十九章《二節 約束の終わり》1
夜が白む。しかし、地上は暗く、辛うじてしか地面が分からない。
だが、恐れず動く。オルグレンは周囲を見渡した。ここにはまだ去らぬ夜の帳に、怯える馬も、乗り手も居はしない。
アィーアツバス軍はすでに宿営地を発ち、行動を開始している。
クゼリュス、ツァーカ、アィーアツバスの交易の要所。
三国の交わる街リリートゥ。
そこまであと半日。
ここで再び三百騎ほどの軍を割き、一団をその街へと向かわせた。
リリートゥは、領土としては馬司の国アィーアツバスであるものの、現在はクゼリュスの手勢の流入が著しい。
正規軍ではないが、それに類する者たちが跋扈している。そうと眉間にしわを寄せて言ってくれたのは弟テレンアレクだ。
これからそこを背にして戦う。であれば、リリートゥからクゼリュスの者達が這い出てくるのを阻止せねばならなかった。
それが為の部隊が遠く離れていく。街につく前には合流予定の氏族とも会い、どうにか五百騎程度となるはずだ。
背後を任せる彼ら勇士の姿を、オルグレンは見送った。
「さて、これからが我々の正念場といったところですかな」
老大将ボルフェジが、オルグレンにのみ届くように言う。
声は抑えられていたが、息が白く漂った。
言葉のみならず、草原を渡る白い冷気までもが気を引き締めよと言ってくる。
なにせ今の三百騎、先日にはスートリアが率いる千騎と別れている。
アーベルト率いる一万五千に対し、こちらの今の手勢は五千七百。
あまりに不均等だった。
それでも、征かねばならない。
そうして進む、銀の空の下。
色褪せたように見える草原で、いよいよ北へと軍を向けようとした頃。
「オルグレン王太子殿下、……例の件でお耳に入れたいことが」
老大将の配下、甲冑に身を包んだ壮年の男が馬を寄せてくる。
オルグレンは自身の鼓動を感じた。心が騒めく。
しかし、表は取り繕う。馬の歩みは止めないままに、オルグレンは報告の言葉の先を目顔で促した。
「先行した斥候より伝令にございます。例の白い子供が、と」
兵が言う。
先日から度々聞いている話だ。
そして、その不審な白い子供の正体は……。オルグレンは少年の名を胸の中にだけ呟いた。
そうしながら、自身の奥底で思う。彼は何をしに来たのかと。いや、本当は分かっている。
だからこそ、オルグレンはそれに纏わる変化があれば、自身へ直接伝えてくれるよう願っていた。
「またか」
ボルフェジが呻く。
「はい。ただ……接近を試みてもすぐに逃げられるのは相変らずですが」
壮年の男が言葉を続けた。
「今までとは違い、此度は我々の進路上に……、まるで待ち構えるように居たとのことです」
その言葉に、手綱を握る手が痺れる。
尚も何か言葉が続くような気配がある。しかし、オルグレンには聞き取れなかった。蹄の音さえ遠退き、代わりに自身の心音が重く耳を塞ぐ。
その中で、やはり彼は――と思う。
目を逸らしたくとも、もう逸らせないのだと知る。
ここでの接近の意図……少年がどうするつもりなのかが、オルグレンの心に突きつけられた。
獲物を追い詰める獣のように、姿を現しては消える有様。それをただ会いに来てくれたのだと、思うことなどできはしない。
だが、気のせいであればいいと、自身の考え過ぎであってくれと願う。
しかし、ロゼは世情を知り、戦況を知り、これから先を読むに足る知識と視点を持つ少年なのだ。
この戦局の意味を、重さを、よくわかっているに違いない。
少年は狙っているのだ。
オルグレンを討つべき時を。
それを果たされれば、馬司の国は折れる。
自身の存在が、それほど大いなる者と言う意味ではない。
数の不利を今は士気が補ってくれている。しかしそれは、奇跡の力ではないのだ。
いかに勇猛な騎馬の民といえど、人間だ。小さなことで挫けてしまう。
