十六章《一節 鷲獅子》
忙しないふいごのような音。
そんな息遣いが響く。
「ロゼ、無理をするな」
背に伏せているオルグレンには、ロゼの体の熱さが毛皮越しに伝わってきていた。
馬であれば、乗り手として休ませる判断をする。そうしなければならないと感じる熱だった。
ロゼがそうしてくれる理由はオルグレンもわかっている。
地上の景色が精緻な絵のようにしか見えない。そんな高さを飛んでいるが、その姿は目立つ。
村落の近くを過ぎるたび、地上に落ちた影から人々が空を見上げる姿が見られた。
彼らは見慣れぬ獣がどの方向へと飛び去ったのか、兵士に告げてしまうことだろう。
故に、距離を稼いでおかねばならない。馬が追い付けぬよう、少しでも遠くへ。
いっそアィーアツバスまで行きつこうとしてくれているのだ。
「……ロゼ」
髪をなぶる強風。凍らせてくる温度の中、オルグレンはもう一度声を掛けた。
首より先に触れようとするが手も指も悴み、思ったほど伸ばせない。
ロゼの体温で助けられているものの、オルグレンの身体は冷え切っていた。
しばらく前からある頭痛が、酷くなっている。頭の芯を不快感が占拠し、物を考えづらい。
身動きをして、オルグレンは天と地が回るような眩暈に顔を顰めた。
鈍い思考の中で、いつかロゼに聞いた話を思い出す。急峻な白き峰を登った者が倒れ、或いは狂うという話。それがとりとめもなく浮かぶ。
自身の身にも降りかかっているのか。オルグレンの脳裏にはそんなことも過った。
何せ、壁と化して連なる山の峰が、手が届きそうなほど近くに感じ、逆に途方もなく遠くにも見えてくるのだ。
ロゼも疲労とで意識が混濁し、幻視に惑わされているのではないか……。
背に居ることもあり、獣の姿をしたロゼの顔色を窺うことはできないまま、オルグレンはそう感じた。
純白の毛並みをゆすり撫でる。淡い燐光を零すその毛並みが透き通り、淡雪が溶けゆくかのように薄らいで映った。
「ロゼ……っ」
もう一度、呼ぶ。
ロゼは答えない。少し前までは確保していた高度が徐々に落ちつつある。
正気付こうと、何度目かの強い瞬きをしたオルグレンの目に、昊天の峰が迫っていた。黒く見える岩肌に雪の白を纏った、猛々しさと静謐の山。
翼に受ける風に流され、ロゼがそこへと近づきつつあった。
山肌に沿った植物の見え方が、徐々に大きくなっていく。
不意に、ロゼが大きく息を吸った。彼の喉が人語ではない鳴き声を奏でる。
笛と琴を混ぜたような、不思議に耳になじむ旋律。
それは、精霊母セラーフィナやシルユーノの耳に心地よかった声を思い出すような響きがあった。
途端、ロゼが態勢を崩す。
空の中でぐらりと傾ぐ。翼に力がなくなり、風に負けてあらぬ向きへと翻った。
落ちる。その予感が先か……空中に引きはがされそうになる。
固まったような腕で辛うじて首を掴む。
しかし、――新雪のような毛並みが、幻であったかのように消え失せた。
空を切った手を、オルグレンはもう一度伸ばす。それで掴んだのは、黒い旅装束だ。
獣の姿が消え失せ、あるべき姿が投げ出される。
どうにか引き寄せ、オルグレンはその体を腕に抱き込んだ。
庇いたかった。とはいえ、樹木の背よりもずっと高い位置からでは、身一つの虚しい足掻きでしかない。
けれども、何もせずには居られない。
死しか選べぬこの状況であるならば、せめて共に逝きたい。例え自身にその資格が無かろうとも……。
オルグレンはそう思った。
槍の如く並び立つ杉が迫る。
厳しい寒さを耐え忍ぶ木。その硬く締まった姿は、頑丈に違いない。鳥の早贄の姿が、オルグレンの脳裏に過った。
樹芯がすぐそこ。目を閉じる。
そして、衝撃を身に受けた。
木に貫かれたにしては、柔らかい。深く沈みこみ、受け止められたのを感じる。
目を開く。腕を伸ばす。
自身ができる全霊で自分を受け止めたものを掴み、同時に腕に抱えたロゼを支える。
改めて救ってくれた者を視認し――オルグレンは、先ほど以上に身が冷えるのを感じた。
それは、白銀の獣の背だった。
高く昇った月に似た、青ささえ感じられる白。新雪のような淡さのない、冷えた色の毛並み。
そして、オルグレンにはそれが何者であるかがわかる。
神が自身を愛する者として生み出した始まりの種族、弟妹なる者――鷲獅子。
その一体が、救ってくれたのだ。
その姿は四足獣の体に、大きな翼、頭部は鷲の形をしていた。
記憶にある姿と、まごうことなく一致する獣。
思い出すまいと閉じていた記憶が、否応なく浮かぶ。
オルグレンの右手には、それを貫いた鋼越しの感触が蘇った……




