十五章《四節 ベイセル》1
ベイセルの目には、茶番が映る。
芸を仕込んだ獣や、軽業などの大道芸。
音が舞う、歌に踊り。土煙を上げ、激しい音で駆け巡る騎馬の競争。
そして原初の興奮を呼ぶ人と人、或いは獣と人の殺戮。
王都アスデウスが誇る円形闘技場で、クゼリュスの民がそれらを楽しんでいる。
歓声が上がり、手が打ち鳴らされた。
鋼が振り掛かってくることのない高みから、命を懸けて弄ばれるもの達を見下ろし、優越と言う名の酒に酔う。
観覧席の最下層、最も舞台の近く――
演劇や、闘争の気迫が迫る貴賓席で、王が鷹揚に拍手を送る。
標星の大国の王は、国の色である紫に細やかな刺繍がある上着を召していた。そして、それ自体が輝くような不思議な獣の毛並みと、同じ質感の羽根で飾られた白銀の外套を纏う。
ヒースヴィオラは、まさに国の頂点とばかりの存在感を放っていた。
彼が贈る拍手に合わせ、同層に招かれた国賓や、クゼリュスを支える大貴族達が倣って拍手を送る。
その貴族や客たちが、次の催しものへと変わる合間を利用して、入れ替わり立ちかわり王への挨拶へと訪れていた。
その媚びへつらう有象無象。
彼らはベイセルにとって、視界の端を動く虫に過ぎない。
名目上彼とて警護としてここにいる。
だが、王の元へと近寄る者たちへの警戒など行う気はなかった。何より、王の護衛は別の者が行っている。
王の盾――そうと呼ばれる、アーベルトの越えられない壁である軍人貴族。
それが、堂々としたたたずまいで見事に役目を遂行していた。
その王の盾の横。
そこへと、静かに置かれているのは草の民の王子だ。
餌である男を、ベイセルは視線だけで見た。着飾らされた青年がいるのは、丁度王へ挨拶に来た者の目に映る位置となっている。
馬司の国がクゼリュスの掌中にあることを示しているのだ。
何を画策しようとも、相対する標星の大国の背後は、決して動いてくれはしないのだぞと、そこに置くことで表している。
飾り物である男は、挨拶を受ければそれに応じた。
はたから見れば、国家間の事情を背負わされた、哀れな青年と見られなくもない。事実賓客の多くが憐憫の眼差しを送っていた。
だが、男は客や見世物に注視するでもなく顔を上げている。
その様子を見やり、思う。奴は、憐れまれるべき内心などしていない。
ベイセルが立つ貴賓席の末尾からは、草の民の王子の横顔しか見えなかったが、眼差しはどこか凛然とした光を湛えて見えた。
まっすぐに上げた面持ちは、ヒースヴィオラの息子や甥たちよりも、よほどしっかりとしている。
実際、隠しきれない同情を浮かべていた訪問者達も、その男と言葉を交わすと見る目を変えていく。
囚われの身でありながら、紛れもなくアィーアツバスの次代であることを感じさせられてのものだろう。金色に染まった草原のような髪に、鮮やかな青の瞳も相まって、吹き渡るような風を思わせる姿を主張している。
凛然とした居住まいは、ただただ輝かしく、ヒースヴィオラに劣らずの存在感を放っていた。
遠目であってもこの標星の大国の王と、馬司の国の王太子の姿は、目につくに違いない。
故に、隻腕の騎士は念じた。
――はやく呼び寄せろ。
王城の露台などよりは、よほどここの方が襲撃を掛けやすかろう、と胸中で呟く。
移動の箱馬車の中身をどれかと選ぶより、容易い場所だ。
ここであれば目標の姿がはっきりと見えるのだ、今に違いない。
ベイセルは有象無象へと視線を向け、待つ。
そして――
闘技場の一角で、どよめきが起こった。
余興や、次の催しなどではない。闘技場の私兵が、荒れた声を上げている。
敢闘門付近の群衆が腰を浮かせる。
なにかが起こっていると感じつつも、何が起こっているのかわからない者たちが、右往左往とどう振る舞うべきかと漂った。
勘のいい者たちが席を離れて動く。一方で何が起こっているのか確かめようと首を伸ばす者たちが、逃げる者とぶつかる。
どこへ行けば、どうすれば、何が起こっているのかと、四方から泥土が寄せたような、絡まりが生まれ始めた。
一方で闘技場の私兵や奴隷の管理達が、門から押されてきた。
途端、闘技場の中を吹き抜ける風に、濃い鉄錆のにおいが混じる。
