二十章《一節 終りて始まる物語》1
吊り橋の集落。
また訪れたいと願っていた場所は、春のあたたかな陽射しと、揺れる花々に彩られている。
そのひだまりの景色を眺めながらも、ロゼの脳裏に浮かぶのは、肌を切り裂く寒さの情景だった。
一年前、あの日。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
みっともなく、情けなく、泣くしかなかった。
訴える言葉も、嘆く言葉も、喚く言葉も思いつけないままに……。
ただあったのは、長年、本当に長きの間、積み上げて来たものを自らの手で崩し、泥にまみれさせ、台無しにしてしまった心地だけ。
生まれ故郷の者達と鷲獅子――キュラス達の仇を、ロゼは無様なことに殺せなかった。報いを与えられなかった。
そして、ひとしきり感情のままに、仇であるはずのその人と共に泣き続けた後。
その後のこと――つまり標星の大国クゼリュスと、馬司の国アィーアツバスの戦争の仔細をロゼは知らない。
自分たちの戦争だからと、立ち去ってくれと願われたのだ。
故に、戰場がどのようなものであったのか見てもいない。
しかし、アィーアツバスが勝利したことは知っている。
少数で大群を打ち破ったという話は、各国に大きく響いた。語り草となって人々の口へと上り、訊ねずとも聞こえる始末だ。
現に……、
「怪我を負われてなお、アィーアツバスの王太子殿下が陣頭に立たれたとか」
「本陣に引き付けて、急峻な山を駆け下りた別部隊が隙をついたというのがなんとも……」
ケッフェルと、その息子であるフィルトが街で聞いたのだという話を語らい合う。
吊り橋を補修する間に、世話になった老夫婦と若夫婦の一家は、驢馬たちと共に、変わらずののんびりとした生活を営んでいる。
その母屋で茶を頂きつつ、花咲く親子の会話を聞いた。
話はどこで聞いたものか大げさなものになり、戦史というよりも、英雄譚かどこかの昔語りのようなものになっていく。
どこか遠いような逸話。
意識は向けないまま、そう話す音だけを聞くともなく聞く。
それをロゼは丁度よい休憩と感じた。
昨日、この一家の元に訪れてから、他の土地の話しをし通しだったのだ。
落ち着き、杯に残ったお茶をいただく。
振る舞ってもらった甘いという焼き菓子は、一つだけ口に入れたものの、それ以上は手をつけられなかった。
ゆっくりと茶を飲み下しながら、揺れる窓布へと目を向ける。開け放たれた窓からは、やわらかな風が流れてきていた。
奥方達が摘み取る香草の、果実のような甘いにおいが届いてくる。
匂いはわかる……そうぼんやりと胸に呟き、ロゼは目を細めた。
その視界に映るのは、のんびりと穏やかで、あたたかく、幸せな、満ち足りた景色。
しかし、ロゼは空になった杯をそっと卓へと戻した。その手で腕を摩る。
心の片隅には冷たさが吹き込んできていた。隣が……或いは、背が寒いような心地がある。
そうではあるものの、目には窓から差し込む陽を映す。
その明るさはロゼの膝にも落ちており、あたたかい。庭を彩る花々は違えど、かつてここで過ごした時と同じぬくもりだった。
屋根のある場所で、人と笑いながら過ごしたあの時間を、はっきりとではなく曖昧に心に描く。鋼に精神を削られることなく、よく眠り、起きて明るい陽射しを浴びた日々の残り香。
それはロゼの心を凪がせ、柔らかいだけの微睡みへと誘ってくれる。
本当に、ここは心地がよい。
何もかにもを忘れ、また、ここで暮らしてみたい。
そうと、甘えた気持ちで、ぬくもりを甘受する最中。
ロゼは顔を向けた。肩を小突かれたのだ。
「なあ。その王太子殿下が誰か知ったら驚くだろなぁ」
小声でそう囁くのは、ゼオンだった。
結局のところ、養父は昊天の峰で別れてから、鷲獅子ラナン――いや、人となったラナンを連れて、ここへ逃げ延びたのだ。
アィーアツバスとクゼリュスの二国間の戦争。この吊り橋の集落は、その舞台となったリリートゥに比較的近い土地柄だ。
この家族が心配となってのことだろう。
横を見ればロゼの目に、悪戯のにやけを浮かべる養父の顔が映る。それを、指先で軽く叩いてやる。
思ったのだ。それは困ると。
そんなことをすれば、静かに膨らんでいる幸せな夢の綿毛が吹き飛び、なくなってしまう。
瞼には、いつかの養父のからかいをふざけ混じりに遮ってくれた背中が浮かんでいた。
疲れていないかと、気遣ってくれた、低い心地いい声の響きだけが耳に蘇る。
その青年が、立場ある人間だと知らせてしまえばどうなるか――
「オルグレンが、もうここにこれなくなってしまうよ。そんなことを話したら」
彼もここを気に入っているんだよと、口を尖らせて言う。
「それは、そうか」
そうゼオンが笑った。
思わず呆れ混じりに息をこぼす。
納得したかい? と、ロゼはその心地のまま養父を見た。
その人は、ロゼが叩いた額を一撫でしている。
そして、ふと。ロゼの目には、見上げていた養父の表情に一瞬の間が生まれたのが映った。
見る前で柔らかい色が滲み、微笑となる。
その意図することに気付き、ロゼはそっと横を向いた。
しまった、ともどうともつかない心地が空回る。
