十九章《三節 死によって解かれる事を》2
最も恐ろしい牙を折った。
血に汚れた道を、大きく切り開けたのだと知る。
オルグレンは踏み込んだ。
対峙したロゼが退ろうとするのを、追う。
途端、投げつけられた半曲刀の柄に、足掻きを感じた。だが、受けることなく、剣で打ち払う。
その最中。少年が体制を崩した。それがオルグレンの視界に映る。草に足を取られてか、倒れるように後ろへ崩れた。
逃さない。見逃す訳にはいかない。
鋼を引き絞る。
少年の体を突きで射抜かんとし――寸で、首を引いた。
その瞬間、顔へと飛んできたのは山刀。
ロゼが体勢を崩しながらも……いやそれ自体が意図的なものだったのか。
身を捻り、投擲された刃。
その鋼が、オルグレンの眉間を薙ぐ。顔を背けなければ、危なかった。
だが、間に合った。額を裂かれたそれだけだ。
そこから血が吹き出すまでの刹那、ただ動き続ける。
目の前には、無理やりな投擲で、地面へと座り込む格好になった少年が居る。
その彼の薄い胸。始めの狙いの通り、そこを目掛けて剣を突き出した。
昊天の峰で、鷲獅子を刺し貫いたように。
……これで終わる。終れる。
ぽつりと、安堵した。
この後苦しみ続けるのだとしても、今は。
終われるのだと、オルグレンはそう感じた。
しかし、――ここで素直に終わってくれる人間であったならば、ロゼも狂剣などとは呼ばれなかったに違いない。
繰り出そうとした刃が、不意な力で叩かれる。
突きの剣身を、ロゼに素手で打ち払われたのだ。
オルグレンの背には、冷たいものが駆け抜けた。
ロゼの素早い動きは、終わらない。
指先さえ意のままに繰る少年が、四肢を思うままに扱えぬはずがなかった。座り込みざまに曲げた足で跳ねる。
そして、オルグレンの腕の内側へと飛び込んできた。
血潮が巡った。危険だと直感する。
咄嗟に長剣を手放す。
取り廻せればよかったが、刃を使えない長すぎる鋼など、この瞬間に意味はない。
少年の動きに対応しようとし――だが、投箭に穿たれた肩が上がらない。身が強張る。
それがもう一歩、ロゼの強い跳躍を許してしまう。少年が体ごとでぶつかって来た。
そのまま地面へと倒れ込む。
掴み合い、押さえ合おうと、もみ合う。どうにか、ロゼの手首を掴んだ。だが、それさえも読みの範疇か。握られた投箭の刃が、オルグレンの手を斬った。
それでも縺れ、背が転がる。
天地が巡る。
混ざり、混ざった攻防の中――
勝負が、決まった。
より優位な態勢へと持ち込んだのは――ロゼ。
獣のような身のこなしがオルグレンの腕を掻い潜り、素早い動作が身動きを阻む。
オルグレンは腕へ重みを感じた。片方を膝で押さえ、片方を足で踏まれ、両腕が押さえられている。
ロゼが胸の上へと乗り上がっていた。その手には、いつの間に拾い上げたか、刃がある。
投箭ではない。
もっと確かな、命を奪う鋼。それは折れ跳んだ半曲刀の先だった。
柄もなく刀身のみとなった刃を、ロゼが直接握っている。
そして、それは、オルグレンの喉へと当てられていた。
朝の真新しい光に、鋭い刃が照らされる。
間違いなく喉笛を食いちぎるだろう凶器は、オルグレンの目に冷たさと美しさを持って映った。
息を吐く。小柄とはいえ体重を乗せられた腕は、上がらない。
それでも腕を動かそうにも、跳ね起きようにも、足を振るおうにも、刃が柔らかい肉の中へと突き入れられる方が間違いなく早い。
――友人、とは一体なんだろう。そうと問いかけるほど戦いに身を置いてきた少年に、及ばなかったことを自覚する。
どうあがいてもの状況となり、オルグレンは力を抜いた。
刃が喉を裂きにくる、長いようで短い間。
せめて……と、視線にロゼの顔を映す。
国を、自身の愛すべきものを守るために、殺そうとした少年の顔を見る。
すると……
まるで絡まった糸が断たれた心地だった。澄んだ空が心にも広がり、オルグレンの心は切り取られたように凪いだ。
そして思う。少年へと。
全てが終わったら、このまま……このまま振り返らずに無事に逃げてほしいと。
そして、言い渡したわがままを将兵が守り通してくれるよう、切に願う。
オルグレンの胸に浮かんだのは、そんなことだった。
国への想いがないわけではない。
だが、大きく胸を占めたのはこの先、今以上に血塗れた道を歩くだろう少年への心。
自身では出来なかった――、そうなる資格さえなかったことが浮かんでくる。
それは、ロゼにはまた誰かと巡り合って欲しいという、願いだった。
そして、これから先にも、果物を分け合って食べた時のような顔をする時があってほしいという、祈りだった。
そして、願わくば……。
死した魂が廻り生まれ直すのであれば、今度は何の因果もなく会いたいと、そう望む。
何処までも先まで、共にありたかった少年へと。
己の死を目前に――己を殺す者を目の前に、オルグレンは表情を浮かべた。
怨嗟も、慟哭もない。浮かんでこない。
オルグレンの目に映るのは、恩人であり、友人であり、相棒であり、……弟なのだから。
見上げる視界。
