二十章《一節 終りて始まる物語》2
吊り橋の集落から、リリートゥへ。
ロゼは騎馬での山下りに慣れていない。それでもゼオンから借りた軍馬は、危なげもなく下っていく。
果てには、分かっているとでも言わんばかりに、街道を進み始めた。
そうしてあくる朝にたどり着いた三国の交わる要所、リリートゥ。
大きく栄えたアィーアツバスの玄関口は、賑やかだった。
囲郭の門には大勢の人々が検疫列を成している。その有様を、ロゼは噂以上だと感じた。
いつかのクゼリュスの建国記念式の前のような人出があり、アィーアツバスらしい馬装の騎兵も活発に動いている。
街が視察を受けていたのだと、街道をゆく人々が囁く声が聞こえてきた。
とはいえ、ロゼにはそこへの用事はない。
横目にしつつ、街は避けて進む。そうしながら、横手、北の方角へと顔を向けた。
クゼリュスの方角に、高い山々がそびえている。ふもとには街道が伸びているのが目に映った。
今は遠く霞むそここそ、英雄譚のように人々の話題に上がり、後の歴史書にも残るだろう、アィーアツバスとクゼリュスの戦いの舞台となった平原だ。
馬の背に揺られながら、ロゼは細く息を吐いた。
ゆっくりと街道を戻るように視線を落とし、一点に目を留める。遠いが、見覚えのある地形だった。
一年前、オルグレンに挑んだ場所。
はっきりとその時のことが瞼の裏に蘇り、ロゼは鹿毛色の馬の背に目を伏せた。
ゆっくりと、記憶を追う。
あの時――、と。
すべて計算づくだった。
ロゼは馬司の国の王太子が誰であるか知っている。
そして、かの国の状況を知っていれば、誰が軍を率いているかは明らか。そして、現にここへと現れた軍列。さほど観察をせずとも行進の動きから、どこが頭かはすぐに見て取れ、苦も無くその人を見つけたのだ。
彼の国も、相対する国も、全てをすべて壊す。
無論、個人が国々をどうにかしてしまうことなどできないと知っている。
だからと、ロゼは考えたのだ。
オルグレンを失った軍がどうなるか。アィーアツバスはどうなるか。
クゼリュスはどうするか。他の国はどう動くか。それらすべてを見通し――その上で、行動した。
ふと、ロゼは目を細めた。
かつて浮かんだ、燃える泥で塗り固めたような感情。
奪っていった者へ、報いを与えねばと思う気持ち。生き残りとしての責務。行き場のない猛威……。
それらを今の心の中へと汲み上げる。とはいえ、自身をも焼き尽くすような業火は蘇ってこない。
代わりに、首を絞めつけるような心地が感じられた。
ただ苦しい。
しかし、代わりに感情が熾火となったからこそ見えてくるものがある。
燃え盛る感情の中では言葉にならなかった、気持ちが見つかった。
「……どうして」
ロゼはそれを小さく口にした。
それは、どうして、という疑問であり、問いであり、悲しみだった。
どうして、君が集落を襲ったのか。
どうして、君が鷲獅子を害したのか。
そして――どうして、何も言わずに立ち去ったのか、と。
オルグレンと対峙した時、ロゼの中で最も強かったのは、当時は言葉にならず胸や喉を締めるだけだった、その思いだ。
それを抱え、深く傷つけあった。
自然と、自身の手に視線を向ける。
ロゼの手。あの決闘で負った傷は、ラナンから受け取った神の力によって、既に消されてしまっていた。
それでも、感触は残っている。記憶も、鮮明だ。
歩みを馬に任せて、目を閉じる。
そうしてロゼの眼裏に浮かぶのは、オルグレンの表情だった。
ロゼが彼に止めを刺さんとした時の、オルグレンの顔。
驚愕。だが、次に、もう覆しようもないと分かっただろうとき、その瞬間に浮かんだのは……。
記憶を手繰りながら、ロゼは手綱を握りしめた。
あの時の表情は――と胸の中だけで呟く。
青年の顔は、
心配したんだぞと、叱ってくれたときのものだった。
タロトの大橋で、生きていて良かったと伝えてくれたときのものだった。
堅焼きや果物を分け合ったときに浮かべてくれる、とても穏やかな顔だった。
全てが混ざった顔だった。
それを目に映し、ロゼは何もできなくなった。
そう思い出す。そうしてロゼは目を開け、腕を撫でた。
そこには自ら刻んだ傷が残っている。神の力は既に傷跡となったものには作用しなかったのだ。
故に、ロゼが鷲獅子の爪で、自身に刻んだ傷はまだそこにある。
それを刻みながら、報いを受けさせると誓ったことを、忘れてなどいない。
だが……、全ての大望を果せそうだったあの瞬間。
ロゼは止まった。
止めをさせと腹の奥が叫んだが、体は震えるばかりで動かない。手も何を掴んでいるか分からなくなった。