意識すれば、舌に懐かしい響きの余韻を感じた。
あの旅の中で何度となく呼んだ、青年の名だ。
そして、少なくとも、ここ一年口にしたことがなかった名前。もう口にすることもないだろうと、忘れていようと思っていた名前。
それでも、心の中に残っている人の名。
共に過ごした夏の日に、改めて名乗ってくれた、あの輝かしいような声と表情が胸に浮かぶ。
去年……二国の衝突の直後。
ゼオンとラナンの行方を捜しここへとたどり着いたとき……、ロゼは青年の名を口にできなかった。
今もまだ、彼については曖昧にしていたい気持ちが浮かぶ。
にもかかわらず、今、会話の中で口にしていた。それは、かつて優しい時間を過ごした場所で、心地よく感じていた思いに浸っていた油断のせいか……。
隣を、寒いと感じているせいか……。
ともあれ、養父はそれに気づいたのだ。
それを認識すると同時、ロゼの胸には絡まった糸が溢れてきた。
キュラス達のことを思えば、血が沸き立つ。指先まで、白い痺れが奔る。
同じ目に遭わせたい。遭わせてやりたい。彼らがどれほど苦しい目に遭ったのかを。
だが……、だが……と、思いが渦を巻く。
どうともしがたく、苦しい。
それでも、今は息ができる。
だいぶ落ち着いてきたのだと、ロゼは感じた。
ラナンと共にツァーカに住まう始まりの種族、狼 竜キグナに会いに行くうちに。
その更に東方に住まう精霊母達に会う旅をするうちに。
彼らに第三の道について説明をするとともに、人となる道を行くのか、それともあくまで解脱や、別の道を望むのか考えてもらううちに。
他のことについては口を噤んだが、始まりの種族達と再会し、接する間にロゼはゆっくりと心音が鎮まるのを感じた。
それは、人に苛まれ、複雑な心を持ちながらも、決して人を害そうとしない姿を見たからかもしれない。
ただ静かに穏やかに暮らし、やがて消えたいと願う彼らの思いを、感じることができたからかもしれない。
キュラス達と変わらぬ思いを聞き、心に巻いていた激しい渦が、次第に弱まっていった。
許した訳ではない。許せることではない。
今もまだ胸には刃がある。
それでも、今は鞘にあるのを感じる。
そうして、いつの間にか。
なぜか足が西へと向いていた。
いや、と心の中に否定を呟く。
自分でも言いし得ぬ何かで、ロゼは単身で西へ西へと戻ってきたのだ。
自身でも何をしたいのか分からない。
――何がしたいのかさっさと決めろ。かつてロゼを動かしていたその言葉が、今は空回る。
西の地へ、すぐ行けることを知りながら行けていない。
今こうして、養父の顔を見に来てしまっている。そしてまた旅立つ準備を済ませながらも、次は何処に寄ろうかなどと考えているのだ。
そうと、すっきりとしない胸の重さを抱える中――
「痛っ!」
暫く座り込んでいた椅子の上でロゼは飛び上がった。ゼオンに両肩を叩かれ、熱いような痛みを感じる。
ケッフェルとフィルトがその強い音でか、目を見開いていた。
それでも彼らに構わぬ様子で養父が、ロゼの荷物を担ぎ上げる。
ロゼはそのゼオンに腕を引かれた。母屋から出て、まだ静寂な光の中の景色を見る。
そうして連れて来られたケッフェルの家畜小屋には、場違いなほど立派な軍馬が鎮座していた。
それはゼオンが昊天の峰で、標星の大国の小隊から譲り受けたという馬だ。
養い親の当座の生活資金の調達や、近隣の困り事の解決に役立てている、可愛い愛馬だと聞いている。
「こいつは軍馬だからな、体力がある。南下してリリートゥに入れば道がいいから、速いだろ」
ゼオンが言う。それは追い出すような話だった。
「ゼオン……!」
ロゼは慌てて名を呼んだ。
その間にも養父は慣れた様子で鞍を乗せる。そして、ロゼの頭から足までを視線でなぞってから、鐙の調整をはじめた。
「ねえ、ゼオン……!」
やめてと、ロゼは口に出した。
だが、養父の目はいつになく――少なくとも、今まで向けてくれていたものよりも、はっきりと重い。
真直ぐに心が向けられるのを、ロゼは感じた。
その養父が、声の奥に硬い芯を宿らせて言う。
「気持ちの整理がついてきたんなら、会ってこい」
言いながらすっかりと馬装を整え終わったゼオンが、腰にある物へとそっと触れる。
それは革帯から下げた、刀の鍔だった。かつて、彼の相棒である死神サクラスの愛刀――半曲刀にあった鍔。
一年前の決闘で刀身を失った後、再会したゼオンがそれだけを半曲刀から外したのだ。
なぜ折れたか、何が起きたか、事の顛末を何も聞かぬままに……。
それを手のひらであたためるように、剣聖と呼ばれた人は握っていた。
そうしながら言う言葉は、硬いような響きを纏っている。
「……挨拶もできんまま、というのは。結構、堪えるからな」
会って……それでまた仲違いとなったなら、戻ってくればいいと養父が笑う。
そうでありながら、ゼオンの表情にロゼは冬を感じた。共に至るはずの春を奪われたままの冬。
二度と溶けることのない氷を抱いた、凍てついた季節。
その顔に、ロゼは何も言えなくなった。
行かない、そんなことは口にできない。
養父の表情が目に焼き付いたまま、渡された手綱を受けとる。
そして、心を定めきれないまま、ロゼは村を発った。