それへ映す、ロゼの薄紅い目。
それが不意に歪んだ。雫が浮ぶ。
それが、見る間に盛り上がり、白い頬を伝い落ちた。
刃は直接握った少年の血が伝うまま、止まっている。小さく、小さく震えている。
オルグレンが目にしたのは、ロゼの初めて見る表情だった。
涙が降ってくる。
「…………」
その中で、唇だけが動いた。
いやだ、と。雨粒のように滴下し、オルグレンの肌を小さく叩く。
苦しむような涙だった。
事実、苦しいのだろうと、少年の歪んだ表情に思う。
「いやだ……」
もう一度、今度はほとんど息のような声だった。
どうしても、どうしても、どうしても……
耐え難いことへと向けて、絞り出される言葉。
始まりの種族達へ向け、絞り出されていた言葉。
はたと、気づく。オルグレンは少年を見つめた。
この少年は、様々な物を奪われ続けている。
そして、――彼が大切にしたい者からは、手ずからの消滅を望まれていた。
ロゼの涙を見ながら、思う。
自身は奪った者であり、同時に別の者でもある。そうあり続けさせてくれているのだと。
落ちてくる死神になりきれないロゼの涙は、あまりにもあたたかい。
同時に、どうしようもない怒りと、悲しみを感じるものだった。
「――なんで」
少年の喉が震える。
それはロゼが自分自身へと向けた、絞ったかのような声だった。
果たすべき復讐と、それを果たせない苦しみと、混乱に満ちている。
細い嗚咽が喉から漏れ、握った刃が身じろぎのまま退かれた。姿勢が、後ろへとよろめくように崩れる。
両腕は解放されたが、オルグレンには起き上がる気力など無かった。
自身もめいいっぱいに足掻き、勝敗は決していたのだ。
結果を、受け入れている。これでよかったのだと。
自分の命がロゼの安らぎの代価となることに、安堵さえ感じているのだから。
だが、ロゼが握りしめた刃は、動かない。
少年の胸の前でただ震える。
それでも、果さなくてはならないことがあるのだとばかりに、刃を両の手で握りしめていた。
だが、果たそうとすることに対し、体が動いていない。
幾筋も幾筋も血が、その切っ先から滴る。
「なんで……」
喉から血を吐くような、自身への失望を混ぜ込んだような声。
「私はっ!!」
切り裂くような、実際に自らを引き裂く、苦しい苦しい声。聞いたことのない声で、少年が叫ぶ。
一際大きい息。ロゼが苦しげに目を閉じた。
鋼の切っ先がじわりと動く。
それでいいと、オルグレンは感じた。
勝者は少年なのだから。
だが――
次に瞼が開く。ロゼの双眸が覗いた。そこに映るのは、オルグレンではない。
薄紅色の瞳に、赤く染まった鋼がある。
その刹那、ロゼが動きを変えた。一瞬にして、刃の向きを返し、掌で末尾を支える形となる。
目の前の光景。
オルグレンは飛び起きた。
駄目だ、と。
穿たれた肩が痛む。しかし、そんなものなど忘れた。動かねばならない。
少年が持ち替えた刃。その切先が、向かうのは――他でもなくロゼ自身の喉。
少し前まで、その人を殺めようとしていた手を、懸命に、必死に、ひたすらに伸ばす。
それだけは、許さない。
許容できない。認められない。
絶対に、受け入れられない。
手を激痛が奔る。
冷たいはずの刃が、今は血に濡れ、熱かった。
オルグレンは呻きながらもしかと握り、それを止めた。
刃を握った事でオルグレンの手も切り裂かれたが、それで構わなかった。
鋼が細い首を食い破ることはなく、僅かに切っ先が触れたのみ。
ロゼの喉からは今度こそ声が漏れた。
殺すこともできず、自害もできず……言葉にならない、感情を持て余した、魂からの慟哭が上がる。
かつて泣き叫んだ、続きのような声。
刃を強く握っていた手からは力が抜け、互いの血で染まったそれが地面へと落ちた。
「……どうして」
やがて発された、一言。
ロゼが絞り出すように言ったのはその一言だった。
だが、数多の意味が向けられている。
その言葉に、オルグレンは胸を突き破らんばかりの熱さを感じた。
魂が叫ぶ。
その、感情と衝動のまま、腕を伸ばす。
オルグレンは、目の前の肩を、強く自身へと寄せた。
そして奥底からの声を発する。
「……すまなかった。ロゼ」
鷲獅子キュラスのことも。
「……本当にすまなかった」
過去も、現在も、今も全て。
すべてに。
「すまなかった」
声が震え、喉が詰まり、言葉を出せているのか定かではない。それでもどうしようもなく、心から声を出す。
そして、はじめから、こうするべきだったのだと思い至る。
自身の罪を思い出した時、こうするべきだったのだ。
ロゼからも腕が伸ばされ、強く背を掴まれた瞬間、その思いはオルグレンにとって確信へと変った。
例え許されずとも、何事か考えるよりも、こうして伝えるべきだったのだ、と。
きっとそれだけでは、足りなかったに違いない。
だが、それでも。
溢れ出た言葉にならないものが、目に浮かび、流れる。それらが血と混ざり、落ちていく。
どれがどちらのものか、分からない。
全て混ざり、滴るに任せ……
ただ共に、激情を分かち合った。




