十九章《一節 翼の知らせ》2
「馬術で引けを取るつもりはありませぬが、……肝に刻んでおきましょう」
敵を軽んじることは禁物と、ボルフェジが言う。
その声を聞きながら、オルグレンは腕を組んだ。
圧倒的劣勢は分かったが、ここで退くわけには行かない。
取るものも取らず南下するクゼリュス軍が、もしもリリートゥを押さえればどうなるか。
潤沢な物資に、リリートゥの囲郭という壁を手に入れられてしまえば、騎兵では突破が難しい。
まさしく脅威。なんとしてでも、その事態だけは阻まなくてはならない。
無論、これは当初からある懸念であり、達するべき目標と何ら変わらない。
だが、攻め寄せてくる人数は敵方が多いとはっきりと分かった。
そして、素早さもこちらに引けを取っていないのだという。
状況を把握し、オルグレンは剛直の騎士へと目を向けた。
「スートリア卿、我が馬ソノアラをお前に託す」
「……では、あの千騎を?」
オルグレンが言うと、スートリアが素早く察した。
視線を交わすだけで意図を汲み、お互いに愛馬を口笛を吹き呼び寄せる。
そうして行うのは手綱の交換だ。
オルグレン不在の間、剛直の騎士に世話をされていたという愛馬――ソノアラ。
その青毛の馬は親しんだ様子で、スートリアの逞しい肩に鼻を寄せた。
一方で、オルグレンの元へとやってきた、額に白い星を頂いたスートリアの黒馬は、穏やかな表情で首を巻きつけてくれる。
その光る艷やかな逞しい黒馬の首を、オルグレンは撫でた。
「お傍を離れるのは哀しゅう御座いますが、峰々を駆け抜け、我が身を槍とすることを誓いましょう」
スートリアが言った。
「しかし……これで我らは六千となりますな」
髭をしごきながらボルフェジが口にする。
何も彼は臆病で言っているのではない。
ぼやきの言葉を借りた注意喚起だ。それをオルグレンもまた正しく受け取った。
心にまた一つ緊張を覚えつつ、小さな手紙を油紙に戻そうとし、はたと手を止める。
鷹――ヤルルが届けてくれた書簡。つい中身に気を取られ、油紙についてはさほど気にしていなかったのだが……そこには、文字があった。
短く、一言。
「スートリア!」
敬称を忘れ、オルグレンは思わず年上の幼馴染を呼び止めた。
向き直る彼へ、油紙の方を渡す。
そこに綴られた言葉は、女性のものと感じられる、たおやかな文字だった。
スートリアの奥方の字で間違いないだろう。
たとえ気づかれずとも構わないと書いたのであろう、小さな言葉。
だが心配も、鼓舞も、夫婦の慕情も全てが込められている手紙と見えた。
そこに綴られている言葉は一言。
――『あなた』。
文字を読み上げ、スートリアが武人らしい顔へと、見る間に朱色を立ち上らせた。
「若いのぉ」
ボルフェジの言葉が心に突き立ったらしく、スートリアの顔がますます赤くなる。
どうとも返答しかねる様子で、目上の人に向けるにしては珍しいしかめっ面となった。とはいえ手元では、その油紙を丁寧に折りたたんでいる。そして懐へとしまい込んだ。
それを微笑ましげに眺めるボルフェジがいる。鼻を鳴らす馬たちは、武骨な騎士をからかっているようでもある。
ヤルルがスートリアの肩で羽ばたき、一声鳴いた。
甲高い声に誘われてか、王都からの風が吹く。
スートリアが風を透かし、王都の方角を仰いだ。
ボルフェジがその姿をまぶしそうに目を細めて見、自身もまた奥方を思ってか視線を遠くする。
そういった様子は、他でも見られた。休止の間に、草原と空の間を見つめる者がいる。
或いは、目の前の戦友と、語らい、ふざけ、戯れあっている。
オルグレンの前には、今、あたたかさがあった。
彼らの絆を、守らなくてはならない。それが課せられた責務だ。
だが……オルグレンは言いようがなく寒さを感じた。
どこへなりとも共に行ける、一緒にいれば何事でも成せる。行き着く先が死すことであっても共にであれば、それで構わない。
そう思った者は……。
自ら作った欠け。その失った大いなる穴は今埋めがたく、まるで半身が無いようでさえある。空虚な心地が胸に迫った。
西へ西へと向かって歩く間には確かにあった、胸の中の芯が今はない。
あれは記憶などより、よほど大切なものだったと、オルグレンの中の私人が叫ぶ。
一方で公人としての声も叫ぶ。
アィーアツバスの王太子ならば、民を国難から守ることこそが責務。他所事に構うな。
目の前に広がる絆を、誰にも壊させはしない。
侵させるわけにはいかない。
分かっている。
だが……どうしようもなく、寒い。
そう言った深々と降り続ける黒い雪のような思いが、胸を占めていたからだろうか――……
オルグレンはその日もたらされた知らせに、天と地がぐるりと廻るのを感じた。
将兵の手前、表情を取り繕おうとしたが……成せていたのかは、自身でも定かではない。
「見回りより報告にございます。怪しげな者有り、と」
伝令兵がそう言ったのだ。
「白い髪の子供が、我らの後方に現れ、姿を見せては消えていくのが目撃されております。つかず離れず、追えば姿を消す有様でして……」
ひどく不気味な子供だと。
報告の声が耳の向こう側へと流れていく最中、重たく心音が鳴る。
オルグレンは確信した。
彼だ、と……




