十八章《一節 帰郷》1
風が壁のようだった。
雪が矢のように吹き付ける。
その中をオルグレンはただ歩いた。
風雪に巻かれ、洞穴や地形のくぼみを見つけては天候をやり過ごし、弱まりをみては再び歩き出す。
食べ物は、昨日移動の前に支度していた魚を干した物と……本当はロゼの為に持ち帰るつもりで居た、道すがらで採った橘の実で補う。
潤沢とは言えなかったが空腹など、オルグレンにとってどうでもいいものだった。
ただ体を動かさなくてはならないから、口にする。それだけのもの。
それでも、旅路の中で笑い合いながら取った食事のことが思い出され、喉が塞がり、無理やりに呑み込んだ。
ただ進み、ただ歩く。
山の裾野に入る頃にようやく、風は緩くなり雪はそっと舞い散るだけのものになっていた。
オルグレンが振り仰げば、昊天の峰はまだ厚い雲の中。今も氷雪が吹き付けているに違いない。
そこからも歩き、歩いて……オルグレンがたどり着いたのは、アィーアツバス側の坑道だった。
なるべく早くに兵か役人かに出会いたいと足を向けたが、結果は思い出とはまるで異なる。
オルグレンの記憶にあるそこは、活気にあふれていた。
兵士とはまた違った屈強さを持つ人々が忙しなく働き、近場に作った作業者小屋で寝食を行っていた。
だが、目の前に広がるそこは、坑道は埋められており、小屋も柵もなく整地された痕跡が残るのみ。人影もない。
標星の大国が自国に近い場所に、アィーアツバスの民が居ることを厭い、立ち入りを禁じたか。或いは、馬司の国自らが、鉱毒によって閉じたか。
また或いはその両方だろう。
仕方がなく、歩き出す。
その頃にはロゼと別れてから、一昼夜以上が経っていた。
やがて、白い雪をかぶった広大な草原の大地がオルグレンを迎えた。
ただ静かに葉が風に撫でられる静寂の音だけが、揺れている。
それは焦がれた景色と、ぴたりと一致した。
だが……と、思う。
オルグレンの中に、いつか初めて遠景として眺めたときの、胸に沸き立つような感情はなかった。
だからこそ、気づく。
少年と共に見たかった、ここに至りたかったのだと。
肩を並べて、歩きたかった。
そして、記憶が戻らずとも、この地こそ帰らねばならない場所だと思い出せずとも、ロゼに感謝を言いたかった。
何か報いたかった……。
自然と手元へ視線を落とす。
オルグレンの手の中、そこにはただ一つだけの武器――投箭がある。
通り抜けてきた山は、鷲獅子の気配の為か瘴禍や瘴気の気配を感じることはなかった。
だが、ここからはその加護はない。
故に、オルグレンが頼りにできるものは小さなこの武器だけだ。
もはやかの少年に守ってもらう資格はない。だというのに、彼の持ち物を頼りとしている。
そのことにオルグレンの唇には、渇いた笑いが浮かんだ。
いっそ笑い出したい。だが、そうする気力など湧いてこない。胸が干からびている。
白い細かな結晶が張り付き、鷲獅子の毛並みのように揺れる草海原の中で、オルグレンはどうしようもなく独りだった。
❖
記憶にある山の景色、太陽の方角、地面に残された馬蹄の跡……。
それらをオルグレンは追い、アィーアツバスの首都スヘネへと向けてなぞる。
かつての兵の巡視路、そうと記憶にある道だった。
平地は歩きやすいはずだが、そうは感じられない。
先を進んでくれる小柄な背中。
振り仰ぐように見上げてくる視線、軽やかな足音。
くすぐってくるような言葉や、飄々とした声。
それらが、ない。
その事が、ツァーカの荒野を進んだ時よりも、オルグレンの四肢を重くする。
それでも、自己に課す。
――国へ帰れ。役目を果たせと。
朝靄の中、オルグレンは顔を上げた。
景色に霞みがかかっている。
その向こうで、ぼやけた形が浮かび上がった。それはほとんど影としか見えない。
だが、竿状のものを携行した騎兵。そうと思しき輪郭が見て取れる。狙った通り、巡回兵だと。
全員が長柄の獲物を携帯しているのが分かり、オルグレンは緩く肩の力を抜いた。
アィーアツバスの民は生まれるとその大半が、馬の背であやされ、その背に乗って育つ。
そして年ごろとなった健常な若者は、この地独特の武器を習うのだ。
それが、長柄の武器。
騎乗した状態で扱いやすいそれを、剣と共に仕込まれる。
オルグレンは、風向きを確かめた。髪と頬を撫でていく風は、自身の背後から騎兵へと穏やかに流れている。
それを感じ、口笛を吹く。
だが、暫し喋らなかったせいか、音となる前に乾き掠れ、消えた。
口を閉じ直し、ひび割れた唇を舐めて湿らせる。そして、再度……騎兵の乗る馬へと向けて、口笛を吹く。
やり直しの口笛はようやく音を発した。
まず反応したのは、耳がいい馬達だ。次いで、それらが何かに反応をしたことに、乗り手たちが気づき訝しむ。
