十六章《二節 過去との邂逅》2
ロゼの身を支えたまま、ラナンの背に乗り導かれた場所――
オルグレンは、ゆっくりとそこを見渡す。
奥まった渓谷は、不思議な有様だった。
杉や檜、他にも様々な葉が茂ったままの木々は、太く大きい。人が幾人か手繋ぎをして、ようやく囲めるだろうほどの巨樹。
いずれもが古めかしい立派なもので、大いなる枝葉で渓谷を覆っている。
そして何より、谷には不思議とあたたかさがあった。ほんのりとした温度が、オルグレンの肌を包んでくる。匂いはないものの、その湯気の温度が鼻をくすぐった。
流れ落ちる渓流の水は冷たいが、一方で合流する岩の隙間から出る、支流があたたかいのだ。
沸かした湯程ではないものの、口にすれば、冷え切った体をあたためてくれるに十分だった。
この細い幾筋もの流れが、谷の空気を暖めているらしい。
ラナンが足を止めたのは、そんな渓谷の一角だ。
そこにも巨樹が鎮座している。ひと際立派なそれには、巨大な樹洞と呼ぶべきものがあった。小屋が入りそうなほどの、その空間には枝葉が敷いてあり、清々しい緑の匂いが香っている。
樹洞の入り口でラナンが屈むのに合わせ、オルグレンはロゼの体を抱えてその背から降りた。
先にラナンが中へと入る。
そうして、鷲獅子は敷いた枝葉の上に腹ばいで横になった。オルグレンも続いて中に足を踏み入れ……鷲の頭部が嘴を振る仕草に従う。
それで抱き上げていたロゼの体を、片翼を持ち上げた獣の体へと凭れかけさせた。
ラナンが翼を降ろし、少年の体を包む。そうして当たり前のように寄り添う。
その柔らかい仕草。目が物語る表情と、感情。
オルグレンは目の奥の方に、しみるような痛みを感じた。右手に疼痛のような、拭い難い感触が湧く。
顔を向けていられず、そのまま背けた。
「どうしたんだい……?」
「……」
ラナンが首を傾ける。問いに、オルグレンはどう答えるべきか、逡巡した。
「……貴方の住みかを荒らすのは申し訳ないが、何か食べられるものを探してきたい」
真実の代わりに、そう答える。
誤魔化しでもあったが、始まりの種族とは違い、人間には食べ物がいるのだ。
先ほどまで支えていたロゼの体は、飛ぶことをやめた今でも熱かった。熱がある。怪我と共にそれらにも処置をする必要があった。
「それは……、そうだね」
ぼくが行こう、ラナンが動く気配がある。
それにオルグレンは首を振った。
「鷲獅子――ラナン。貴方は、ロゼを休ませてやって欲しい」
自分の方はもう動けるようになったから、と伝えれば白銀の嘴が上下した。
「う、うん。わかったよ、ありがとう。……川に魚が居るはずだよ。ここの辺りの水は大丈夫だから」
ラナンが答える。
言っていることを察し、オルグレンは自身の深奥に痛みを覚えた。
川の水を口にした時にも軽く聞いた言葉が、胸に迫る。
ラナンが言っているのは、昊天の峰の毒。かつてこの山に住まうものが撒いたと、誤った認識をされていた毒――人間の活動が生み出した災い、鉱毒を指してのことなのだ。
「わかった、感謝する」
言って、オルグレンはロゼの片腕を取った。
彼の手首に巻かれた布には、投箭が隠してある。複数本あるうちの一本を拝借してから、オルグレンは樹洞を出た。
❖
鷲獅子とロゼから離れ、ようやくと息を吐く。
オルグレンは、自身の心さえかなぐり捨てたい心地だった。
まるで逃げるような有様だったのではないか。何か不審となるようなことを口にしなかったか……その不安が棚引く。
あれほど待ち望み、そして実際身を削るようにして自身を助けに来てくれた少年へ、どのように接すればいいのかが分からない。
そして、その彼が家族と慕う者に、何を伝え、どう贖えばいいのかも。
暗い心地が立ち込める中、オルグレンは自身の腕の傷を診た。
