十六章《三節 答え合わせ》4
誰か逃したのであれば、また同じことが起こる。
ともかくも、当時のオルグレンはそう考えた。
兄に毒の病を負わせ短命とし、首都スヘネに住まう無辜の民にも非道を働く者達を許せない。
昊天の峰の毒を撒く者に、災いあれ。
我らが兄弟を、一族を、兵を、アィーアツバスの民たちを害するものは排除しなくてはならない。
その一心だった。そうして、かつてのオルグレンはソノアラを手近な兵に預け、血の跡を追ったのだ。
血痕が一人分だったこともあり、追跡を悟られぬよう辿った。
かつては息を潜め、いつでも鋼を振るえるよう構えたまま、点々と落ちた血を手繰って歩いた道。
そこを今は体中を痺れさせる緊張と、心に降り積もる重いものを纏い、記憶を手繰って歩む。
まるでいつか見た夢のように……。
やがて、血という目印さえなければ気付かなかっただろう、木々と地形に隠されたその先へと至った。
記憶の通りの岩の割け目が、オルグレンの目の前に現れる。
過去には岩肌を顔料で彩られていた、そこ。
今は、既に色が落ちただの岩と化している。
枝葉を揺す風が仄暗い霧を、彷徨わせていた。山霧の湿気が、オルグレンに冷たく纏わりつく。
あえぐように息をする。吐き気を飲み込む。
「……」
行きたくない。
深奥からそう思う。それでも、オルグレンは足で地面をこするようにしながらも、歩を進めた。
確かめたいことがある。
思い出したくはない出来事の中。そこにオルグレンは、自分が確認しなくてはならないことを垣間見ていた。
他ならない、ロゼのために……。
岩の隙間を通り抜けた先は、深い渓谷だった。ラナンが暮らしている場所よりも、更に切り立ち、荒々しい谷。
あまりにも記憶通りのその場所。
オルグレンは強く瞬きをした。
青黒い髪の子供が驚きと共に振り返る幻視が重なる。
十を数えるかと言ったところの幼い子供。
そう認識し終わったかどうか。その刹那。
もう過ぎ去った記憶の出来事。そうとわかっていて尚、オルグレンの体はかつての行動をなぞろうとした。
空から舞い降りてきた、それ。
かつては何者かすらわからなかった、圧倒的な存在感を放つ、白銀の獣。
飛び掛かってきたその存在に、オルグレンは思わずと剣を突き出した。自身と、あの瞬間だけは、子供を守ろうとも思い。
――今ならば、わかる。
鷲獅子キュラスは、ロゼを守ろうとしたのだ。それで、血濡れの剣を構えた男を急襲したのだと。
鋼と爪、一瞬の交錯を思い出す。
飛びかかってきた獣の胸を刺した手ごたえ。
それが再び蘇り、今のオルグレンを苛んだ。自身でも抑えきれないほど呼吸が乱れる。
後ずさり、よろめき、岩肌に手をついた。
そして、はっと気づく。
この場所こそ、オルグレンが鷲獅子の腕によって弾き飛ばされたところなのだと。
当時、身に着けていた兜と鎧。それに今にしてみれば、キュラスの最後の人間に対する温情で、オルグレンは身を裂かれることを免れた。
だが岩肌に叩きつけられ、背と……頭を強かに打ち、岩肌の下でオルグレンはうずくまった。
息が継げないほどの痛みが、幻の向こうから再び身を突き抜けてくる。
地べたに這い、そこで見たのが……泣き叫び、深手を負った獣に泣き縋る子供の姿だ。
矢に貫かれた薄い胸。喉をせり上がったらしい血で、口元を真っ赤に染めたロゼ。
耳を裂くような、身の痛みの方がましと思うほどの、悲しい泣き声。
それが、良からぬものを自身が連れてきてしまったことを悟り、泣き叫んでいたものだとオルグレンは理解した。
過去にも、この鳴き声でオルグレンは分かってしまったのだ。
白銀の獣がこの子供にとって、大切なものだったのだと。
自身にとっての馬のように、姿形の違う家族なのだと。
やがて、小さな体が獣に寄り掛かる。もともと深手を負っていた体が、そこに残っていた体力を使い果たしたのだ。
ここだと、オルグレンは喘ぐように胸中に呟いた。
いつの間にかかいていた汗で、体温が奪われ芯からの寒さを感じる。
