十六章《三節 答え合わせ》3
鷲獅子の存在のお陰か、山の中に瘴禍の気配はない。
それでも武器も、魔物避けもない心許なさが、身を摩ってくるのを耐えて歩く。
オルグレンが、その道を辿ったのは翌朝だった。
見つけたのは前日。
ロゼが口にしやすい物を探し――、いや顔を合わせていられず歩くうちに、見つけた場所。
渓谷を抜け出し、歩んだ先は山の峰だった。
吹き溜まりに雪が凍る木々の間をすり抜け、西側の白く凍りついた樹氷越しに垣間見えたのは、眼下の西の大地。
そこから辿る昊天の峰を囲む山々の姿形。
これら遠景にオルグレンの胸には強く突き上げてくるような、見覚えが過った。
とはいえ、発熱に顔を赤くし眠るロゼの顔が過り、その日は樹洞へと戻ったのだが……
オルグレンは再び、そこへと立った。
一度、歩みを止める。昨日は比較的天候がよかったおかげか、足を埋めるほどの雪はない。
それでも息が上がっていた。湧き上がる鼓動を押さえ、伸し掛る重さに耐えるべく、山の冷えた空気を吸う。
そこに立って尚、オルグレンの胸には迷いがあった。
だが、と声に出さず呟く。悲しみを気遣い合う、ロゼとラナンの姿。
何よりと、オルグレンは強く瞬きをした。そして思い出す。
荒野で出会った狼 竜キグナは、始まりの種族の誠の死について、二つを語った。
一つは魂ごと不純なるものに侵食された時。
もう一つは、
「神に与えられた力が尽きた時……」
乾いた声で呟く。
瘴禍との闘争の中で、それは力を使い果たし勝敗の半ばで潰えたことを指すものだっただろう。
そうと考えつつオルグレンの脳裏には、先日見た光景がよぎった。
一度始まりの種族の姿となり、その後授かりの力を使い果たし、人へと戻ったロゼの姿。
ゆっくりと既視感が這い登る。
……自身が見たものは……。
遠ざけようと近づいてくる記憶の、おぼろげな輪郭にオルグレンはどうにか目を向けた。
今のままでは、かの少年に顔向けができないのだ。
だから、せめて、何か……、と。贖罪と、願いと、己が向き合わなければならないことが、何かの間違いであることを願う。
そうして、オルグレンは山の中へと足を進めた。
記憶へと近づくべく、しばし山の地形を辿る。
すると、だった。
かつて道だったと思しき痕跡が現れた。
この山に住まう者達が使っていただろう、もはや植物に飲まれた道。
一歩、一歩。
踏みしめるように、オルグレンの足はその道を辿った。
記憶が近づく。
消えかけの道は進むにつれ、オルグレンの知る道となった。
植物は成長し様相が変わっているが、周りの山々の景色、何より間近に聳える昊天の峰の向きなどが、確かに知った場所だと告げてくる。
五年前……もう、六年前と呼ぶ方が正しいのか。
オルグレンは呻き声をあげたい気持ちのまま、歩を進めた。
そうする内に山裾の方……、眼下に見覚えのある台地が目に映る。
「あれは……」
思わず言葉がこぼれた。
そこに陣を張っていた、とオルグレンの中の記憶が語る。
昊天の峰を望む台地。
そこは、定番の場所だった、と。馬司の王がこの東の大地に住まう氏族を概ね束ねてからは、勇名を得る絶好の場所はここと決まっていた。
つまりは、標星の大国――クゼリュスとの小競り合いの舞台。
険しい山脈を挟んでのものであり、決して大軍が群れ絡まるようなものではなかったが……、ここは二国の戰場だった。
山に現れる、或いは山脈を通り抜けて現れる、クゼリュスの手勢を追い散らす。そんな戦いの地だ。
鉄鉱石など鉱物資源は山のどこからでも得られるわけではない。
人員をかけて探すか、さもなければ誰かが見つけた場所を奪うかだ。そのために、この地の鉱夫や、彼らの住まう集落は常に標星の大国の脅威に、晒されていた。
それを守るのが、ここを任されたベルンレンとオルグレン――ひいては、配された武人の務めだったのだ。
「ソノアラ……」
オルグレンは浮かんできた名をそのまま口にした。
声に出し、愛馬の名だと認識する。
アィーアツバスの武人は、常に二頭の馬を同胞とする。ソノアラは、オルグレンが初陣の祝いとして、父王より賜った青毛の馬だ。
胸、肩、腰、足、何れもが逞しく、跳ねまわる悪癖持ち。
だが、馬司の民をしても馬から降りざる得ない、昊天の峰の山の中さえ駆けるという特異な馬だった。
ソノアラはこの地ではよく活躍をし、オルグレンは指揮官をしていた兄――王太子ベルンレンに、俺より目立つなと笑いながら小突かれたことさえある。
