十六章《二節 過去との邂逅》1
オルグレンの耳には、ただ自身の乾いた呼吸が響く。
空に投げ出されたところを、救ってくれた鷲獅子。
その毛並みに掴まりながら、胸を占める圧迫にただ堪える。
冷たいような白銀から、手を放してしまいたい。そんな衝動がどうしようもなく騒ぐ。
無意味なその感覚から懸命に気を逸らそうと、オルグレンは左腕に抱えた者を意識した。
支えているロゼの体は、ぐったりとしている。一度はオルグレンの腕に掴まろうとしたのが、身じろぎとして伝わってきた。だが、力を入れられずか、人形のように垂れ下がる。
背中が、絶え絶えの整わない息を繰り返す。
体は熱く、小柄な胸を突き破るのではないかというほど、胸の臓器が暴れているのが腕に届いた。
「一度、降りるよ」
鷲獅子が言う。
「あ、ああ」
どうにかそう答えたが、オルグレンは自身の声に硬さを感じた。
右腕に這い上る冷たい感覚を、悟られてはいけない。そうと強く思うが咄嗟の態度に、にじみ出てしまった。
オルグレンが、これではいけないと、内省する間――
鷲獅子の着地は、風と戯れるかのように軽やかだ。
四肢を折り姿勢を低くする白銀の獣から、ロゼを降ろす。
それだけでまだ脱しきらない頭痛と、目眩に襲われた。だが、オルグレンはそれでも動いた。悴んだ四肢を無理やりに動かす。
そして、少年を草地に降ろし怪我を診る。
白い獣の姿となったときにそうであったように、染めていたらしい髪は白く戻り、割られていたはずの額の傷はすでに無い。
獣へと姿を転じた後、王の盾の一撃を受けた右手は、指の間に裂けた跡があったものの、傷自体は既に塞がっていた。
それぞれを見やり、オルグレンは思い出す。
ツァーカの荒れ野で出会った始まりの種族――狼 竜キグナの言葉だ。
神に与えられたお力は、常に我達を元の状態に保とうとする。
彼の言葉の通り、ロゼが負っていた傷の大半は既に塞がっている。
だが……問題は左の大腿だった。闘技場で弩兵に射られた傷。
空を駆けている間、後肢にはその矢が突き刺さったままだったのだ。獣の姿であった間、ずっと異物が突き立ったままであったためか、それは今も傷として残っていた。
矢は、先ほど獣から人へと戻った際に、何処かで落ちてしまったのだろう。
オルグレンは襟締を解いた。
それを引き裂き、止血を施す。一度着地し、治療をしていた方が良かったか……そうとの考えが浮かびつつも、オルグレンは胸中で首を振った。
怪我を負い、体に負担のかかる離陸を幾度も行えない。そして、少しでも遠くに逃れなければならない。
だからこそ、ロゼは無理を押してでも飛び続けてくれたのだ。
体力を使い切った少年が、ただ息を繰り返す。
幾分かは落ち着いてきてはいたが、今はまだ呼吸で手一杯らしく、双眸すら閉じたままだ。
「ロゼ」
その静かな声は、鷲獅子が発した。
ロゼが薄く目を開く。唇が震えるように動き、掠れた声を紡いだ。
「……ラ、ナン」
「そうだよ、ロゼ。おかえり、よく帰ってきたね」
白い嘴を少年へと寄せ、鷲獅子――ラナンが柔らかく言う。
ロゼが強く目を閉じ、そして開いた。
頬を寄せる親しい者へ、どうにか手を上げ、羽毛が覆う頬を撫る。そうして、少年が身じろぐようにして、額を嘴へと当てた。
「助けて、くれて、……ありがとう。でも、ごめん」
身勝手なことをしている、きっとまた迷惑をかけてしまうと、ロゼが謝る。
とぎれとぎれに紡がれるそれへ、ラナンが喉で否定の音を奏でた。
「いいんだよ。……他を慈しむ為だけに生まれたぼくたちを、ずっと愛おしんでくれてる君だから」
疲れただろう、一度おやすみ、とラナンが言った。
ロゼがゆっくりと息を吐く。鷲獅子の首を撫でた手を落とすように降ろし、オルグレンに薄紅色の目を戻してくる。
その視線へ、オルグレンは小さく頷いて見せた。
ロゼが少し微笑むような、安堵にゆるむような顔をし目を閉じる。
じわりとまた内心が軋んだ。そうであるものの、眠りか、気絶か曖昧な様子で意識を手放した身体を、冷えぬようにオルグレンは自身の外套で包んだ。
途端に山の、冷えた静寂が戻る。
その中で、
「……君のことはロゼから、教えてもらったよ」
こころの繋がりで、と告げるラナンの視線が向いてきた。
それへ、オルグレンは強張りを覚えた。
ロゼと同じ色の瞳は、見透かすような雰囲気がある。お前のすべてを知っていると、そう言われたような心地だ。
オルグレンの胸は、警鐘を打ち鳴らすかのように騒いだ。
右腕が鷲獅子を害した物であると露呈することが、恐ろしい。
仲間の仇だと歯牙を向けられることを――いや、ロゼにそれが伝わることを、心の深奥から怖いと感じる。
無意識に腰を探りそうになる。当然だが、そこに剣はおろか剣帯もない。
そして、剣を構えたくなるような衝動に襲われているのは、自身の身勝手と、愚かしさ以外何者でもない。
これは思い込みであり、にじり寄ってくる記憶が生み出した幻なのだ。
そうオルグレンは自覚した。
「大丈夫、こんな姿をしているけれど君を襲ったりはしないよ」
実際に心を見透かすような力はないのだ……。
オルグレンの様子を別の意味で受け取ってか、ラナンが言う。
「器の姿――人間のような姿になればいいのだけれど、ぼくの器の体は小さくてね」
君たちを運んであげられなくなるから、と言うラナンの顔は鳥のそれであるから表情はない。
それでも、どこか微笑んだような雰囲気があった。
「ロゼをちゃんとしたところで、休ませたいんだ。手伝ってくれるかい?」
「……ああ、もちろんだ」
冷えからだけではなく強張る手を握りしめ、オルグレンはどうにか頷いた。




