十九章《二節 約束の終わり》2
薄青い空があった。
地上では土が乾いた粗さを帯び、草原と呼ぶには茶けた草が横たわる。
風は砂塵を含み、ざらついた匂いが吹き抜けていく。
ようやく端を覗かせてきた冬の朝日の元で、始まった休止。
その中で、将兵が落ち着き始めた頃――
不意に、ざわめきが起こった。
騒ぎが向く先を追いかけ、視線で辿る。
オルグレンは鼓動に揺らされる心地の中で、その時が来たことを悟った。
白に近い葦毛の馬だ。簡素な馬装から、貸し馬屋のものと見えるその馬。その背には人の姿がある。
それは、白い髪をした小柄な人影で間違いない。
構えるな、と誰かが言う声が響いた。そして、その声が連鎖する。
オルグレンがわがままとして願ったことが、全軍へと行き渡り叶えられているのだ。
それで攻撃が来ない、と見て取ってだろう。
葦毛の馬が動く。
それが近づいてくるのを確認し、オルグレンは老大将ボルフェジへと振り向いた。
「今一度、重ねて願う。何事があっても、あの子供への手だしを禁ずる」
「――御意のままに」
オルグレンが言うと、老大将が頷く。
とはいえ、内心の複雑さ……いや、なぜそのように願うのか納得しかねていると、言わんばかりの硬さがその顔にはあった。
「そして、最後の願いだ」
わがままの二つ目、それをオルグレンは口にした。
「もしも俺が戻らなかったら、後のことは頼む」
これは、父王と民たちへの裏切りに他ならない。
老大将が目を見開くのを見つつも、オルグレンは愛馬を進ませた。
今度は自身へと向けられ始めた何事かというざわめき。
その中を突き抜けて、少年の方へと馬で歩み出ていく。
軍列を抜けて少し……オルグレンは馬を降りた。
戟は持たず、長剣だけを腰に残す。
甲冑姿であるならば被るべき兜も、そのまま馬の背に残した。ロゼを相手にするのであれば、視界を狭めるなどもっての他だ。
「ニーヴィ、戻っていろ」
そう告げ、首を軽く叩く。だが、いつも素直に従ってくれるはずの愛馬の脚が動かない。
何か感じ取っているのか。そうと考えつつオルグレンは馬の首を撫でた。
それでようやく、ニーヴィが馬首を返す。
そうして、愛馬から目を離し、向き直る。
一方でロゼの方も馬を降りていた。少年がそのまま、背を軽く叩き馬を解放してやる。とぼとぼと立ち去るそれを見送ることはない。
真直ぐにオルグレンを見るロゼの姿は、黒い旅装束に革の胸当てをし、黒い外套を身に纏っている。
腰の剣帯には、半曲刀が収まっていた。黒い鞘に収まったそれを、オルグレンはよく知っている。
彼の師匠である死神と呼ばれた剣士、サクラスその人の黒い鞘の半曲刀だ。剣聖ゼオンに渡したはずのそれを身に帯びていることで、オルグレンは彼が養父に会ったことを悟った。
そして、その姿を見つめ、オルグレンは気づいた。
少年を見るたびに僅かに感じていた、違和感の様な揺らぎ。それが今は感じられない。
記憶が欠けたことで世とのつながりがあいまいとなり、見えていたもの。
それが国へと帰り、現世にしかと根付いたオルグレンには、もはや分からなくなっていた。それが、また一つの繋がりが断たれたことを突き付けてくる。
そうしながらも徒歩で近付き……
やがて、鋼の間合いへ――互いに、その手前で立ち止まった。
対峙する。
オルグレンを見るロゼの目は、鉄をも斬る鋼そのままに、冷ややかな色を帯びていた。
やあ、オルグレンと、猫の鳴くような声と柔らかな表情を向けてくれていたのが、もはや夢としか思えない。
鋼の静けさを帯びた少年の薄紅色の目が、心を一つに決めている。
「……ロゼ」
締め上げられたように喉が詰まる感覚の中、オルグレンはその名を呼んだ。
ロゼが少しだけ目を細める。そして深く呼吸をした。
深呼吸などではない。それがオルグレンには分かる。
二人で歩いた旅の中で、白い流れ人が師に習ったのだという深い集中へと入る姿を幾度も目にしている。それへと至る呼吸だ。
オルグレンの脳裏には、いつかの幻想が過った。
嵐から生き残り目覚めたあの日、ロゼを見て思ったのだ。
――死神だと。
ロゼが腰に手をやる。躊躇などない。
すべらかな音と共に、その鋼を引き抜く。
「手出しはならん!」
オルグレンは背後へと意識だけを向け、大声を放った。
ロゼの動きを目にした将兵が、流石に……と身構えたのだ。鋼や甲冑が動く気配を声を張って押し止める。
「私がどうなろうと、余人がこれに関わることを禁ずる。破れば死罪だ」
更に言葉を重ねる。自身で無茶苦茶なことを言っていると自覚しつつも、オルグレンは他へとそう命じた。
その最中であっても、滑らかな刃が動く。
向けていた視界の中で、半曲刀の切っ先が真直ぐに向けられた。
身を貫き通すような、張りつめた意識の糸を感じる。
オルグレンは、体のみならず互いの全てで、向かい合うのを感じた。
「……貴方は、――我が一族、我が家族の仇であるが故に」
身をもって報いを受けよと。
構えて言うロゼの声が、冬の風よりも冷たく、オルグレンの心を刺し貫く。
やはりそれが、ロゼがここに現れた意味なのだ。
そうであるのならば、――オルグレンは長剣を抜いた。
かつて手にした、ただ用を成すだけの剣ではなく、王権の代行者であることを示す剣だった。
その姿は華美ではなく、装飾は殆どない。磨き抜かれた刀身そのものが美しさとなっている剣。
皮肉なほど清浄な朝の陽光に輝く、刃を少年へと向ける。
その人は、オルグレンにとって恩人だった。
自身が何者であるかさえ分からなくなっていた時に、一番初めに手をのべてくれた人。
そして、友人だった。
何処にいればいいかわからない中、ロゼはオルグレンに隣という居場所をくれたのだ。
導き手でもあった。
その少年もまた、何かに苦しみながらも生きる一個であると知った時、オルグレンは本気で人の身を案じるということを、心の発露から思い出した。
彼を支えたいと願い、守りたいと過ごしてきたのだ。
そしてその気持ちを、ロゼもまた当たり前のように……少し不器用にオルグレンへと返してくれるのが嬉しかった。
だから、守るべき弟のように感じていた。
彼とならばいかようになってもいいと感じる、相棒。
それを、あらかじめ裏切っていたのは、オルグレン自身。
そして、今もまた彼へと刃を向ける。
「すまないが、――今ここで、俺は死ぬわけにはいかない」
殺されてやることはできない。
オルグレンは狂剣と呼ばれる少年にそう応えた。
己の宣言と共に、心のどこかに確かに在ったものが、崩れ、霧のように消えていく。
季節が一巡りする間、かつてそう結んだ約束。
それが終わって尚と、交わした希望。
優しく輝かしかった約束の全てが、消え去るのを感じる。
その中でオルグレンは決意した。
心を寄せ合い、共に過ごした者として。
せめて……
せめて自身の手で、少年を殺す。
此れに、余人を関わらせなどしない。
そして自国を守るためならば手段を択ばぬ、醜悪な化け物となるのだと。




