十五章《七節 共に……》
「馬司の王子!」
呼びかけられ、オルグレンは正気づいて顔を上げた。
腹に短槍を生やしながら、それでも女将軍の声が轟雷のように響く。
「あたしは逝く! 約束を忘れるでないよ!」
その一言。その意味がオルグレンには理解ができた。
一年前の脱出に際した、交換条件。自身の帰還を以て馬司の国の呪縛を解き、白き峰々の国を救うこと。
果たさなくてはならない使命。
しかと聞くも、オルグレンの痞えた胸に熱さが乗り、複雑な軋みが生じた。
その間にも白い獣となったロゼの四肢が、エーイーリィの女武将の脇をすり抜ける。
風を受け、草原のように波打つ純白の毛並みの中に身を伏せ、オルグレンは息苦しさに口を開いた。
だが、息を継げぬままに、奥歯を噛み締める。
始まりの種族の姿へと転じたロゼの、馬とは違う速度や、跳ねまわるような機動の影響もある。
だが、それ以上にオルグレンの胸には重いものが広がっていた。
あの地で起こり、ずっと苛まれてきた自身の過ち。
あの嵐の海で失い、失ったままにしていたかったもの……。
それが波のように深奥に打ち寄せてくる。
オルグレンは首を振った。
今は、それに囚われている時ではない。己でも言い訳だとしか思えないそれを唱える。
そうしながらも――
音で気付き、オルグレンは外套を振った。布地で矢を絡めとる。
取り逃がすよりは、亡き者にしようというのだ。誰の采配かクゼリュスの判断は実に早く、弩の矢が降り注ぐ。
「ロゼ!」
掴まった獣の背が不意に跳ね、オルグレンは思わず叫んだ。
矢のすべてが上手く落とせたわけではない。ロゼの大腿に刺さった矢が、彼の片足を不如意とした。
石段へと倒れかける。しかし、寸でで白い獣が翼を広げた。それを石畳につき、傾いた分を立て直す。
オルグレンの耳には、ロゼの呻きが届いた。彼の背から降りるべきかと、迷いが這い寄る。
ロゼの前肢には、王の盾の槍さばきによる傷がある。そして、今の後肢だ。
この状況で、振り返ったオルグレンの目には、次弾を装填する兵の姿が見えた。
だが――
「――っ、振り落と、されないで」
獣の唸る低い声で、ロゼが言う。そして一度翼で空を打つ。
飛ぶのだと、オルグレンはその仕草からくみ取った。
傷ついた四肢でロゼが走る。
馬が跳ね飛ぶ前のように加速し、白く輝く風切りの羽が、風の中で翻る。
内臓が置き去りにされるような感覚。それがオルグレンの身を持ち上げた。石段が遠ざかり、後方へと流れていく。
逃げ惑うクゼリュスの民たちの頭が眼下となり、すり鉢状に並び立つ闘技場の観客席が一段、また一段と遠ざかる。
上へ、上へと。
日よけの天幕の上へ突き抜ける。
空が近づいた。凍てついた風が、密に織られているはずの衣服を貫き、肌を刺す。
直後、魂のみが空に置きざりとなった。オルグレンの体の芯に、氷の感覚が通り抜ける。
落下。闘技場の上へと跳び出るや、すぐ荒れた風に打ち据えられたのだ。
ロゼが懸命に両翼をはばたかせるが、飛び上がった高さが瞬く間に消えていく。
目の前へ、天幕を支える支柱が迫る。
オルグレンは、慌てはしなかった。
ロゼが必死に飛ぼうとしていることが、翼を振るう筋肉の動きで分かる。
身の均衡を保つ動作でも伝わってくる。
だからこそ、彼が念を押して願ったように、オルグレンは空に投げ出されぬようしかと掴まった。
その間にロゼが身をよじって支柱を避け、その台座を蹴りあげて再び高さを確保する。
そうして――ついには、闘技場から飛び出した。
すると、だった。
クゼリュスの首都アスデウスにひしめき合う建物が皆屋根を晒し、街並みが荒い鑲嵌画のようになる。
地面が遥か下。オルグレンの体は、勝手に危機感を覚え竦んだ。
一方で、
「――空だ」
翼一杯に風を受け、ロゼがぽつりと言う。
しかと白い毛並みに掴まる中、オルグレンの耳に届いたその言葉は、どこか輝いたような声だった。
雲間から差し込んだようなそれが、心にも届く。
