十七章《一節 あとを追って、》2
隊長の命令に従い各々が下馬し、近場に馬を繋いだ。
騎士は兵の技量を踏まえて降らせず、かつ自身も他と足並みを揃える選択をしたらしい。
馬を繋ぎ支度を整えるや、近場のしっかりとした樹へと縄を結び付け、渓谷へと放る。
安全に急な坂を下りる為の手筈。
その縄に体重を預け、案内人が坂を降る。次に兵と騎士が降りた。
人間の方は真剣そのものだが、茶色の犬だけは呑気なものだ。人が動く度に揺れる縄にじゃれついている。
そのせいだろう。ゼオンが眺める中、一団は渓谷に降りるや、黒犬へと導かれていった。
上流と下流に別れた二匹の反応を、騎士は黒い犬が正解と見たらしい。
縄で遊ぶような集中力を欠いた茶色の犬は、信じられぬと言ったところか。
ゼオンはそれを見送り……そして、顎を擦り口角を上げた。
そのままクゼリュスの者達が残していった馬へと近づく。
不審な男に近づかれようと、軍馬は暴れ出しはしない。
当たり前だ。訓練された馬は賢い。
おとなしく、また他人の世話を受けることに慣れている。
その上――その馬の気質か。
近づくと、騎士が乗っていた馬がゼオンの胸へと鼻づらを寄せてきた。引き締まった体躯の、一目でアィーアツバスの生まれとわかる軍馬だ。
ゼオンは先ず、その人懐っこい鹿毛色の首を撫でた。馬の方もそうされるのが好きなのか、首を擦り付けてくる。
そのおねだりにゼオンも、惜しみなく応えた。しばし馬を撫で、筋肉をさする。そうしながら思い浮かべるのは、黄金の髪の青年のことだ。
吊り橋の集落に居た輓馬へ、オルグレンがしてやっていたのと同じ手管をする。馬に慣れた青年の手解きは確かなもので、鹿毛色の馬の目がうっとりとしたものに変わっていった。
「なあ、少しの間、主とならせてくれないか」
そっと馬の耳にゼオンは囁きを吹き込んだ。
返答のように鹿毛の馬が尾を高くするのを眺めてから、次の動きに移る。
一度鹿毛色の馬からは離れ、他の馬の頭絡を外す。
馬留と馬具から解放され、それらはスッキリとしたような顔になった。一仕事終えた心地にでもなったか、思い思いに屯し始める。
その頭絡と、背の荷物のいくつかを鹿毛色の馬へと移し、ゼオンは馬上の人となった。
再び首を撫でてやれば、馬が機嫌よく体を揺する。よく躾けられたいい馬だった。
人懐っこ過ぎるのがわずかな瑕疵だが……ゼオンにとっては、ありがたい。
そのまま、ゆるく馬の腹に足を当てて願う。
馬は、ゼオンの願いに応えてくれた。気楽な調子で動き、傾斜へと進む。
降り始めると推測の通り、ゼオンの視界からは地面が消えた。
馬が傾き、鞍の荷物に背が触れる。そのまま滑り落ちてしまうのではないか、という危惧が過る。
だが、馬を信じて、足を前に出し背を倒す。
地面を見ようと、前のめりになることは禁物。
馬が勝手に身の均衡を取ってくれるのだから、それの邪魔をしないことこそ肝要。後は降りよそうな道を目端を利かせて選んでやり、右へ左へと導いて機織りの横糸のように降りていく。
そうして、ゼオンは大きく息を吐いた。安堵からだけではない。
渓谷の景色――それが見事だったからだ。
上からでは分からなかったが、巨樹と呼ぶに相応しい木々がそびえ立っている。
それらの間を霧とも湯気ともつかぬ白い狭霧が流れ、光を通すほど薄く織られた紗を纏っているようだった。
どこか神聖な景色。あの白い有翼の獣が住まうならばこここそが相応しいと、ゼオンの中にふと浮かんだ。
束の間、見とれかけて……忙しない息づかいに気づき、はたと我に返る。
いつの間にかゼオンの足元には、茶色い犬が寄ってきていた。
黒い犬の方に立場を奪われながらも、茶色い犬は無邪気にしている。尾を振り、舌を出し遊べとばかり。
ゼオンが他の馬から取ってきた頭絡を振り上げると、輝く目でそれを追った。
そしてそれを投げれば、一直線に駆け出す。
とは言え、ゼオンとしては何も遊んでやろうと投げた訳では無い。狙いの通り、頭絡は渓流の中へと飛び込んだ。
一方で遊ばれるつもりだったらしい犬は、川岸まで勢いよく寄る。
しかし、中へは飛び込めず鼻を鳴らす。
いかにも無念そうな、その後ろ姿。
それが哀れになり、ゼオンは貰ってきた荷を探った。
手元に寄せたのは粗末な袋。中身は干し肉の破片だ。
一つをつまみ上げ、犬に向かって放る。
途端、犬の耳が立った。地に落ちた餌の音か、匂いかに気づき、茶色い犬が一転して喜色を浮かべる。
尾を振り跳びつく犬には構わず、ゼオンは耳を澄ませた。
特にクゼリュスの手勢の悲鳴などは、聞こえてこない。谷を流れるぬくもりのある風にも、鉄錆のにおいはない。
それがゼオンにとっては愛し子達がまだ補足されていない証左だった。
少し考え、決める。
茶色い犬が導こうとした先へと、ゼオンは馬を向けた。
岩の連なりの上を馬を導いて渡り、向こう岸へ。そのころには干し肉を食べ終えた茶色い犬が追い付き、先導してくれた。
やがて山道を示して、ひと声吠える。
近づき見れば、木々と下生えの合間を掻き分けた痕跡があった。踏んでしまったのか、折れた小枝がある。
枝の断面は、まだ汚れていない。
人が通ってまだ一日と経っていない跡。
その先にわずかに残る靴跡は、目測でゼオンの足とそう変わらない大きさだった。
つま先は、渓谷を離れ山の方へと向いている。
その一種類の足跡しかない。
「つまり……」
ゼオンは、黒い犬と騎士たちが消えた渓谷の方を見た。オルグレンは向こうで夜を明かしたのだろうと、推測する。
その後ここを通って進んだのだと、ゼオンは目の前の痕跡へともう一度、視線を向けた。
そうする間に――
「何者だ!?」
誰何の声がかかり、ゼオンは首を転じた。
霞みがかった向こうに、先ほどのクゼリュス兵の一団の姿が遠く映る。ゼオンはそれへ手を挙げて見せた。
「悪いな、借り受けるぞ」
では、おさらば、と。
兵まで届く程度の声量で言いつつ、ゼオンは手にした袋から干し肉を周囲へ撒いた。
そして馬腹を蹴る。
遠くにいる主人よりも、背に乗った人間の明確な指示を受け、山道へと馬が駆けだす。
渓谷を流れる川の石と岩に足を取られ、走り出せない男達が声を反響させ制止を叫ぶ。
同じくして犬を急き立てる声が、ゼオンの背後に僅かに聞こえた。
しかし、それは、すぐに犬たちを叱責する声へと変わっていく。
どういう情けない有様となったのか、この隙に馬脚で距離を取ったゼオンには知りようもなかった。