永いようで短い時間、己の中でせめぎ合い……。
そして、ロゼは悟った。
どう足掻いても自分は何もできない、何を望んでもきっと何もできはしないのだ、と。
そして結局、ロゼがこれから選ぼうとしていること、その全てが全てそうなっていくのだと……暗い思いに塗りつぶされた。
後はいつの間にか、涙があふれていた。
何もできない子供のように。
……結局、自分には何も成せはしない。
そうと気づき、すぐに失望を通り越し、恐ろしくなった。
目に映る全て。自身の全てが嫌になった。
なにもかにもままならない。
苦しくて、苦しくて、全てから切り離されたくなった。
師が逝くときに見せた、穏やかな顔。その安らかさを渇望した。
もう、嫌だと。
それで刃で首を突こうとしたのだ。神の力が器にある内であろうと、致命傷を回復できねば死ねるとは知っている。
地に囚われるとしても、今の苦しみよりはよほど救いがあるように思えた。
――いや、考えきれもせず、ロゼはただ開放を求めたのだ。
だが、オルグレンに止められた。
そうと思い出し、ロゼは今度は項垂れた。
オルグレンに手傷を負わせてしまったことが、胸に刺さる。
殺そうとし……にも関わらず、殺すことができず。だが、確かに止めまで刺そうとしたはずの人に、怪我を負わせたことがなぜか心に重く感じる。
青年は、まごうことなく人間だ。
神の力を一時的にもらい受けたロゼのように、怪我を治すことなどできはしない。
鋭い刃を握った手は、どれほど傷ついたか。支障になっていないだろうか。
考えるほど、心が重くなっていく。
……帰ろうか。ぽつりと、ロゼの胸にはその言葉が過った。
ふと顔を上げれば、また街道を騎兵が過ぎ去っていく。思い出に浸る最中にも目にした光景だった。
リリートゥを通り抜け、馬司の首都スヘネへと至る街道に、兵の行き来が激しい。
その上、
「行き交う人々よ!」
騎兵が馬を走らせながら、ひと時道を開けてほしいと願う声が聞こえた。
目立たない方がいい、そうと判断して下馬をする。そして、ロゼは手綱を引いた。それで馬を道の端に導く。
更に、ロゼは首に巻いた外套を口元まで引き上げて、人相を半分隠した。
すっかりと失念していたことに気づく。彼らの王太子を、多くの将兵の前で殺そうとした当人なのだ。アィーアツバスの兵には注意を払わなくてはならない。
顔を誤魔化し、馬を引いて街道の端を歩く。そうすれば完全に歩みが鈍った。
徒歩となり、余計に決心の鈍りがロゼの心に浮かび上がる。
なにせのことだ。
今更彼に会って、何といえばいいのか。どうするつもりなのだ。
胸中の言葉が、ロゼの足を止めた。
更に、止まらざるを得なかった。これは心境ではなく、状況によるものだ。
先ほどから騎兵が触れ回っていたことの理由。
ロゼの後にリリートゥから発ったと見える、貴族か何か、高貴な身分の人がとうとう追いついてきたのだ。
先ず今まで沙汰をして回っていた兵たちとは違う、立派な馬装の兵が旗を持ち街道を進む。
その先導の向こうには、平原であるがために既に本隊も見えていた。
少数の騎馬の一団が迫ってきている。
ロゼも他の商人や民たちに混ざって、更に端に寄った。
恐らくはリリートゥの視察を終えたのだろう、身分ある人の一団が、首都スヘネへの帰路を辿っているらしい。
彼らが通り過ぎたら、他所へ行こう。そうと考えながらもロゼは少し慌てた。馬を撫でる。
先ほどまで実に賢くロゼを運んでくれたその馬が、今は耳を立て落ち着かない様子だった。首を振り、足を踏み鳴らす。
いったいどうしたのか……。ロゼは、はかりあぐねた。さほど馬については得意ではない。
馬が何かに気付き、手綱を握るロゼに何かを訴えているらしかった。
そしてこちらの意思を確かめるように、目を向けてくる。
それは分かるのだが、それ以上の事はくみ取れないのだ。こうしたとき、養父であれば、――あの青年であれば、どうするのか。
困る心地のまま、ロゼは馬の首を撫でた。そうしながら、せめて一団が通り過ぎるまでは暴れないでおくれと、願う。
だが、懐かしいような口笛が響く。
それが何かと考える間もなく、馬の鼻面で押されロゼは後ろによろめいた。
転倒するほどのものでもなく……とはいえ、自身よりも大きな馬に押されては、踏ん張れるはずもない。
よろけ、街道へとまろび出る。
それが丁度、街道を進む一団の手前。懸命に馬を宥めている間に、近づかれていたのだ。
とはいえ、危なげもなく止まってくれた一団。
その姿を振り仰ぎ、ロゼはただただ息を飲んだ。




