十八章《一節 帰郷》2
隊から一頭馬を借り受け、駆ける。
年嵩の兵らと共にオルグレンは、いよいよと首都スヘネの懐かしい姿を見た。
晴れてきた広大な空とそこを流れる雲の下、赤い囲郭が鮮やかに映える。
アィーアツバスの大半は遊牧の民だ。
放牧地を求めて流れ、かつ瘴禍が寄る前に移動して過ごす。
三世代ほど前まで皆そうした散り散りの、氏族単位の生活だったとオルグレンは聞いている。
それを変えたのが曽祖父だ。
丁度そのころ、少しずつ拡大を見せていたクゼリュスからの侵攻も有り、アィーアツバスをまとめることを考えた建国の王は、遊牧の生活では不足しがちな菜などの農産物や、移動の生活では生産が難しい鉄器類の製造、物流の拠点、また知識の集積の場所として首都スヘネを作り上げた。
その首都を一層印象深く見せる、赤い囲郭。
この赤は当時、交易の拠点として使用を許可する代わりに、各氏族に納めさせた色がまちまちの日干し煉瓦を、近くから採れる赤泥で塗り固めたのが始まりだという。
現在は改修し、職人が焼いた煉瓦となり、色がまばらということもなくなった。だが、印象に残る赤が失われるのを民たちが惜しみ、赤泥を使った顔料を混ぜた漆喰で塗り固めるようになったのだと。
そうと歴史を語って聞かせてくれた父王の言葉が蘇り、オルグレンは目を細めた。
囲郭の奥には、大小さまざまな家が立ち並んでいる。更に奥には、屋敷の立派な大屋根が覗いた。
それこそが草原の館と呼ばれる王の住まいだ。
陽に輝く磨いた石と柵が囲う農地を通り抜け、風車の魔物避けが並ぶ、整地された道を進む。
オルグレンは先ず、年嵩の兵が宣言した通り、煉瓦造りの兵士詰め所へと通された。
一室に通され処遇の沙汰を待つ間も、客人としてのもてなしが振る舞われ、オルグレンは数日ぶりに、魚と実以外のものを口にした。
特に磚茶に乳と香辛料、アィーアツバスの西で採れる楓の蜜を加えた茶は、あたたかい。
冷え切った体に温度をくれ、強張りが溶けた。
そして、甘い。喜びそうな味だと、そう思う。
オルグレンは少年へと振り返ろうとし――
我に返って口を閉じた。
ロゼは……。
認識するのも胸が締まり、視線を杯へと伏せる。
どうしてこうなってしまったのかと、オルグレンの心には嘆きが満ちた。
もしも、と言葉が過ぎる。
しかし、それを打ち消すべく首を振る。
何処か何かが違っていれば、という幻想はそもそも成立しないのだ。
そうであれば、今まで過ごした一年もなかった。
無かった方が良かったのかもしれない……と。
ふと浮かんだ言葉を胸にし飲む茶は、ぬるく冷め、もはや何の味もしなかった。
それから、しばし――
オルグレンは、願っていた人物の来訪を感じた。
顔を合わせるその前から、スートリアその人だと確信がある。
彼の愛馬の猛々しい蹄の音で到着がわかり、兵と言葉を交わす声も部屋へと届いた。
あまつさえ、来訪を知らせるために戸を叩く音は、戸板を殴るような有様で激しい。
オルグレンは驚くことなく、椅子から立ち上がった。
まるで一直線。
思慮がないわけではないが、剛直なその人の変わらぬ様子が音で分かり、オルグレンは実に懐かしく感じた。
中の返答を待たず、戸が開け放たれる。
途端、スートリアの切れ長の目が裂けんばかりに見開かれた。
グロウと同じ灰色の瞳が現れ、口からは、ああと、声を漏らしてくれる。野太い両腕が上がり、震えていた。
顔を見、すぐに確信を得てくれたのだ。
そうと見て取り、オルグレンもまた心に凪を覚えた。
スートリアは、オルグレンの兄ベルンの友人でもある。
グロウほどではないが交友も深い。その彼に偽物だろうと決めてかかられれば、さすがのオルグレンも今は取り乱しそうだったのだ。
「迷惑をかけ、済まなかった」
言葉が出ないらしいスートリアに、オルグレンは声を掛けた。
黒髪の青年が頭を振り、オルグレンよりも高い身長を折って、床に片膝を着く。
「とんでもございません。先ずは、御身がご無事であらせられたこと、深くお喜び申し上げます」
スートリアはそのまま立てた片膝よりも、さらに低く頭を伏せる。
「横暴なる北の大国に囚われておられると知りながら、我らお救いすること叶わず。誠に不甲斐ない有様、なんとお詫びを……」
「スートリア卿、待ってくれ」
そのまま怒涛の如く謝罪が続きそうな有様に、オルグレンは制止を掛けた。
スートリアとしては言わなくてはならないことは知っている。
だが、ここに帰り着くまでに掛かった日数を思えば、あまり悠長にはしていられない。
オルグレンはスートリアの顔を上げさせ、立たせた。その上で言う。
「今はこうして出会えた。だから、我が身から出た錆を取り除かせてほしい」
「……御意にございます」
スートリアが頷く。
「卿も察していることと思うが、私がここへ逃れたことにより、クゼリュスとは戦争になる」
オルグレンは手早く伝えた。
スートリアもその可能性については察しているのだろう。彼が口を開く。
「それは、結構なことにございまする」
望むところ、と眦の上がった目元で力強く言う。
それは、五年間の屈辱を燃え上がらせていることを感じさせた。
しかし、駆け出す前の馬のようなありさまを示しながらも、
「私の方からも、お伝えせねばならぬことが」
剛直の騎士が軽い咳払いと共に居住まいを正した。
「ホイルカイン王より、御身がオルグレン王太子殿下であることを確認でき次第お伝えせよと、伝言を預かっております」
敬称に気づき、オルグレンは一度深く瞬きする。
兄はやはり御隠れになられたのだと、まごうことなき事実であることを噛み締めた。
同時に思う。自分は一体どれほど父王の手を、心を煩わせ、治世を乱してしまっただろうかと。
王家の務めは、民を安寧へと導くこと。ならば、今までのオルグレンは大罪を犯している。
父王の御意志は……。
思考の片隅に追いやっていたものが突き付けられ、オルグレンの脳裏には、厳しく強い父の眼差しが過った。
心を落ち着け直し、
「……聞かせてくれ」
そうと促すと、スートリアが胸に手を当て、低頭する。
「王はとにかく、はよう顔を見せよと仰せです」
そう言い終わると、こちらへと黒髪の騎士が外へ出るよう、手で促した。
オルグレンは、息を飲んだ。
そして、顔を伏せた。
急にもたらされた、あたたかな感情の中で、表情を上手く作れずにいるのを見られまいと。




