十六章《四節 失墜》4
羽ばたきが、舞い降りてくる。
霧から形作られたような翼を、オルグレンは見た。
そして、静かに悟る。もう言い訳など出来はしないのだと。
オルグレンの目には鷲獅子と、その背に乗る者の姿がはっきりと映った。
それを認識すると共に、己の中で強かったはずの何かが脆く崩れる音を聴く。
見上げるロゼの顔が強張っていた。
オルグレンを映した薄紅色の瞳が、呆然とした動きで移ろい、その前の空間を見る。
その場所は、オルグレンが鋼で貫いた鷲獅子キュラスが倒れた場所だ。
気付かれた……そうとオルグレンは確信した。
ロゼの瞳が動く。
視線が合うことを耐えられず、オルグレンは俯いた。
少年の目には、罪人が映っている。
幼く、また死の間際で、曖昧にしか憶えていなかっただろう仇の姿が、今まさにロゼの目に映っている。
やがて、ラナンが地面へと降り立った。
ロゼもまた地に足をつけたらしく、足音が小さく響く。
糾弾してくれ。
オルグレンは自身の奥底から願った。罵倒でもいい。
彼が拳を握るならば、その前に身を晒していいとさえ思う。
投箭の刃が自身を穿つならば、それでもいいのだ。
むしろそうして欲しい。
死んでくれと、願われるのであればそうしたかった。
自身の罪が、それで贖えると言ってくれるのであれば……、そうしたい。
だが……
音もなく、冷たい雪が降り始める。白い帳で隔てるかのように、降り落ちてきた。
その中に満ちたのは静寂だけだ。
オルグレンの視界の端に、垂れた細い腕が震えているのが映る。
息の音が僅かに聞こえた。しかし、続く音はない。
塗りつぶされるような、無音だけを感じる。
ラナンも、何一つ言葉を口にしなかった。
ただ鷲獅子は、前肢をオルグレンへと向け、ロゼへと身を寄せている。まさに少年を守るための身構えだった。
その光景に、オルグレンの胸には思いが浮かんだ。自分が立って居たかった場所だと、不意に感じる。以前であれば、間違いなくその位置に立っただろう。
ロゼは強い。しかし、脆い所もある。優しい、一生懸命な少年だ。
記憶がない自身をすぐに受け入れ、支えてくれた人。
導いてくれるように先に立ってくれるのがありがたく、頼もしく、共にいて心地が良かった。
だからこそ、守りたいと思った。支えたいと思った。
共に、西の地へと行きたいと思ったのだ。
だが……と、胸の中だけで呟く。もはや――いや、初めから己にその資格はない。
沈黙は、長く月日が過ぎたかのようだった。
同時に、それほどでもないようにも感じられる。
オルグレンは息を吐いた。ゆっくりと、重い息が落ちる。
罰してはくれない。自身の甘い逃げを許してくれそうにもない。
そうと、悟った。
「ロゼ……」
オルグレンは言った。それは息混じりの、乾いた声となる。
先ほど悟ったばかりだというのに、オルグレンの胸には感情があふれていた。
この期に及んでも逃げたい気持ちと、覆い隠したい気持ちがとめどなく湧いてくる。
馬鹿らしくも、また再び記憶を失ってしまえないかと願う。
なにもかもを忘れ、旅をしていた間へと戻りたい。
固焼きを分け合ったあのひと時へ、平桃であまりにも滑稽なことになってしまったひと時へ、……ただ少年と笑い合っていたころに、戻りたい。
杏を食べ、営火と星空を見上げ話した、先の夢をどうか叶えさせてほしい。
だが、もう、無理なのだ。
強張る唇を動かす。
「……どうか、伝えさせてくれ」
オルグレンは言葉を続けたが、ロゼの返答はない。
「力を――神の力をお前に注いだ、鷲獅子のことだ」
顎と舌が強張り、話しにくい。それでもオルグレンは続けた。
「キュラスの姿は、器のものへと戻っていた。お前へ力を注いだ、他の者達も……」
狼 竜キグナは、与えられた神の力を失うことを、死だと言った。それも真実なのかもしれないが、恐らくは何か別の筋道が存在する。
現に、オルグレンが目にしたものは、そういう光景だった。
生きたまま神の力のすべてを失うことは、即始まりの種族達の死とはならないのではないか。
そうであれば、この言葉は、『第三の道』への糸口となり得るはずだ。
しかし、この告白は、同時にロゼが察しているだろうことへの肯定となり、自白となる。
――あの日、鷲獅子キュラスを殺したのは、自分だ。集落を襲ったのは、自分だと。
そうとわかりながら、オルグレンはラナンへも言葉を向けた。
「鷲獅子ラナン。どうか、確認してほしい」
のどが絞まる圧迫感の中、願う。
「キュラス――あの時、人の姿となったまま生を終えたものは……、この地に縛られているだろうか」
感じられるだろうか、と。
白銀の鷲の瞳孔が動くのを確認し、オルグレンは自分にしか果たせないことが今全て終わったのだと感じた。
長く……長く息を吐く。
ロゼの静かな……、だが乱れた呼吸がオルグレンの耳に届いた。
「それだけ、伝えたかった……」
あとは、これ以上何を言い募っても、言い訳にしかならない。
謝罪などでは、到底あがなえない罪だ。
オルグレンは踵を返した。
ロゼから、あるいはラナンから罰を受けたかったと、内心に思う。
だがそれがこの場で望めないのであれば、オルグレンには一つだけどうしても、果しに行かなくてはならないことがあった。
身勝手だと、彼自身でも思う。
だがそれでも、オルグレンにはそれだけが残っていた。
グロウシュタッド、それにサーダリス……彼らに報いなくてはならない。
帰らなくては――国へと。
国を守らねばならない。自身の責務を果たさなくてはならない。
それだけを思い進む。ロゼの故郷を滅ぼしてまで、生きている国なのだ……。
背後では、少し物音がした。
ラナンが心配の声を発するのが耳に届く。ロゼがへたり込んだのだろうかと考え、突き上げるように浮かぶ振り返りたいという衝動を、耐える。
同時、独りでも立っていられる彼から、それほど信頼を得ていたのだとオルグレンは知った。
だが、それを出会う前から裏切っていたのだと、まざまざと感じる。
オルグレンは、そのまま歩を進めた。
振り返らなかった……振り返れなかった。