騎兵達が口々に何かを言う声が、不明瞭に風に混ざった。
オルグレンは、再度口笛を吹いた。
――跳ねろ。
当然であるが馬は、手綱を取り、背に乗る主が優先だ。
しかし、素直な馬は他所からの指示に気づき、その指示に従うべきか否かを主人に確認しようとした。それが乗り手へとまた伝わる。
一度の違和感であれば見過ごされただろう。だが、二度目となると兵は、確認の必要性にかられたと見えた。
馬を止め、周囲を視認し……内一騎が、朝靄の中に人影を見つけたか。手でオルグレンを示すような動作をする。
オルグレンが革帯の中に投箭を隠し終える間に、馬蹄の響きが一斉に向かってきた。
そうして互いに容貌と、その仔細が分かり始める頃。
オルグレンは疲れの重さに垂らしていた両の手を、どうにか挙げた。それで無抵抗の意を伝える。
騎兵達は動作の意味を受け取ってくれたらしい。しかし、鋼の切っ先は地面に向けながらも、オルグレンを遠巻きに囲む。
彼らが、馬上で顔を見合わせているのがわかる。まるで、自分達の目を疑うようにしていた。
誰しもの顔色が、まさかという驚きと戸惑いに染められている。
誰かこちらの正体に、確信をもって気づいてくれはしないかと、願う。
オルグレンはよく兵の輪に混じって食事を取り、語らい、時にふざけて見せることもあった。
しかし、かといって、全軍と親しく交流しきれていたわけではない。
今オルグレンを囲む騎兵の中には、見覚えを感じてくれている者がいる様子だ。
だが、兵も王族の仔細をすべて記憶できてはいないだろう。顔を見ただけでは確信まで至らないらしい。
説明を、とオルグレンが口を開きかけた時だった。
正面に他よりやや上質な装備をした、年嵩の兵が立つ。
「……まさか、……。オルグレン様……?」
幽鬼でも見たような調子で、揺れた声を発する。
申し訳なくもオルグレンの記憶にはない人だった。それでも示してくれた反応から、彼は知ってくれているのだと分かる。
年嵩の兵が、さっと下馬した。それでも兵の頭の中では疑問が駆け巡っているらしく、他の騎兵には、下馬も何も指示しない。
瞬きを繰り返す目からも、事態を理解しかねている様子がありありと分かる。
オルグレンは口を開いた。
「皆に迷惑をかけていて申し訳ない。……標星の大国から逃れてきた」
そう手早く説明を口にする。
なんと……と、年嵩の兵が呻いた。しかし、その後が続かない。何を口にし、何を問い、どうするべきか考えているのだ。
彼らが戸惑うのも無理はない。オルグレンもわかっている。
敵国に囚われているはずのオルグレンが、唐突に顔を出すなど、まずは何かの計略を疑って然るべき。
それに偽物ではと疑う気持ちもあるだろう。
「悪いが、見ての通り今は身一つ。私がオルグレン・サイラス・レヴァニールであることを証明する物は、何一つない」
オルグレンは正直に言った。その上で続ける。
「得体の知れぬ者だと、引っ立ててくれても構わない。だが、どうか、グロウシュタットの兄君、ラーシェン氏族スートリア卿にお目通りを願いたい」
囲む騎兵達が、わずかに首を傾げた。
一方で年嵩の兵は眉を跳ねさせる。
オルグレンの親友……かつて共に捕らえられ、クゼリュスの地を共に逃げたグロウシュタット――グロウには兄がいる。
別段当人同士が隠している訳ではなかったが、同じ母から産まれた同胞でありながら、驚くほど二人は似ていない。無骨な印象の兄スートリア・アキア・ラーシェンは、両親にも似ておらず傍から見れば他人としか見えないのだ。
そのことをグロウは兄が同席する飲みの席で、笑い話として披露することがあった。
つまりは、彼らが兄弟であることは、多くの者は知らないが、仲間内で知る人は知っているといった具合の限られた情報なのだ。
知る者まで言伝できればと口にしたことだったが、年嵩の兵が目を丸くしている。
どうやらこの話を知っているらしいと、オルグレンはその様子を受け取った。
「……馬に合図を送られたのも、貴方か?」
年嵩の兵が、口元を引き締めてから問うてくる。
その質問にオルグレンは首肯で返した。
「驚かせて申し訳なかった。……だが、スートリア卿のみならず、急ぎ皆に知らせたいことがあったのだ」
許せ、と言う。
その返答に年嵩の兵が、首を振る。
馬を操るアィーアツバスの口笛、そしてスートリアのこと、それらで年嵩の兵の意思は固まってくれたらしい。
彼はしっかりとした声で言う。
「高貴なる方よ、申し訳ないが私では判断いたしかねる。我らが詰所までご同行いただきたい」
引っ立ててくれて構わないと言ったが、年嵩の兵はどうやら違う扱いを決めてくれたようだった。