オルグレンは無意味に固まった体の力が、するりと解けるのを感じた。
視線が自然と上がる。視界が開けた。景色が広がる。
凍ったような風が頬を叩いた。だが、そのようなことなど気にならない。
荒涼とした大地の空気は澄んでおり、煙ることもなく遥か彼方――どこまでも先を見通せる。
「ねえ、見て」
その声は、明るく上ずっているようにオルグレンの耳に届いた。
まるで、子どものような声で分かち合う言葉をロゼが発する。
「オルグレン、空だよ」
「……ああ」
オルグレンは、胸の奥から答えた。
空と地表が接している。
遠くへ、その先へ、彼方まで、連れ立ってどこまでも行ける。
そんな広い、広い、世界が目に映った。
空と大地の間に、今共にいる。
鳥のようと呼ぶには、大きくふらつきながらではあるものの、ロゼが翼で空を駆けてくれていた。
闘技場からの弩は既に届かない。しかし、まだ安堵はない。
クゼリュスの首都を守る囲郭が近づく。その上には常備とみえる兵が居た。
彼らが闘技場の騒ぎを知っているかは、分かり様がない。ともあれ、彼らは得体の知れない獣を前に、矢を構える。
オルグレンはロゼの体へと掴まった。
彼が身をひねる。脇を抜けていくのは矢だった。熟達した弓兵に対し、今のロゼの姿形は大きな的だ。
加えて、不意に穴に落ちたかのような浮遊感が襲い、また落下が始まる。当たったわけではない。
「っ、ごめん」
咄嗟に口をついたのだろう。ロゼが謝る。
飛び慣れていない中で、背にはオルグレンという荷が乗っているのだ。
その中で向かい来る矢を避けるのは、至難の業に違いない。
いまだかつて経験をしたこともないようなことを、ロゼは懸命にやってくれている。
「……大丈夫だ」
オルグレンは答えた。
更に言葉を足そうと口を開き――
「……」
決して離れない、共にいる。そう言葉にできないまま、オルグレンは一度口を閉じた。
痛みを覚え、言葉が詰まる。言えない。言う資格などない。
代わりに、震えそうになる声を押し殺し、伝える。
「……俺のことは気にしなくていい」
うん、とロゼが喉で返答をする。
彼としては矢が届くよりも高く飛び上がりたいところであろうが、それをするにはあまりに囲郭が近かった。
いっそ、と思ったのだろう。オルグレンはロゼの動きに合わせて、彼の首へしがみついた。
急降下。囲郭にほど近い民家の屋根へと降り立つ。その衝撃で、オルグレンの体は浮いた。
それをどうにか、獣の背の上で堪える。
その中でオルグレンの耳には、ロゼが呻く小さな声も届いていた。足の傷が痛むのだ。
一方で眼下では通りを埋め尽くす、祝祭を祝う人々の悲鳴が上がった。
逆に囲郭の上では弓兵たちが、ロゼの動きを追い、射降ろす姿勢を取る。
とはいえ、兵には一瞬のためらいが生じた。下にいる大勢の無辜の民の、顔に向かって射かけることになるからだ。
一瞬の躊躇。それを感じとる間に、オルグレンの体には、すぐに押さえつけられるような力が働いた。
ロゼが翼ではなく、跳躍する。四肢ならば、まだ繰り方がわかってきたということか。
獣の跳躍を、今の姿で実践する。
そびえる壁のような、首都アスデウスを守るにふさわしい囲い。手傷がありながらもそれをロゼが、容易く飛び越える。
着地したのは、囲郭の外。ここでも首都へと入ろうとしていた人だかりで混乱の声が上がった。
腰を抜かす人、怯え硬直する者、遠ざかろうと慌てふためく人々の中でロゼが再び翼を広げる。
その姿を、見つめてくる視線がある。馬を引く目深に外套を被った男。
それに気づきながらも、オルグレンには、それが誰か考える余裕はなかった。
ロゼが、翼を振るう。燐光のように繊細な光を零しながら、純白の身が躍動する。
助走が血の道を描いた。それでも、ロゼが羽ばたく。
飛び上がる。西の地へと向けて。
共に征く……。
願い続けていたことが実現されたと感じながら、オルグレンは胸を占める痛みにただ耐えた。




