十七章《一節 あとを追って、》1
見上げる山は、天に爪を穿つような見事な姿をしている。
聳え立つ独特の山容を持つ、昊天の峰の麓。
クゼリュスの地にしては珍しい深い森のただ中で、ゼオンは立ち止まった。
薄く汗をかきはじめている。そのことに気付いたからだ。足を止め、落ち着くように努める。
山道には慣れていたが、登りゆく時の体力の消費と、それと共に吹き出る汗はどうしようもない。
構わず先を急ぎたい気持ちが湧き上る。
だが、雪こそ見えないものの、冬の凍てつく山の中だ。
汗だくになりながら動くようなことは、命取りだった。
濡れた衣服はいとも容易く身を冷やし、芯まで凍りつかせることに長けている。
「失敗したか……?」
ゼオンは囁きにも満たない声でぼやいた。襟を緩め、体に溜まる熱を逃す。
そうしながら脳裏には、山の入り口で借りていた馬を放してやったことが過った。
早計だったかと自問し、すぐに内心で首を振る。
そうしながら向ける視線の先には、クゼリュス兵の姿があった。ゼオンの先を征く彼らの足取りは鈍い。
なにせ道がない山だ。いや、かつては中腹程度までは山を登る道が整備されていた。
だが、昊天の峰の毒と呼ばれた鉱毒によって人々が去り、緑に呑まれるがまま、荒れるがままかつての姿を失っている。もはや道としての体裁を成していない。
馬術に慣れた騎士のみであればもう少し進めるのだろうが……、全体としては倒れた木々や崩れた斜面の間を縫うのに苦労し、前へと進むのに苦しむ様子だ。
ゼオンとしても、平地を進むようにはいかないと思えた。
それに騎馬では隠れられないのだ。ならばぎりぎりまで身一つで登った方がいい。
呼吸と体温が落ち着くのを感じながら、ゼオンは獣道の先を伺った。丁度良く、隠れるに都合が良い藪があり、様子を伺うのに苦労はない。
改めてクゼリュスの手勢を確認する。
ゼオンの先を進むのは、五人の男たちだった。
馬上の騎士一人に、同じく馬上の兵が三人。
道案内の徒歩の男が一人。付け加えて、犬が二頭、それぞれ兵に抱えられている。
ゼオンが彼らを見つけたのは偶然だった。
だが、彼らが何者で何を目的にこの昊天の峰に入ったかは知っている。
クゼリュス首都アスデウスから西へと飛び去った、白き獣と馬司の王子を追うため、それで間違いない。
それは、ゼオンと同じだ。
あの日――、クゼリュスの建国記念式の日。
ゼオンはアスデウスの囲郭の外にいた。
エイーリィの女将軍サーダリスが行う作戦。その安否を持ち帰るための、伝令兵の護衛として。
成功であれば、赤い色煙が上げられる。……そのはずだった。
それで見上げていた空から、ゼオンは驚くべきものが飛来してくるのを見た。
馬車ほどの大きさの白い獣。それが猫のようにしなやかに地へと降り立つ。
周囲の者が腰を抜かして慌てふためき、サーダリスの手勢さえ慄く。
ゼオンも全身に緊張が奔るのを感じた。
だが、慌てるよりも前に、すっと心を落ち着けることができた。気づいたからだ。
その白い獣の背には、馬司の王子――オルグレンがしがみついていた。青年の色の濃い黄金色の髪はよく目に付く。
同時、ゼオンはロゼの姿を探した。
とはいえ、姿は見えない。
しかし、ゼオンの胸には焦りは浮かばなかった。
飛び立とうと助走を始めた、白い獣。しなやかなその動きと、怪我を負いながらも迷いない、薄赤い瞳。
二人はちゃんと共にいる。獣の姿を見ながらゼオンの胸には、なぜかそう確信が生まれた。
信じられないような出来事を目の前にしながら、不思議とその感覚を疑うような気にはなれない。
そして、ゼオンはすぐに決めた。
サーダリスの手勢に別れを告げる。無責任であるような気もしたが……元々、囲郭から彼らが飛び出してきたならば、別れるという話にはしていたのだ。
