十六章《四節 失墜》3
飛び立てぬまま仲間の死を感じ、戦利品だと骸が運ばれるのを見送る心境……。それは、千にも引き裂かれる心地だった。
ロゼは胸中に呟く。
それを生み出したのは――……
「大丈夫?」
ラナンが首で振り向き、気づかわしげな声を向けてくれる。
ロゼはラナンの白銀の毛並みを撫でてから答えた。
「……行こう。祭壇の崖へ」
腕に力を入れ、変わらない森と陽だまりの香りのする毛並みへと身を伏せる。
背へとしかと掴まったのを感じたか、鷲獅子ラナンが力強く風切りの羽を躍動させた。
そして、宙へと舞い上がる。
空に舞うラナンの翼が、乳白色の中をかき混ぜた。
先ずは霧に紛れ、谷へと姿を隠す。
そしてラナンに器の姿へと戻ってもらい、オルグレンを探してもらう……そうと算段を付けながらも、眼下の景色をロゼの目は探るようになぞった。
他でもない、黄金色を探すために。しかし、太陽のようなその色は見えず、霧が濃く視界が利かない。
それでも山を熟知するラナンには苦もないのか、滑るように飛ぶ。
徒歩での移動であればどれほど掛かっただろうか。山の景色が、川に流れ行くように去っていく。
鷲獅子の谷――
景色が移ろい、その姿が見え始めた。
急峻な崖が、左右に連なる渓谷。その地形は人の身では踏破が難しい。岩を渡る技術や道具がなければ、到達されることはないだろう切り立った景色だ。
ロゼの胸に、懐かしさが込み上げてきた。
風の匂いというべきか、土の匂いと言うべきか……幼い頃にかいだ匂いがある。
霧の合間に見える山の姿形が、――昊天の峰の向きが、過去と重なった。
集落の景色が過ぎる。
ロゼの脳裏には、両親を失った自身に手を伸べてくれた人々の姿が過っていった。
囲炉裏端でかいだ、夕餉の鍋のにおいも。それで両親を思い出したときの、言葉にならない身悶えするような心地も。目と鼻の奥の痛み。
幼い頃の寂しさ。
どこにも縋れず、かと言ってどうすればいいのかもわからなかった気持ち。
ある日の夜――たまらない心地で、こっそり忍び込んだのがこの谷だったのだ。
秘密の道を通り抜け、岩の裂け目を祈りを込めた色彩で彩った御門を潜る。
その奥――祭壇の崖に行ったのは満月の夜、祭祀だった父親がそこで祝詞をあげている姿を見たことがあったからだ。
無人の祭壇の崖。当然の如く、父の姿などない。母の姿もない。
分かっていて、それでもどうしようもなく、月色の谷に向けて泣く。
そうするうちに、キュラスとラナンが舞い降りて来てくれた姿を、ロゼは忘れたことがない。
集落の特別な人物以外は、出会うこともない存在。
親しく交わるわけではなく、互いの距離を保ち、そっと存在を感じるだけのものだった鷲獅子。
その銀色に輝く巨大な姿が、ロゼには一際柔らかく感じられた。恐れなど欠片も浮かばない。満月に照らされた彼らの目が、優しかったからだ。
懐かしい安らかな記憶。
それがやがて炎と血と鋼の記憶へと変わっていく。
ロゼは内側から、身が冷えていくのを感じた。
自分がしでかしたことが、目の前にはっきりと突き付けられる。
胸を削ぎ落としたい。悲しみが痛みとなって襲ってくる。
自分の過ちが、何よりも痛い。
鷲獅子の谷と呼んだそこに、彼らの姿はない。
思い出が現実へと置き換えられていく。
寂しい、哀しい光景へと……。
どうして、とロゼの胸の中には疑問が浮かんだ。
ただ、穏やかに暮らしたかっただけなのだ。
自分たちも、鷲獅子も。
どうして鋼で斬り裂かれなければいけなかったのか、と。
――山を深く掘ると災いがある。その警告を、麓の集落がクゼリュスへと発したのが始まり。
その言葉の理解を得られず、邪魔をしたと捉えられ――やがて兵が姿を現すようになったのだ、と。
嵐に嬲られる木々のように、大人たちが話していたのをロゼは憶えている。
その兵たちに鋼を向けられるようになり、果てには鉱石が見つかりやすそうな場所を見つけろと、引っ立てられる者まで出てきた。
集落にも柵を壊す嫌がらせが始まり、家屋などに火を射かけられるようになった。
かといって、山の中で自給自足の素朴な暮らしを送ってきた民族が、訓練を受けた兵や騎士などに勝てようはずもない。
追い払われ、山の奥へ奥へ追いやられ、とうとうロゼが育った最奥の集落の所へと、皆追い詰められた。
さすがにこれ以上は、自分たちは愚か、鷲獅子達の終焉さえ脅かされる。
その頃の集落に満ちた不穏な空気が記憶に浮かぶ。
今でさえ心が細くなる。
幼い頃はよく理解できなかったのも相まって、ロゼは不安でよくキュラスの翼の下に隠れて眠った。
――ぼくも怖いよ、と。キュラスの言葉が蘇る。
彼がそういった意味を、ロゼは当時深くまで理解できなかった。
器を失ってなお魂だけを保たれる。
神が与えた役割を果たさないまま器を破壊された時、始まりの種族達はまるで罰かのような苦しみに囚われる。
世に混ざれず気が遠くなるほど幾年も永く、二度と触れられぬ世に囚われるのだと。
狼 竜キグナに、そう聞いた。
胸を裂く痛みの中に、
「あれ? ロゼ、……あれは、彼じゃないかな」
ラナンの声に、ロゼは現実へと引き戻された。
白い翼がそこへと迫っていた。
かつて、祭壇の崖と呼んでいた場所。ロゼが一度死んだ場所。
惨劇の舞台――
霧が流れ、崖の張り出しが現れる。そこには既に人影が見えた。
何故、と。
小さな言葉がロゼの喉に張り付いた。
知らなければ、人が入り込めない場所のはずだ。
五年も放置された後に、植物の生え方でも変わり見つけやすくなったのだろうか……、ロゼはそう思い込みたかった。
鼓動が耳を覆い尽くす。
ゆっくりと降下するラナンの背の上で、ロゼはただ氷となった。周りが遠ざかり、手も足も、どこにあるのかわからなくなる。
やあ、オルグレン――頭の片隅で、そうと言うべきだと浮かんだが、発する事が出来なかった。
人が知らぬはずのその場所に立つ、青年。
ロゼを見上げ……その蒼白となった顔を地面へと反らす有様を、ロゼはただ目に映した。