それは催し物の死傷などとは比べ物にならない、戦場の気配だった。
雄叫びが轟く。
怒号が応えた。
悲鳴が上がる。
敢闘門の奥から圧倒的な勢いが解き放たれ、闘技場の私兵のみならず、催しの警護として配されたクゼリュスの兵を襲い始める。
ベイセルは騒ぎの出どころから意識を離した。
奴が来る、その確信が彼を冷静にし、同時に血を滾らせてくる。
どこから来る……
ベイセルの視界に映る貴賓席では、王の盾やアーベルトを始めとする者たちが、敢闘門へと向いたままだ。
「奴隷どもの反乱か!」
誰かが言う。
一体何が、一体何故と、口々に言った。
牢は、鎖は、手枷はどうしたと、今はどうでもいいことを口に登らせ合う。
その無用なざわめきの間、ベイセルは背後の息を潜めた鋼の音を、聞こえぬふりをした。来た、という確信と共に。
一方で、他より早く我に返った王の盾が、王の御身を背に庇い、近い脱出路へと導こうと始める。
その動きに気づいてか、アーベルトもまた自身の役目に戻ろうとし――
「後ろだ! 構えよ! 王を守れ!!」
赤い軍人貴族が叫んだ。
わけが分からぬまま、貴賓席の護衛が鋼を構える。
敢闘門から溢れ出る反乱奴隷達の騒ぎの間に、上段の観客席から縄を使って降りてきたと見える一団が、内と外に鋼を構え貴賓席を囲っていた。
そして、
「大人しくおし!」
女の声が、戦太鼓の如く周囲を打つ。
「氷壁の牝熊――サーダリス・フレイ・メルズテュネ!」
アーベルトが言った。あれが……と誰かが呻く。
そこで睨み合いとなった。
「何用だ。今は亡き国の将よ」
クゼリュス王が自ら問う。その言葉で、王が事態を正確に見抜いているとベイセルは感じる。
本来であれば氷壁の牝熊は、不意をうちクゼリュス王を討ち取りたかったといったところだろう。
それがアーベルトに気づかれたばかりに、身構えられてしまい果たせない。
一方で、クゼリュスの手勢も動けずにいた。王や貴賓席の要人達に、鋼を向けられているが為に、動きを取りようがなくなっているのだ。
膠着。
とはいえ、動かなくとも良い。
故に、ヒースヴィオラは態度を崩さなかった。
ここはクゼリュスの首都アスデウス。
剣闘奴隷がいくら暴れようとも、氷壁の牝熊の手勢がいくら強力であろうとも、こちらには援軍が必ず来る。
その到着まで時を稼ぐのが正しい。
情けない悲鳴を上げ、我先にと王の方へと身を寄せる貴賓。
それらを押しのけ、アーベルトの号令に従い、守りの姿勢に入るクゼリュスの兵。
自身の脇で起こるそんな些末なことを一瞥するに留め、ベイセルの目は自然とその姿を探した。
居るに違いない。
混戦に乗じたかっただろう、その者の姿が紛れているに違いないのだ。
ざわめきが遠ざかり、意識が砥がれていく。
そして、その中でベイセルは見つけた。自身を見つめる、薄紅色の目を。
白い獣は、弓を引き絞っている。
狙いは……と、ベイセルは気付いた。その鏃が向いているのは、クゼリュス王ではなく自身。
それで察する。エーイーリィの手勢に紛れながら、その白い獣は別の思考をしているのだと。
ベイセルは読み通りと悟った。
やはり、それを餌にしたことは正しい。
餌に釣られた魚のごとく。それは草の民の王子を救わんとしている。
それが為に障壁と認識する者を屠ろうとしているのだ。
読み通りのことが起こっている。
しかし、惜しいことに状況はベイセルの味方となっていなかった。
これほど待ち望み、ようやく再び相まみえた、その怨敵。
それとの隔たりがあまりにも厚い。ヒースヴィオラと国賓を守らんとするクゼリュスの兵の、槍と剣の連なりが障害となり、エーイーリィの手勢が壁となっている。
この状況で、相手は飛具。
アーベルトさえ気づかなければ、と温度なく胸中に吐き捨てる。
そうであれば、氷壁の牝熊とこちらの手勢は、乱戦の最中だったはずなのだ。
入り乱れていれば、鋼の歯牙を届かせることができたに違いない。
失った箇所から疼くような痛みが、左腕を這い上ってくる。
その最中、つくづく己とは運がないものだと、ベイセルは思った。
思えば、因縁の始まりもそうだったのだ。
全くの不運としか言いようがない。
そんな出来事だった。




