十六章《四節 失墜》1
ふと、ロゼは目を覚ました。
樹洞の入り口から差し込む明るさの加減で、まだ明け方だと気付く。
本来ならば凍てつくほどの気温の頃だが、幸いにして鷲獅子ラナンの住まう、この渓谷は凍り付くような寒さは免れていた。
それでも吐く息は白く染まる。
「ロゼ?」
身じろぎで気付かれたらしい。
ラナンが目を開け、首を傾げる。
「ちょっと、外を見たいだけだよ」
答えてロゼは白い翼の中で、外套を身に付け直した。
まだ残る熱で悪寒と頭痛があるものの、全く動けないほどではない。
虚脱も身体に負担がかからない程度に、淡くラナンとこころを繋げることで、少し改善されてきていた。
体を起こし、やはりとは、胸中で呟く。
オルグレンが居ない。樹洞の出入り口に近い方で、青年は外套を身にしっかりと巻きつけて休んでいたはずだ。
他よりはあたたかい渓谷とはいえ、風が吹き込み寒いだろう場所。
ラナンが翼の中へ招いたりもしたが、オルグレンはやんわりとそれを断っていた。
その姿が消えている。
空っぽの場所を見つめたまま、ロゼは動いた。這いずるようにして、いたはずの場所へ進む。
剣か何か、杖として支えとなるものがあれば立ち上がれなくはないはず。だがいつも手元にある半曲刀は、はるか遠くとなったクゼリュスの首都だった。弓さえ壊され、山刀も恐らくは半曲刀と同じ末路。
悔やんでも仕方がなく、ただ傷に響かぬように這う。
どうにかそこへとたどり着き、ロゼは枝葉を敷いた寝床へ手を触れた。
だが、手に伝わるのは、あたたかさから切り離された感触。
その温度のない虚しさは、手からロゼの胸へと這い上った。
思わず樹洞の出入り口へと手をかけ、立ち上がる。そのままロゼは外へと顔を出した。
そして、探す。
朝靄もあって、渓谷の景色は隅々まで見えるとは言い難い。
目を凝らすが、視線を動かし見える範囲に、あの長身は映らなかった。黄金に輝く髪も見えない。
唇を噛む。ロゼの胸には縮まるような、痛むような感覚が乗った。
浮かんでくるのは、ここしばらくのオルグレンの様子だ。
クゼリュスの首都――アスデウスの脱出の頃からのオルグレンの有様。それへ、ロゼは違和感を感じていた。
優しく、気遣ってくれ、微笑みもしてくれる。それでも、何か後ろ手に隠している雰囲気があった。
いつも正直に返してくれるはずの返答に、ごまかすような薄布がかかり、何事も真直ぐに見つめる視線は他所か下を向く。
「オルグレン!」
心が湧き、ロゼは呼んだ。
近場にいないことはわかっていた。それでも呼び戻したい気持ちを押さえられず声を発する。
「オルグレン! ねえ、オルグレン!!」
ロゼに答えるのは、渓流の水音ばかりだった。
風が巨樹たちの梢を揺らす。森はささやかな音に満ちていたが、今ロゼを包むのは冷気と無音の気配だった。
胸が音を立てて、凍りつく。
何度も助けてくれた恩人であり、いつも共にいてくれた友人、そして兄のような人――その人が何か胸に溜めているのを知りながら、何もできない。
話を聞けてない、聞くことができていない。
……何も話してくれない。
それが、これほどまでに耳に痛いほどの静寂を生むのかと、実感する。
つい足を踏み出し、途端筋肉がひきつる痛みに小さく呻く。不確かになった足元で、思う位置を踏みしめられず足が滑った。
樹洞から、落ちる――
「……っ、ラナン」
その前に、救ってくれた存在の名をロゼは呼んだ。
嘴を器用に使い、鷹の頭をもつ鷲獅子が腕を咥えてくれたのだ。
「……ごめん、ありがとう」
ロゼが態勢を整え礼を言えば、ラナンがそっと嘴を離した。
「深手なのだから、無理をしてはいけないよ」
そっと身を寄せて支えてくれる気配に、ロゼは白い毛並みを撫でた。
ラナンの瞳が向いてくる。
「あの青年なら、君が眠っている時に起きて……歩いてくると言っていたよ」
すぐに言ってあげればよかったね、とラナンが続けた。
その言葉に、本当ならば安心をするべきなのだろう。
思うものの、ロゼの胸中に立ち込めたままの靄があった。
息苦しさのようなものを覚え、自身の胸の辺りをさする。
静けさの満ちた景色に目を向けたまま、ロゼは問うた。
「……オルグレンは、他に何か言っていたかい?」
「夕方までには戻る、って言ってたよ。あとは、食べ物のことをお願いされたね。……何が食べたい? と聞いたら彼は、食べられそうなら君に肉を食べさせたいと言っていたよ」
だから、任せてとラナンが言う。実は塩が取れる場所もあるんだよ、そういうものも好きだったよねと、鷲獅子の声にはロゼを気遣う明るさがあった。
「だからね、もう少しお待ちよ」
ラナンに諭され、ロゼはまた唇を引き結んだ。
オルグレンへの心配が胸に詰まり、青年を追いかけていけないのがもどかしく、項垂れる。
それでも頷き、ロゼは樹洞の入り口へと腰を下ろした。
外套を掻き合わせつつ、じっと外を見つめる。
あの優しい顔が現れ、朝の透明な陽射しのように、微笑んでくれないかと祈りながら――




