十八章《二節 アィーアツバスの王》1
冷たいような香りが撫でていく。
青々とした匂いが何であるか、薬師に聞かずとも、柳だとオルグレンは判断した。樹液が痛み止めになるのだと、知ったのは少し前。
次いでそれを煎じ汁として飲んだ、ロゼの固まった顔を思い出す。
王都スヘネ――。
その中核にある王の住まい。他の国とは異なり草原の館は、その威厳を高さではなく広さで示している。
広い平屋建てとなっており、玄関を入ると表書院と呼ばれる応接の間、そこから奥へ奥へと行くにつれ、格式が上がっていく。
最奥の玉座の間を抜け、更に奥へと進むと王家の住まいがあった。
オルグレンの家だ。もっとも、オルグレンとその兄ベルンレンは、外の天幕で暮らす月日の方が多かった。
だが、幼少期を過ごし、末弟テレンアレクとも会える家だ。陽をよく浴びた建材と、住むものの匂いが混ざった空気は、オルグレンをまるで眠る前の心地にさせた。本当に気を抜けば、そうなったかもしれない。
しかし――
黒髪の騎士スートリアが、意識してだろう。薄い硝子を扱うようにそっと戸を叩く。
来訪を告げれば、オルグレンの父であり、アィーアツバスの王、ホイルカインの部屋は静かに内側から開かれた。
その時香ったのが、柳の香りだ。
オルグレンの脳裏には、苦いと呻く少年の姿が過った。
それをどうにか心の中だけで振り払うも、今度は別の苦しさが襲う。
懐かしい家族の匂いと混じる、柳のにおい。それが父王が病床にあることをオルグレンへと突き付けてくる。
「……父上、母上。――ただいま帰参いたしました」
室内へと招かれ一歩踏み入れると共に、オルグレンは礼をとった。片膝を着き片腕を前、もう片方を背に置き、頭を垂れる。
そして自身の永きにわたる不祥の詫びを、口にしかけ……言う前に、頬を細い手に包まれた。
「顔をお上げなさい」
言われるがまま、オルグレンは従った。
実の母ではないが、母と呼ぶその人が目元を赤くしている。次いで、お立ちなさいと命ぜられれば、それに従う他はない。
オルグレンは胸に温もりを感じた。優しく抱きしめられる。
少し痩せたと見られるその人は、かつてと同じく内心のあたたかさを美しさとして纏っているようであり、記憶にある姿と変わっていない。
「よく戻りました」
言葉はその一言だった。しかし、抱擁の腕、そして身を離した際の表情が何よりもオルグレンへと言葉をくれていた。
そのまま彼女は、そっと部屋の奥の方へと下がり跪く。
その姿を追い視線を向けた寝台。それもまた、オルグレンの記憶のままだった。
足板には、幼き日の弟が字を書くところを披露した際に作った黒墨が深く染み込んだままだ。
一歩一歩、そこへと近づく。
「……オルグレンよ」
低く掠れた声が掛かった。
「……父上」
声の震えを抑えつつ寝台の脚の傍らで、オルグレンは礼を取ろうとした。
「挨拶はよい、はよう顔を見せろと言ったであろう」
王妃の支えを受け、王が体を起こす。
侍従によって綿詰めが背に差し入れられた。体を起こした父王の顔は、オルグレンが知る頃とは異なり、病のやつれがある。
前合わせの服から覗く胸板も、既に肋骨が浮いていた。
だが、紗がかけられた窓から注ぐ柔らかな陽射し。それを受ける顔は、目元が窪もうと何一つ変わらない。
厳しくも優しい、優しいが厳しい、そういった目だ。
頬がこけようと変わらない、父の顔。寝台に寄ると、父王がすっかりと細くなった腕を上げた。
その骨の印象が強い指が、オルグレンの前髪をそっと横へと流す。
「傷ができたか」
父王がそう言い、目を細めた。
嵐の海で負った額の傷は、今もなお消えていない。
「……得難い経験をいたしまして」
オルグレンは静かに答えた。
始めにクゼリュスを脱出してから、ほぼ丸一年。
本当に、様々な経験をした。
冷涼なガレ地を馬で駆けたことも。
今はもう天上へと旅立ったであろう、かの女傑の手を借り海へと出たことも。
その最中で、幼少の頃からの親友を失ったことも。
そしてロゼと出会い、この西の地を目指し、共に歩んだ全ての道程も。
このままなにもかにもを子供のように父へと話し、解かれたいという心地がオルグレンの胸へとこみ上げた。
それを堪え、目を伏せる。
「そうか……」
父王が一言だけを息とともに言う。
深く聞かれることはない。
だが、目だけは様々なことを問いかけ、そして深い青色の瞳はオルグレンを映してくれている。
それだけで、胸が熱く詰まった。
視線で問答を交わし合い……しかし、さほど経たず。
王が、意識的に肺へ送り込むように、深く息をする。
「必要なことであるから、一つお前に問いただす」
「――はい」
「先祖の霊、儂、そしてお前の愛馬ソノアラと、ニーヴィに誓って答えよ」
父王がそう回答に誠実を求めた。
一瞬にして、空気が濃くなる。張りつめ、それが肌に感じられるようだった。
控えていた従者も、王妃もが音を立てまいと呼吸を潜める気配がある。
「かしこまりました」
オルグレンは再度、肯定を返した。
「――お前の帰還について答えよ。導星の大国クゼリュスの計略か、否か」
父――ホイルカインが言う。
オルグレンは息を整え直した。そして、父の目を見る。
「誓ってお答えします、王よ。否にございます。全ては、私、オルグレン・サイラス・レヴァニールの意志であり、仲間諸氏と、……友人の助力によるものでございます」
はっきり、そして真直ぐに答えた。
アィーアツバス王の目が、オルグレンの目を、身を、射抜くように向けられる。
審判の時は、息をするのさえ戸惑われるほど静かだった。
耳が痛くなるほどの静寂の中で、誰しもが王を見る。
そして、程なく。
「信じよう。オルグレンよ」
ホイルカインがそう言うと、腕を動かした。
「……しからば、お前が今、一番気になっておるだろう、二つごとへの沙汰を伝える」
力なく下ろされた手が敷布の上にあるまま、手のひらが向きを変える。
自身へと向けられた手の意図を、オルグレンは察した。父王の手を握る。
それは骨を感じ、皮があるばかりの感触で乾いていた。だが、弱さなど感じない、硬い手だった。