それでも、思い出さなくてはならない。
だらりと四肢を垂らした子供の体を、嘴で揺する鷲獅子の姿を。
やがてもう二度と動かぬ物だと分かってか、キュラスが声を上げていた。
命を流す傷よりも、冬の雪混じりの風よりも勝る、身を裂く鳴き声。
どうにか思い出そうと意識を向ける。
オルグレンは、自身の胸を強く掻くようにしながらも、そこで見たものを思い出さんと心を向けた。
慈しむように翼と前肢で亡骸を包む有様。そこからの出来事。
その光景を、オルグレンは当時何が起こったのか理解できなかった。
今ならば分かる。
起きていたのは、鷲獅子の祈りだ。
ロゼに生きていて欲しいという、願い。
それを自らの力で叶えるべく、小さな子供へと、始まりの種族が自身の持つすべての力を注ぐ。
他にも翼を持った獣が二頭舞い降り、同じようにするのを、薄れた意識の中で見た。
亡骸に、生気が戻る。入れ替わりに、獣たちの姿が崩れていく。
一頭が、まず少年か少女かと言った姿となった。それはオルグレンが剣を突き刺した一頭だった。
剣で胸を刺し貫かれたまま、大地へと転がる。
続いたもの達も同じように、姿を転じた。
逆にロゼの姿は、鷲獅子のものへと変わっていく。
瞼が落ちる寸前、オルグレンが見たのはそういった光景だった。
次に目を覚まし見たもの……
それは、それまで見たものから一変していた。
獣だった者――人の姿となった者が、クゼリュス兵に襲われていく。抗っていたが、傷を負い、斬られ、突かれ、やがて倒れた。
見かねたか別の獣が舞い降り、それらを守らんと身を挺する光景も見た。手傷を負おうとそれをたちどころに癒し、翼を裂かれてさえ、すぐさま姿形を取り戻していた。
そうであったものの、鋼を身の深くへと打ち込まれ、突き刺さったままとされては、身を保てないらしい。あるいは、何度も深い傷を負わされれば、弱っていくようだった。
打ち払うのみで、歯牙を使い血肉を裂くような反撃を行わない、奇妙な獣。
たかり集まる兵の暴力に、一頭が倒れた後は他の獣も同じ末路を辿った。
……その光景を、オルグレンは見ていた。
ただ見ていた。暴力が始まり、終わるまで。
背中を酷く打ち付けたオルグレンは、時折意識を飛ばしながら眺めた。
そうしながら昔日のオルグレンにわかったのは、自分たちは山岳民族を襲わされたのだ、ということだった。
著しく抵抗の目を向けられているクゼリュスの者よりは、監視が緩いとでも思われたか。
また、騎馬術に長け、身構えられるよりも先に動ける俊敏さに、目をつけられていたのだろう。
見事に利用されたのだ。そして、集落を占拠し終わった油断を突かれてしまった。
ここへも子供が残してしまった血痕と、オルグレンの足跡を追ってきたのだろうと気付く。
恐らく今頃は、集落を奪取されている。
風に運ばれてくる、煙と炎のきな臭さと、人の髪と肉が焼ける匂いの中。
オルグレンはアーベルトの剣の鞘で一撃され、気を失う間にそれらを悟った。
記憶から戻り、荒い息の中で汗が伝う顎を拭う。そうして、一度整理するようにオルグレンは目を閉じ、息を整えた。
一度拒絶した記憶。
目の奥が熱く、泣き叫びたい衝動が、オルグレンの喉の奥を刺激してくる。
それでも、
「思い、出した……」
確認をしなくてはと思ったことの全てを。
当時はただ不可思議な出来事だとしか思えなかった、すべての意味を今ならば理解できる。
……伝えなければ、と胸中で呟く。
ラナンの住処へと戻り、今確認した第三の道への手がかりをロゼへ。
どうにか上手く真相を伏せたまま、伝えようと。
少年は、虚脱からは脱しつつあるものの、熱が下がりきっておらず、怪我も相まってまだ歩けない。
この場のことは、いつか……、と。まだ、知られたくない。
望むのであれば、ずっと知られたくない……。そう考え離れようとした最中、オルグレンは短く息を飲んだ。
翼の音がする。大きな白い翼。
その羽ばたきが谷に小さなざわめきを生むのが、耳に届いた。