どうにか思い出に支えられながら歩く。
記憶を追い、とうとうオルグレンの足はそこへと出た。
六年前、ソノアラと共に最後に駆け上った道。
それをオルグレンは見つけることができた。
かつて駆け上ったときには胸の中に、油を注いだ炎があった。
ベルンに疲労感や手足の痺れなどの……噂に聞く、山岳民族が撒くという昊天の峰の毒の症状が出たのだ。
これを知り、誰しもの胸に炎が湧き上った。
我々に何故、と。
かの山岳民族に対し、非道を働いているのは、標星の大国の者だ。
捕え、拷問し、鉄鉱石が見つかりやすい場所を吐かせていると聞いている。
山を掘ることに対する言葉を邪険にし、殺し、集落を山奥へと追いやっていると聞いている。
だが、アィーアツバスはそのようなことなどしていない。
にも関わらず……、と。
ベルンは倒れたわけではなかったが、もう二度と癒えぬ病だ。そうと医術師に聞いたときの、悲しみと憤怒。
当時、首都スヘネにて同じ病にかかる者が増えているとのことまで判明し、皆が叫んだ。
山岳民族の者に報いを。
そうして、討伐の命が下ったのだ。
山の中を、高い音を立て冷たい風が吹き抜けた。
空は灰色となり、白く煙っている。
周囲には、いつの間にか漂い始めた薄い霧。その合間に見えてくる記憶を追い、オルグレンは歩いた。幸いにして歩く辺りは薄化粧といった所だが、山陰や風溜まりには雪が固まっている。
慎重に山道を登り、その場所へとたどり着く。
登山によるものだけでなく、息が乱れる。
整えようとするも、オルグレンは到底落ち着けそうにはない事も感じていた。
知らず止まっていた足。唾を飲み、一歩を踏み出す。
その踏み出したオルグレンの足裏には、硬い感触があった。
踏みしめてしまったのは、黒い材木。薄い日差しの中でも、それが炭だとわかる。
家屋が燃えた残骸だった。見渡せば、無数に惨劇の痕が転がっている。
元は集落を囲う柵だったと思しき、打ち破られた板。
整地された痕跡。家屋の残骸。
壺の破片。土を、あるいは雪を被り、埋もれた皿や杯。
木々の湿気で黒く朽ち、降り積もった木の葉と苔に覆われながらもある、確かに人が生きていた証……。
それらが平穏を打ち破られ、剣戟と悲鳴さえ絶えた静寂の中に、苦痛を語るかのように転がっていた。
集落の中ほどには、異様に太い樹が育っている。鷲獅子ラナンが住処としていた渓谷の、年月によって健やかに育った巨木の類ではない。
「っ……」
オルグレンの喉を、悲鳴と、嘔吐感がせり上がる。
だが、どうにかそれを喉元で耐えた。硬いものを飲んだかのように、喉が痛む。
異様な樹が根元に抱いていたのは、髑髏だ。一人二人のものではない。数十人を数えそうな頭蓋と骨が炭と共に固まっている。
オルグレンは顔を覆った。手が震える。
どうにか、記憶を追う。
その中で、ぽつりと思い出す。使者を立て、この集落へと送った……、と。
討伐の命を受け、軍事に際しては、筋道を通して動いたのだ。
しかし、その使者は帰ってこなかった。真相はわからない。
当時は、それが山岳民族たちの意思だと考えていた。
そうとなれば、アィーアツバスの軍は迅速。
例え馬が登れぬ急峻な山であっても、できうる限りを駆けさせ、最後には自分たちの足で駆け上がった。
一気に攻めかける。
抵抗はあったが、所詮は集落の戦力。
集落の中心へと到達するのに、さほどの時間も必要なかった脆弱ぶり。
馬司の国の方から攻撃があるとは、まったく思ってもみなかったような脆さだった。それは何故かなど、当時はまるで考えることが、出来なかった。
ただ王太子を害された怒りのまま、抵抗する者には武力を示した。
力ない者は村の中心へと集めた。
彼らの前には臣に支えられ山を登り切った、ベルンが立つ。
その光景をオルグレンは憶えている。
兄は、丁度ここに立っていた……。異様な樹を前にしつつ、胸の中で確かめる。
そうして、ふらりとオルグレンは顔を上げた。記憶を呼び覚ましながら、よろめく足で廃墟を進む。
移動したのは、集落の奥だ。
そこに落ちていた血痕。
オルグレンの鼓動に揺れる視界に、記憶の光景が重なる。
点々と零れ落ちた赤。
それが集落を抜け、更に奥へと続いている。
「……誰かが逃げ出したと、……思ったんだ」
誰へともなく、オルグレンは乾いた声で呟いた。
それが大人か子供かなど、考えていなかったのだと。




