十五章《四節 ベイセル》2
五年前のあの日――
珍しくも少し暖かかった、冬の日暮れ。
ベイセルはただ偶然に、その場へと通りがかった。
ずいぶん呑気な心地だったことを覚えている。
久々に王都へと帰り着き、暇を言い渡され……養い子に何をしてやろうかと考えていたのだ。
その時のことを、ベイセルは忘れたことがない。
城の裏側に位置する勝手門から、兵と子供の声が聞こえてきた。
怒鳴る声と、高い泣き叫ぶような声。
それを聞き、ベイセルは思った。
門兵が物乞いの子供でも、捕まえたのだろう。そう受け取ってしまった。
子供を虐めて遊ぶ不心得者も、兵の中にはいたからだ。もしそうならば、諌めなくてはならない。
しかし、だった。
兵が子供を追いかけ跳び込んだらしい、人気のない路地の中。
ベイセルが駆け寄ったとき、そこにあったのは生臭いにおいと、夕暮れに浮かび上がる赤だった。
次いで視界に映ったのは、両腕を血まみれにした子供。
そして、石畳の上をのたうつ兵。その兵は押さえた片耳の辺りから、血が噴き出している。
状況を辿る中、兵の耳をちぎった下手人はと考える。
しかし、ベイセルは思考する必要もなく気づいた。
兵に投げつけられてか、石壁のすぐ脇で蹲る白髪の子供。
十になるかならないかといった年頃の、その子供の口元は赤色にまみれていた。
信じられない気持ちと、狂人かと納得をする気持ちが半分。
子供は興奮しきった息をし、瞬きを忘れた目で忙しなく周囲を見渡している。どうにか立ち上がろうと傷にまみれた腕で、自身の血をふりまく姿は正気の様にはみえなかった。
「と……、逃亡だ……っ」
門兵自身も何事かわかっていない様子で……だが、ベイセルの旅装ではあるものの、騎士然とした姿を見てだろう。
「城から出てきた、捕まえてくれ」
不明な子供が城から飛び出してきたのだ、と言う。
何者か分からない不審が、城の中から出てきたのであれば、捕らえねばならない。
己の責務を果たさんとする同胞の言葉に、昔日のベイセルは従った。
よたよたと子供は走り出していたが、大人の足でそれに追いつくのは容易い。
ベイセルは、その腕を捕まえ引っ張り上げた。
子供が叫ぶ。離してと、嫌だと、その小さな全身で喉が潰れんばかりに。
本当にめぐり合わせの不運だとしか言いようがない。
寒村で養い子を拾うという経験をしていなければ、この空隙はなかった。
子を捕まえ、ベイセルは思ってしまったのだ。
養い子達と同じ体だ、と。
拾ったばかりの頃に感じた、細く、軽く、足ることを知らない、子供の体。
手荒くすれば、ただでさえ深い切り傷にまみれた腕は、容易く壊れる。
そうと思えば、全身で手を振りほどこうとする小さな姿は、別の姿に見えた。
狂っているのではない、怯えているのだ。
それが、過ちだった。
ベイセルは子供が兵にしたことを、束の間忘れてしまっていた。
そして、子供が門兵から小刀を奪っているなどとは、思いもしなかった。
身構えることはおろか、何の反応も浮かばない。
ただ、見ていた。自身とは関係のない風景のように、演劇か何かを眺めるように。
無茶苦茶に手足を振り回した子供が、抜き身の小刀を振り回す。
自身の身体のことも厭わず、ただ逃れようとする恐慌からの行動。
そして、その鋼はベイセルの左腕に突き立った。
細い体を折らぬように加減をしていなければ、あり得なかったはずの不覚。
それでも、まだその程度の不運であれば、治る見込みもあった。
日暮れの路地に、その者達が現れるまでは――
「こりゃあ……」
その声と姿をベイセルは見てしまった。
そして、
「――剣聖」
思わず、だ。ベイセルにとって一生の不覚という以外にない。
だが、目深に被った外套の奥に居るべきではない顔を見、思わず声が出てしまったのだ。
途端、気温とは違う冷たさが場を占めた。
「……悪いな」
気付かれたからには……と言った所か。
動く剣聖の一撃を、ベイセルは抜き放った長剣で防ぐので精一杯だった。
あまつさえ、その背から、音もなく死の影が伸びる。
かつて聞いた話から、それが狂った死神と呼ばれる者だと気付く。
同時に、死を悟る。
その生命を刈り取る、死神の半曲刀。
ベイセルは、咄嗟に左腕を差し出した。
死ぬわけにはいかない、養い子たちの姿が脳裏を過り、ベイセルの体を咄嗟にそう動かしたのだ。
左腕を犠牲に体を守った。
刃を掴み逸らそうとする傍から、己の腕が縦に切り裂かれた感触は忘れられもしない。
切り取られた腕が、市場の肉のように落ちた音も。
王城の方からなんの騒ぎだと誰何の声がひびいたのが、同時。
剣聖が倒れた子供を担ぎ上げ、死神と共に去っていくのを、ベイセルはただ自身の血だまりの中に伏しながら見送った。
二度と子を抱え上げることの叶わなくなった、落ちた左腕をその視界の端に映しつつ……
あれ以来、何度も思う。
ただ、その日偶然にそこを通っただけ。
ただ、子供の身を案じただけ。
ただ、同胞の責務に手を貸そうとしただけ。
ただ、それだけであったにも関わらず、ベイセルはその日未来を絶たれたのだ。
あれを仕方がない運命と、整理をつけられる者がいるだろうか。
私が何をしたのだという、自身の内側からの問いに、ベイセルは未だ答えを見出せてはいない。




