十六章《四節 失墜》2
事態が変わったのは、昼過ぎ――
ロゼは、ラナンがこころに触れてくる感触に目を見開いた。
己が鷲獅子に仕出かしてしまったことを隠す必要はないとはいえ、やはり圧倒的な存在の抱える力の感触には、苦痛が混じる。
それでも、ラナンが意味なくそうしてくるはずがないと、ロゼは知っている。
故に、眉をしかめながらもそれを受け入れ、繋げた。
途端、だった。
兎を狩ってくると言った鷲獅子。
そのラナンが視界へ映すものが、ロゼのこころにも映ってくる。
その景色は遠景だ。ラナンがいる位置から見えているものだろう。山の裾が見える。そこには動くものがあった。
距離があるために、蟻ほどの大きさしかない。
それでも、大体の判断はつく。おおよその姿と動きからロゼはそれを馬と人だと推測した。
それが徒歩の道案内人と思われる姿に導かれるように、昊天の峰の山裾の森へと入ってくる。
同行者か何かか、しばらく離れた所にも馬上の人と思われる姿があった。そちらは、地形に阻まれちらりとした姿しか見えない。
ともあれ、山に人が入った。
毒があると恐れられる山に、旅人がふらりと立ち寄ることは考えにくい。
ロゼは自身の顎に手を当て、素早く思考する。
可能性としての一つは、どこかの村落から追い出されたあぶれ者。
人気のない山をこれ幸いと、住処を求めてやってくるのだ。以前そういった手合いは、この近くの坑道を根城とするサーダリスが抹殺していたが、今はもう……。
もう一つの可能性は、クゼリュスの追手だ。早すぎるとしか思えないが、あり得ないと言えない。
近場の領主へ、とにかく動けと鳩便で沙汰すれば先遣隊ぐらいは組織できるだろう。
どちらもあり得る。これ以外もあり得る。
だが、ロゼは自身にとって最悪な方、つまりクゼリュスの追手であると判断することにした。
そうと考えれば、危ないのは……間違いなく、オルグレンだ。
ロゼは先ず、残りの投箭の数を数えた。今まで自身を支えてきてくれた武器の数々がないのは痛かったが、悔やんでも仕方がない。
そうしながら、ロゼはこころの繋がりでラナンへと呼びかけた。
戻ってきてほしい。ゆっくりで構わないから、見つからないようにと願う。
次いで手を伸ばしたのは、白柳の枝。
外へと出かけがちなオルグレンに、ロゼが植物の特徴を説明し、それの若そうな枝を取ってきてもらったもの。
それの樹皮を剥き、口に入れて噛む。
「……っ!!」
途端、口中隅々までいきわたる苦みに、ロゼは呻いた。舌と喉がしびれるような渋みと、緑臭さを耐えて噛みしだく。
口腔にあふれる樹液には、熱冷ましと痛み止めの効果があるのだ。
これ以上足手まといにならないために、動かなくてはならない。
すべて吐き出したくなるところを、枝のみを吐き出し、ロゼは樹液の方を嚥下した。
そうして、ややあって――
「ロゼ、ただいま」
ラナンが翼をたたんで着地する。
ロゼは拾った枝を杖にし、その姿を出迎えた。
獣のように毛並みを振る鷲獅子の、鳥の羽と獣の毛並みが混ざった首を撫でる。
水気を払う仕草が物語る通り、白い毛並みは水分があった。しんと冷たい匂いがする。
においと手触りにあるのは、山霧の気配だった。
その気づきのまま、口を開く。
「お帰り、ラナン……早速だけれど、移動しよう」
本当は、オルグレンが戻るまで、ここで待って居たい。どこかへと出かけている彼が戻ってから、共に行動した方が行き違いや逸れる心配がないのだ。
だが……ロゼの脳裏には懸念が過った。
この渓谷はクゼリュス側の斜面にある。追手がオルグレンや白い獣を探そうとするのであれば、あまり面白い位置にはない。
ならば、ラナンに精霊母たちや狼 竜キグナ達のように器の姿でいてもらえばいいのだが、それではロゼの怪我の状態としては不都合だった。
体を今一度、獣へと変化させられれば、怪我を癒せるかもしれない。そう頭には浮かぶものの、ロゼがいくら己の内に意識を向けようと、汲み上げられるほどの力を感知できなかった。
ラナンを頼る他ない。
ならば、霧が出ている今が都合が良い。
ロゼの意図を察してか、ラナンが頷く。そして地面へと伏せてくれた。その乗りやすく構えてくれた背に、ロゼはまたがった。
杖を空の剣帯で固定する。
ロゼの姿勢が安定したと見るや、鷲獅子が立ち上がり、一度翼を広げた。
「でも、ロゼ。どこに行こうか……」
「……鷲獅子の谷まで。あそこなら、アィーアツバス側だし、ここよりも深い渓谷だ。仮に集落に入られたとしても、祭壇の崖への道は知る者じゃないとわからないからね」
念のために確認する必要はあるけれどと、ラナンの問いへロゼは静かに答えた。
鷲獅子がかつて終わりの住処と定めていた土地は、人目に付くような立地ではない。
それを……かつてのロゼは愚かにも、辿ってしまった。
血という道標を残して。
その結果――後を追われ、ラナンと共に最も親しくしていた、鷲獅子キュラスを無残なことにしてしまったのだ。
キュラスを殺した者……
ロゼの濁色の記憶の中に、恐怖の色で塗り固まったあの兵。
今は、もしも生きているのならば、幾重にも引き裂いてやりたいと願う兵と、その仲間。
それらが居れば、或いは道が見つかる可能性もあるが、そうであったとしても――
「あの谷ならいいね。ぼくも、矢に射落とされたけれど……地形のお陰で生き延びたから」
渓谷の中は、人の身では立ち入られぬほど厳しいし、とラナンが頷く。
ロゼはこころの繋がりで垣間見た、ラナンの記憶を思い出した。
あの時、ラナンは遅れてしまったのだ。
キュラスのことをこころの繋がりで感じ、直ぐ飛んだものの独り遅れた。
そして、駆けつける最中にクゼリュス兵に射られ、谷底へ……。
刺さったままの矢があっては上手く翼を癒せず、そのうえ堕ちた先でも翼を木に貫かれ……身動きが取れない恰好へと陥った。
そして深い谷に守られ、兵に近づかれぬまま今日まで生き延びたのだ。
ロゼは、視線を落とした。思わず俯く。