槍が掠った傷には、既に上着の裏地を裂いて作った布と手布を当てている。
血は既に止まり、縫う程の深さはないと判断して布を戻す。
それらはまるで作業だった。
生き残ろうと、五体を満足に保とうとすることが、どこか虚しくオルグレンには感じられる。
しかし、何かせずにはいられない。止まれば、渓谷の岩と石を縫うように流れる水の音が、自身を削るためのようにさえ感じられた。
ただそれらから、逃れようと枝を拾う。編み上げの靴の片方から、一度靴紐を抜き去る。
その紐で、投箭を、拾った枝へとしっかりと括り付けた。
そうして立つのは渓流の川辺だ。
激しい流れも有り、また湯が沸く地だからか、その流れは凍り付いていない。
岩の上に立ち……しばしの後、岩陰にそれを突き入れる。
切っ先は、過たず魚の身を貫いた。
この即席の銛には、当たり前だが返しはない。魚が生き、逃げ延びようと抗っているのが柄から伝わってくる。
命の感触。息絶えるまでの必死の足掻きは、オルグレンの記憶を揺さぶった。
しかし、それでも、と思う。
疲れ切っただろう少年。自身を助け出すために苦労をしたロゼに、少しでも報いたい。
オルグレンは手ごたえが弱まってから、それを川面から取り上げた。
獲ったのは岩魚だ。
その姿に、遠い記憶が浮かんでくる。
五年前ではなく、もっと昔。子供の時の記憶だ。
オルグレンが子供の時分、こういった食料を得る技を得意としたのは兄の方だった。
兄――ベルンレン・ルーク・ウェンタバール。
黒い房の混ざった金髪に翠眼をしたオルグレンの腹違いの兄、ベルンは何をやらせても非凡だった。
山野や川に出かけ父王やその配下から、こういった技術を習っては、あっという間に達人となったものだ。
オルグレンはだいたい兄に劣るのが常だ。悔しく思ったことがなくもなかったが、輝くような兄は自慢だった。
その兄を見上げる一方で、身体を動かすことを苦手とする弟を宥める日々。仲のいい三兄弟。
成長し、立場の違いが明確となってからも、その関係は壊れなかった。
その中でベルンはオルグレンと少し年かさの手勢を連れ、よく遠乗りへと誘ってくれた。野山を駆け、時に山に分け入っては、こうして魚を獲ってくれたのだ。
遠い過去を浮かべ、故郷のにおいを思い出す。
少しだけ胸の重さが拭われる。自然とオルグレンは、息を吐いた。
そうして、しばし渓流の水面とそこに潜む魚へと向き合う。
幾匹か獲り、オルグレンが見上げた空は、既に深い青みがかかっていた。
そこへ、氷の粒のような星が瞬いている。
いつかベルンと見上げた星は違ったと……、もう一度思い出す。
そうして思う星空は、暖かい営火の色を宿していた。
獲った魚の数を誇り、その魚を焼いて車座になって酒を飲み交わした記憶が、オルグレンの中に浮かんできた。
オルグレンもベルンも、手勢の者たちや、兵と同じ場で食事を取り飲み交わすのが好きだった。
アィーアツバスに居るはずの大切な仲間、戦友の顔が次々に浮かぶ。その家族たちも眼裏へと次々に過った。
故に――帰らねば。
兄が亡くなったことを、オルグレンは幽閉生活の中で聞かされていた。
だから知っている。
兄へ弔いの声を掛けたいと今、奥底から願った。そして、ベルンが……自身が、愛した国を守らねばと、強く思う。
「もう少しだけ、待っていてくれ……」
必ず帰る、とオルグレンは胸中に告げた。
心に少しばかり落ち着きを取り戻し、鷲獅子の塒を振り返る。
そうして帰る前……その前にせめて果たしておかなくてはと、思う。
この地には恐らく、再びクゼリュスが迫る。その前に、ロゼが動けるよう休ませてやらなくてはならない。
すべての元凶として、できる責任を果たし、彼らを逃がさなくてはならない。
そうオルグレンは胸に刻んだ。
そうできる、そう振舞えると彼は思っていた。この時までは。




