十五章《四節 ベイセル》3
闘技場の騒乱に目を戻す。
そして、また、ここでも不運なのかと、ベイセルは内心に吐き捨てた。
矢に穿たれて死ぬのか、と思う。
己に理不尽を突きつけてきた、その張本人に……。
そして、自身の死をもってこの場の硬直も解かれるだろうと悟った。
忌々しい。
すべてが、呪わしい。
そうベイセルは思う。
そして――
「ベイセル様!!」
その声は、唐突に湧いた。
エーイーリィの手勢の向こう、クゼリュスの兵たちが外側に形成した囲みを突き抜け、乙女が飛び出す。
それは、ベイセルにとって想像を超えた光景だった。
……遥かに、――遥かに、最悪の光景だった。
神は一片の希望さえ、抱くことを許さないのだと思い知る。
機敏な動きの娘が仲間の囲みを突き抜け、更にエーイーリィの外側の牽制へと食らいつく。
ノージスが短槍を持ち、白い獣へと一心に迫った。
この出来事で状況が変わる。
膠着が崩れ、エーイーリィの手勢が動き出し、貴賓席を守るクゼリュスの者達もまた動き始めた。
人が入り乱れる。
瞬間――ベイセルは、声を発した。おおよそ自身が発したことのない叫び。
そう感じた。
だが、さほどの声も発せられていなかったのかも知れない。
音もなく、どこかゆっくりと感じられる流れの中、ベイセルの目はそれを捉える。
青黒い色に髪を染め変えた獣。
それは射線を遮られ、ベイセルを仕留められないと判断したらしい。
矢をつがえたまま振り返る。
当然、それは獣が自身へと向かい来る脅威を、排除する為の行動となった。
矢が放たれる。
――ノージスへと向けて。彼女の動きは、感情に突き動かされるまま、真っ直ぐだった。
射手にとって好都合すぎるほどに。
ノージスが短槍を盾に構える。
だが……近すぎた。矢が木の柄を簡単に食い破る。そして……彼女はクゼリュスの騎士であれば身につけているはずの金属の鎧を、今は身に着けていない。
他ならぬ、ベイセル自身がそれを取り上げたからだ。
血の華が咲いた。
胸に吸い込まれた鏃が、それを作り上げた。
衝撃でか、ノージスの体が大きくよろめく。
横へと逸れ、観客席である階段状の石段へ、吸い込まれるように倒れる。鈍く音を立て、段を転がり落ちていく。
ベイセルには、分かった。
今、すべてが奪われたのだ、と。
己の人生の中で、せめてこれだけは……と思っていたものの全てが。
同時、不思議でならなかった。なぜこの非情を行った存在は、生きているのか。
いつの間にか眼前となっていた、薄赤い目が振り返る。
ベイセルはあらん限りの力で、鋼を振り下ろした。
言葉がベイセルの深奥から噴き上がる。
これは、死すべき者だ。
排除せねばならないものだ。
その内心の絶叫のまま、鋼を振るう。
片腕でも十分に力が乗るよう、細工をした剣。その一撃で、獣が刃を避けようと掲げた弓を叩き斬る。
即座。
ベイセルは視界の端を追った。
獣の腕が一閃する。それは手にしていた矢を突き出した。
狙いは、目。それを理解しながら、ベイセルは自ら頬を差し出す。
突き出されるそれに顔を逸らさず、当たりに行く。
その甲斐は現れた。鏃は、目ではなく頬へと食い込む。
口の中へと潜り込んできたそれを、ベイセルは噛み締め固定した。引き抜かせない。
矢を引き抜き目を狙い直そうとした獣の、僅かな瞠目。
狂った剣も動揺するらしい。
その一瞬も、何もがベイセルにとって虚しい光景だった。
なにもかにもが沸き立ちながら、それでいて何よりも冷めている。
痛みも、なにも、自身も、全てが無価値。
獣が次なる動きに移る前。
引き上げていた足を、薄い胸板へと叩きつける。
もはや、なんの厭いもない。
眼の前の者は、同情の一欠片も必要のない、そういう存在だ。
小柄な体躯が石段の上に倒れる。
剣を手にしたままの手で矢を引き抜き、打ち捨てながら、ベイセルの目はただ獣を見た。
その姿へ、踏み込んで剣を叩きつける。
獣が寸でで、身体を転がした。そして、軽業のように跳ねて起きあがる。
その身体を、剣筋も気にせず薙ぐ。剣と山刀とが食い合う。火花が散った。
力に押されたというふうに。しかし本当にそうだとすれば些かに軽い。
それで即座に察する。
狂剣が見えていないはずの周囲を、まるで見ているかのような動きをすることなど、ベイセルにとって幾度も見た光景だ。援護が来るのだろうと推測するのは、実に容易い。
そうして、他所から繰り出された、文字通りの横槍を薙ぎ払う。
一方の女の槍使いは、すぐに短槍を引いた。
元々承知の上だったのか。本命は二撃目とばかりに、腕を引き絞り、そして突く。
ここだ、と。ベイセルは感じた。
読みの通り、槍と同時に光が動く。半曲刀、その一閃。
隻腕である以上、左右揃った攻撃は防げない。
もしも、ここで生き延びるのであれば、退くしかない。
間合いを外せば、如何な武器とて意味はないのだ。
だが、そこに立つ。逃げはしない。
そして剣も守りに使わない。上へと掲げた。
それがどういうことかは、わかっている。
とはいえ、ベイセルにとってこの後など意味はない。つい先ほど、本当に無意味な物と化したのだから。
薄赤い目が見開かれ、ベイセルを映す。
気づくや、狂剣は振るおうとした半曲刀を盾に構えた。その腕が、戦士としては聊か非力なことを、ベイセルは知っている。
一方で女の槍が鎧を突き破り、腹を裂いていく。それを感じながら、ベイセルは剣を打ち下ろした。
全霊で、己がすべてで――
半曲刀と厚みある剣が相食らう。
破城槌もかくや。衝撃の音が響いた。
手ごたえを感じる。
すかさず、横薙ぎに蹴り倒す。
石段に両ひざをついた獣の頭から、器から撒いたような血がしたたり落ちた。それでも、それは顔を上げてくる。
槍使いを振り払い、ただ獣だけを追う。ベイセルの目に映るその顔は、血に塗れていた。
刃受けをしたものの、衝撃を受けきれず、鍔が額を割ったらしい。
そして、ベイセルが蹴上げた脇腹を、山刀を持つ手で庇っている。その傷は深い。のたうっていないだけでも、称賛に能うほど。
だが、すぐに自在に動ける程の軽傷ではない。
その姿へ、ベイセルは再び剣を振り上げた。




