは困惑――そして警戒だ。
無理もない。
「ともかく。すまないが、また我儘を許してくれ」
押し切るような言葉でオルグレンが言う。しかし、隊列を離れようとする王太子が連れ立とうとしているのは、かつてその人を殺そうとした者なのだ。
「しかしながら、……」
特に鷹を肩に乗せた騎士の顔が厳めしい。
王太子の傍付きか何かと思しき騎士としては、当然の態度であろう。そうと感じつつ、ロゼは先ず彼へと近づいた。
難色を示していた騎士の前で動く。
ロゼは先ず、両腕に巻いた革帯を外した。そうして投箭を腕から除き、大腿にある山刀も剣帯ごと外す。
そうするうちに、
「……お預かりしよう」
オルグレンよりも更に長身の鷹の騎士が言った。ロゼが地面に降ろそうとした武装へと、手を伸べてくれる。
その大きな手のひらに、ロゼは武器を手渡した。
更に矢筒と弓を渡し、最後に腰の剣帯に下げた湾刀も取り去る。
それらを恭しくすらある手つきで持ち、鷹の騎士が頷く。
「あなたの心遣いはわかった。お預かりする間、陛下と並び、そなたの身も私が守り抜くとお誓いしよう」
その騎士へロゼは、一礼した。そして顔を上げ言う。
「申し訳ない。貴方達の主を、少しの間お借りするよ」
そうして、先に歩き出したオルグレンを追った。
その長身が、河原へと入っていく。
浅い川のせせらぎの音が強まった。
頂にある陽に照らされて、水面が眩く輝いている。
視界の端では少し離れた上流と下流に、護衛の騎士が分かれていくのが見えた。そして河原を見渡せる位置には、鷹の騎士が立つ。
その様子を眺め、ロゼは改めてオルグレンの正体を感じた。
勇猛な騎士を従える者なのだと。
とはいえ、……ぬっと目の前に袋を掲げられ、ロゼは思わずそれに目を寄せた。
受け取るべきかと迷うも、それを持ってオルグレンがせせらぐ川へと寄って行き、手頃な石へと腰を降ろす。
ロゼは少し迷った。
ともすれば自身を殺しかねなかった者に相対するにしては、オルグレンの態度は無防備だった。
彼は初めから馬の背に置いてきたのか、長剣さえ帯びていない。
多くを支え、多くを守る立場であるにも関わらず。
それは、害さないと分かってるようであり、同時に害されても構わないと言っているようでもある。
彼の態度に、ロゼの胸で暗色と暖色が混ざった。懐かしいような暖かさと、誤魔化しようのない痛みがある。
安らぎを感じながらも、どうしても、どうしようもなく、血の景色が過るのだ。
あの日、すまないと、痛切なる謝罪を聞いている。だが、生まれ育った集落のことを、鷲獅子キュラスのことを、なかったことにできるかと言えば、否としか言いようがない。
武器を預けたものの、何もできないかと言えば、そうではないのだ。
しかし、ロゼは自身の中に言葉の欠片を見つけた。けれどと、でもと、思う気持ちを。
「……オルグレン」
何を口にするべきか迷い、彼の名を呼ぶ。
オルグレンが小さく動いた。肩越しに振り向いた視線と手で、彼が隣を示している。
意図はわかる。理解したままに、ロゼは隣へと腰を降ろした。
言葉がまた途切れた。
川は滞ることなく流れていくが、岸辺には油のない歯車のような、軋んだ空気が占める。
その中で、オルグレンが袋から何かを取り出した。
ロゼにはそれが何か分からない。
見たことがない。
乳白色の板のようなそれから、鼻にほんのりとあいまいな香りの輪郭が届く。
誘われて顔先を寄せれば、少し酸味のあるまろやかな匂いがした。
凝乳。姿形は違えど、匂いと色が近い。
そうとロゼが思う間に、頭上からはそっと柔らかな息の音が聞こえた。




