十七章《二節 目覚め》2
何かが動く気配。
それでゼオンは自身の意識が浮上するのを感じた。
体の芯に残る疲れを感じつつ、記憶を手繰る。
昨日、ラナンと出会ってからゼオンはひたすらに行動した。
一呼吸の度に冷え込むような気温と、雪嵐の様相を呈する天候に備えるためだ。
それは自身の生存のためもあったが、何よりもロゼを生かしたいその一心だった。
人形のようなロゼをそっと抱え、なにか立て籠もれる場所はないかとラナンに願う。
その時、見たこともない巨大な獣へと姿を転じたラナンに、ゼオンは驚くような余裕もなかった。
翼で運んでもらい、険しい地形の中にある洞穴へ。あとは大きな獣の翼の中に匿ってもらい、養い子を凍えさせぬようひたすらに寒さをしのいだ。
そして、そうするうちにいつの間にか眠ってしまったらしい。
高い風鳴りが聞こえる。空気も冷え切っており、悪天候はまだ終わっていない。
薄目を開け、ゼオンは周囲を把握した。
動いたのは白の毛並みではない。そうと判断すると同時、少しだけ息をつく。
寝起きのぼやける視界の中でゼオンはロゼを見た。
暗い洞穴の入り口からは、弱々しい薄い光が差し込んでいる。
それが少年の白い頬を、淡い明るさで撫でていた。
ロゼが上半身を起こしている。
躯のようなありさまだったのが、動いてくれたのであれば、ゼオンにとってはそれだけで嬉しかった。
しかし、
「…………」
よかった起きたのかと、言い掛けた声は喉に張り付いた。
一瞬、言葉に詰まる。
ロゼの瞳が、凍てついて見える。薄紅色の氷をくりぬき、はめ込んだような目だ。
まるでと、ゼオンの脳裏には光景が過ぎ去った。
再会したばかりの頃のサクラス。戦いを前にした彼女の、かつて垣間見た横顔が浮かぶ。
「……ゼオン、」
体を強張らせたゼオンよりも、僅かに早くロゼがゆっくりと振り向く。
その時にはもう、ロゼの目はただ静かなだけの瞳となっていた。
しかし、どこか何か遠くにいるような、よく知っている養い子のようでまるで違うような、奇妙な感覚がゼオンの背中を這い上ってくる。
ロゼが口を開く。
「よくこれたね。まさかまた来てくれると思わなかったよ」
ああ、でも、と言葉が続く。
「あの人にしか知られていなかったことが、貴方にも見られてしまったね」
人ならざる者との付き合いを、とロゼが言外に言う。
だが、とゼオンは己の中の靄を振り払うべく首を振った。
先ず、そのことよりも言葉の方が気にかかる。
「あの人……? ロゼ、……その、彼はどうしたんだ?」
オルグレンはどうしたと、ゼオンは直接その名を口には出せなかった。
実のところ、薄々はわかっている。
彼らの間で何らかの問題が生じただろうことを。
……なにせ、ゼオンには心当たりがあった。
鉱物資源と、昊天の峰の毒を発端とする二国間の諍いに、オルグレンがどう関わっていたのか。
ゼオンの大剣を実に様になって扱って見せた青年のことだ。文官ではなく、武官だっただろう。
そして、王位継承権を持つ立場であったことを考えても、馬司の国で何らかの立場を持っていたか……持とうとしていたことは想像に難くない。
それにゼオンは聞いたことがあるのだ。
ロゼを拾ったあの時期に、クゼリュスが外交に対する有力な手札を握ったと。
当時噂でしかなかったそれ。
しかし、あの時期以来のことを考えれば、頷けた。
つまり、オルグレンは当時あった最も大きな争いで、捕らえられたと考えられる。
それは、クゼリュスがアィーアツバスを利用し、昊天の峰に住まう民を根切りにしたという衝突でのことで間違いないだろう。
であれば……、オルグレンはロゼの故郷を根絶やしにしたことに、関わっている可能性が高いのだ。
彼らは、恐らくそのことに突き当たってしまった。
間違いであればいいと、無関係であればいいと願っていたことの全てが、事実となっている。
過去に負ったどの傷よりも、そのことが痛む。
代わってやりたい、ゼオンはそう思った。何をどうすればそうしてやれるのか、苦しみを取り除いてやれるのかも、分からない。
だがそう願い、向けた視線の先で、ロゼが薄く微笑む。
「あの人は、帰ったよ。馬司の国へと先に」
養い子の言葉は、歌うように滑らかだった。
「……また会いたいな」
言葉だけを聞けば、ほほえましいとも言える。実に、何のことはない話だ。
だが、ゼオンは腕の神経に、緊張が奔るのを感じた。はっきりとは言えないなにかで、利き腕がそうなる。
一方で、ロゼは淡雪のように柔らかい口調だ。
「ああ、そのことでね。二人にお願いがあるのだよ」
ゼオンが来てくれて本当に良かった、とロゼが言う。
注意を引かれてか、ラナンが鷲の頭を緩く動かした。
ロゼが、その白い毛並みの首を撫でる。
「まず、ゼオン。貴方には、ラナンを連れてあのつり橋の村か、ツァーカに行って欲しい。この辺りは危ないからね」
「戦争を避けろ、ってことか?」
ゼオンが聞き返すとロゼが頷いた。
その言葉から、養い子がラナンを守ろうとしていることを汲み取る。
「うん。二人には、巻き込まれて欲しくないから」
その話にゼオンは、わずかに顔を顰めざるをえなかった。
指の欠損やそのほかに負った怪我であまり長く戦えないことは、自覚している。
だが、標星の大国に対しての感情は、消え去ったわけではない。大国に対し一個人では対抗しようがない。だからこそ、今はおとなしくしている。
だが、アィーアツバスとクゼリュスが大いに争い、戦争の機会があるのならば――一個の兵として戦える機会があるのならば、それを逃したくはない。
美しい妻。得難い絆を繋げた相棒。
それらを奪われた返礼を、ゼオンはまだできていないのだ。
だが、ロゼの考えもわからなくはなかった。
よく事情はわからずであったものの、ロゼと白い獣が交わす視線は親しい。家族と呼べる確かな絆を感じさせるものだ。
同郷の生き残りであり、家族であるのならば、どこか安全な場所へと落ち延びさせたいと思うのは、当然だろう、と。
「それから、ラナン」
ゼオンが返答を返しかねていると、ロゼは家族へと目を向け直していた。
「私のわがままを、もう一度叶えてくれるかい……?」
ロゼの不可思議な言葉に、鷲の頭部が傾ぐ。
「もちろん、と言いたいところだけど。聞いてもいいかい?」
ロゼは何をしたいの?、とラナンが静かに問うた。
「私は、君たちに生きていてほしい。だから、存在そのものを消す、力と器を混ぜ溶かし消してしまう、解脱を行いたくない」
ゼオンにはわからない話をロゼが言う。
ラナンには事情が分かるのか、白い頭部が小さく頷いた。
それを受け、ロゼが口を動かす。
「あの人は、力を失ったキュラスが器の姿……人間の姿になったと言った」
そう言い、言葉を区切った。ことさらゆっくりとロゼの手が、ラナンの毛並みを撫でる。
「君たちが、力を持つことで解放をされない存在となっているのなら……、開放され世に混ざっていくことが望みであるというのなら……」
話すロゼと、ラナンが視線を交わす。
洞窟の中には、薄明りと静けさが満ちていた。