それが故に部外者だったのだから。
後はただ飛び去る、白い獣を追う。
獣が鳥の様に飛ぶ姿とは、瞬く間に距離が開いていった。それでも方角をたどり、集落があれば話を聞き、馬上で眠ることもいとわず……、ゼオンはひたすらに追った。
それなりの疲れはあったが、それでもと追いすがる。
途中で巡回のクゼリュスの兵に出くわすこともあった。
そんなときには、彼らに疲れた馬を、とても親切に交換してもらったりなどもしつつ……
昊天の峰を目指してきたのだ。
今、前方にある一団に出くわし、見つからぬように後を追い始めたのは今朝のこと。
最後の集落での情報では、白い獣が飛ぶ高さは、明らかに低くなっていたのだ。 お陰でどの向きに飛去ったのかわかりやすくなっていた。
互いにその情報を元にしたために、選んだ道が重なってしまったのだろう。
それに、この辺りの道の本数は、かつての頃より減っており選択肢も少ないのだ。
加えて、場所が場所だけに、用もないのに近づくとは考えづらい。
サーダリスの手勢への残党狩りのみが残された可能性ではあった。
しかし、彼らは坑道に近づくことはなく、馬で埋もれた細道を登り始めたのだ。
そこでほぼ確信に至った。同時にゼオンは考えた。二人に追いつけないのだとしても、クゼリュス兵の邪魔をしてやろう、と。
養い子とその親友――つまりは、ロゼとオルグレン。何よりも大切な彼らの、大事な旅路。それの障害を見過ごすことなどできはしない。
その心づもりで、機会を伺うこと暫し――
「……」
ゼオンはそっと手近な茂みへと隠れた。
目の前の一団が山登りとは違う動きを始めたのは、丁度昼。山に徐々に霧が立ち込め始めた頃だった。
周囲には霧の薄膜が、立ち込めては風に流されていく。どこかで生まれた霧が、千切れては揺蕩っていく。
その中で兵に抱えられた犬の声だけが騒がしい。
ややあって、騎士の命が下された。
犬が解き放たれる。
ゼオンは更に低木に身を寄せた。
罪人を犬で追う術があることは聞いている。
追わせる獲物のにおいを覚えさせれば、犬は追跡ができるのだ。野の獣を狩る技を、そっくり人間を追う技として応用したものだと。
捕獲対象であるオルグレンの匂いは、寝具か何かの切れ端でも鳩に運ばせたと言った辺りか。
そうとゼオンは推測した。
高揚した様子の犬が動き出す。
時折空へ鼻を突き出しながら、ほんのりとあたたかな風が吹き上がる渓谷へと降りていく。
しかし、身の軽い獣は急傾斜をようようと進めるが、人間はそうはいかない。
兵たちが犬が居る下を覗き込み、すぐに首をすくめた。
降りられると確信するには、いささか急峻過ぎるのだ。
騎士は馬術を徹底される身であるから、馬を信頼しており自信があると見えた。
しかし、兵でそこまでの経験を積んだものは稀。
崖と呼ぶにはいささか緩い程度の坂を、馬で降りる度胸は持ち合わせていないらしい。
無理もない、とゼオンは思う。馬が少し尻を跳ねさせただけで、振り落とされるかもしれない。運悪く足を滑らせれば、よくて怪我、悪くて死。容易に挑めるものではない。
それでも、既に傾斜を降りた犬が、主人たちの到着を待ちわびて動き回っている。
騎士が腕を組み、兵が頭を寄せる間、ゼオンはその犬の方を観察した。
黒い犬は、渓谷の奥――上流へと行きたがっている。
茶色い毛色のもう一頭は、下流の方へと行きたがっていた。
二頭とも、正反対へと移動しようとしている。黒い方が茶色へと吠え、呼び戻そうとする様子も見えた。
それを眺めつつ、腕を組む。オルグレンが二つに分かれたかと考え、内心で首を振った。
とはいえ、あまり思いふける間はない。
「馬を繋げ」
騎士が指示を飛ばす。ゼオンの耳にはその声が届いた。そして思う、彼らはどうやら行動を決めたようだと。