さすれば、敗北に大きく近づく。
その亀裂。城郭を崩す始めの小さな欠けに、オルグレンは十分なり得る。
もしも、今いる軍が退けば……。
アーベルトの手勢は、リリートゥを占拠するに違いない。
そこを足掛かりに、クゼリュスは馬司の国を攻めるだろう。その戦争の行方は――少なくとも馬司の国アィーアツバスに優位だとは言えない。
抗えたとしても泥沼になる。その負荷は、間違いなく病床の父王と、虚弱を抱えた末弟テレンアレクを蝕む。
一方でこれは、標星の大国の安泰も意味しない。
今この状況で、クゼリュスが馬司の国へと戦力を傾倒すればどうなるか。エーイーリィの残存勢力のみならず、アディーシェも動くだろう。
極端な予測をするのであれば、馬司の国と標星の大国どちらもが今の姿ではいられない。
それが、少年の狙いであり、成そうとしていること。
オルグレンのみならず、個人でアィーアツバスを、クゼリュスを断じるつもりなのだ。
「……オルグレン様」
唐突な声に、正気づく。気づけばオルグレンは手で額の傷跡を押さえ、俯いていた。
焦点を取り戻した先には、眉を寄せた老大将の顔がある。
いかがなされた、と問うてくるボルフェジをはじめ、傍らの面々に気づかわしげな表情が浮かんでいる。
オルグレンは奥歯を噛み締めた。胸に渦巻く荒波を耐えながら、彼らを見渡す。
そして、今一度認識する。
ここに集うのは、オルグレンが守るべき国の民たちであり、共に戦う将兵たちだ。
自分たちの後ろには、広い草原があり、そこには風となり大地を渡る生活を営む愛すべき民があり、この場にいる者たちの愛おしい家族たちが居る。
何処かに居るのだろう少年へ、どうかやめてくれと、オルグレンは祈った。
本当は、オルグレン自身としては、少年の心が慰められるのであれば、斬り捨てられて構わない。
それだけのことをしたのだ。
にも関わらず、あの風雪の渓谷で罰を与えられないのであればと逃れ、ここにいる。
だからこそ、少年がやはり罰をと望むのであれば、応じたい。オルグレン・サイラス・レヴァニールとしては、彼の刃に断たれることを望んですらいる。
だが、もう、駄目なのだ。それは許されない。
王太子オルグレンなのだから……。
民を守る義務がある。
責任がある。ただ一人の為に、死んでやれない。
しかし、そうと分かりつつも、オルグレンは自身を二つに引き裂き、分けたかった。
ロゼにせめてもの安らぎを与えたい自分も、生まれ育った土地の同胞を守りたい自身も、どちらも自分自身なのだ。
だが、そのようなことなどできはしない。
どちらかを、選ばなくてはならない。選ばなくては、と思う。選ばなくては……。
息を吸い、そして吐く。
「……全員に申し付ける」
オルグレンは、詰まりそうになる喉を開いた。言い始めて、後悔が過る。
身勝手だ、と。それでも、せめてものことをしたい。諦められないのだ。
どうしても、どうしてもであるのならば……。
心の中に、血が滴る。いつか矢を受けたときよりも、深く濃い血が流れていく。
「二つ、わがままを許してほしい」
オルグレンは言った。
馬を進ませながら、それぞれの戸惑いが向けられるのを感じる。
「一つ、その子供への手だしを禁ずる。……――これから先、何が起ころうとも、だ」
困惑の色が強まる。
しかし、オルグレンは構わず少年が待ち構えているであろう方角を見た。
迂回する道もなく、このまま進むしかない。
逃げ隠れられるものでもない。
寧ろ今の時点で射掛けられていないことが、少年の慈悲なのだろうとすら思う。
「……もう一つは、後から言う」
言いつつ、オルグレンは己が自分自身ではなくなっていくことを感じた。
人を率い、民を守り、国を受け継ぐと決めた己でも。
友と慕い、弟と思う人を守りたいと願う自分でも。
どれとも違う、誠実でなく、矮小で、醜い存在に……




