十五章《三節 サーダリス》1
不浄の路……。
静まった空気の中に、拭いきれない淀んだ臭いが漂っている。
もしも瘴禍が、何処からでも染み出してくるものであったなら、すぐにここを塒と定めたに違いない。
ロゼはすえた空気が肺臓に染まぬよう、細くした呼吸の中で奥を透かし見た。
光源のみの問題ではなく、暗い通路をたどる。誰しもが息を浅くし、口鼻を手で覆った。
だが、ざわめくことはない。
やがてたどり着いたのは、階段だった。段は上へと延び、天井へと行きついてしまっている。
そこへと近づき、シェンナが松明の持ち手たちを遠ざけた。
自身は角灯の窓を金属で覆い、灯りを絞ってサーダリスの横へと並ぶ。
彼女たちの後ろを追い、ロゼの目は自然とその先をたどった。
階段の先、天井に格子が見えている。
その向こうにあるのは、空間だ。どこかで火がたかれているのか、ぼんやりとした薄闇色が揺れていた。
サーダリスが、拳で小さく床を叩く。無音が占めた。
一息の間を置き、今度は三度床を叩く。
すぐに石壁を伝って、擦るような足音が響いた。
天井の格子から、男が見下ろしてくる。それが互いが手に持つ灯火で照らされた。
上の男が、喉を鳴らして唾を飲む。
「み、……峰々は」
さらしで顔の半分を覆った男は、顎を震わせるような乾いた声だった。
「白く輝く」
淀みなく、サーダリスが答える。今度は逆に彼女が、男へと問いを向けた。
「我らが海は」
「晴天、されど波高し……」
男が答え、サーダリスへ更に問う。
「我らが城は」
「堅固堅牢なり。まあ、……破られたんだがね」
サーダリスは言葉の最後を少し茶化したが、男の方は胸を細らせたような声を漏らした。
そして、飛びつくようにしてひざまずくと、格子の端で手を動かす。
金属の擦れ合う音がかすかに鳴り、やがて子気味よく軽快な音を響かせた。
錠前が外されたのだ。格子が跳ねるように開け放たれ、先ずシェンナが短槍を片手に階段を上る。
彼女は素早く周囲を見渡してから、下の通路の面々へと頷いて見せた。
続いてサーダリスが上がり、ロゼも一足飛びに上階に飛び出る。それから振り返り、シェンナと共に他の面々へと手を貸す。
その間にも、サーダリスが部屋を灯火で照らした。
手伝いをしながらロゼもまた空間を見渡せば、そこには片目を輝かせる先ほどの男の他にも、姿があった。
離れ離れの松明が照らす薄暗く淀んた場所に、いくつもの牢がひしめいている。
鉄格子の部屋が幾つも立ち並び、その中には男女がうごめいていた。
閉じ込められた人々の幾人かが、飛びつくように鉄格子に張り付く。少しでも、サーダリスに近こうとするように。
ああ、という声。溜息、感嘆の言葉にならない声。
それらに混ざる、何事が起きているのかと戸惑う声。
「まだ気づかれたくない、静かにお聞き」
言うサーダリスが、灯火を手にしぐるりと見渡した。
「――あたしの名前は、サーダリス・フレイ・メルズテュネ」
エーイーリィの女性将軍が名乗ると、口々に彼女の名が呟かれ、敬礼を取る者もいた。
「捕らわれし、同胞よ。白き峰々の子らよ」
呼びかけに、かすかな声で答える者達がいる。
事態に戸惑っていた者たちの中にも、気づいたように格子に飛びつく者が出てきた。
こうして反応を見せる彼らは、エーイーリィの兵だった者たちだろう。
戦いの果てに捕らえられ、捕虜となり、そのまま売られた者達。
不浄の通路の事を人伝にサーダリスへと伝えたのも、そういった者だった。
ここにいる者たちは、戦えるがために剣闘奴隷として買われたのだ。
今日の催しものの為に連れてこられた、見世物となるもの達。
「これから、お前達を解く。そして選べ」
我らと逝くか、それとも我らが通った通路を辿り外へと行くか、と。
それを好きに選べと、サーダリスが言った。
ロゼの目には、囲いの中に押し込められた人々の目に、灯火が移るのを見た。
狭く暗い閉じられた空間に、興奮した人が放つ汗のにおいが満ちる。
サーダリスに従い、誰も騒ぐ者はなかった。だが、地上の闘技場で催されているらしい闘争の響きが、地上と地中以上の距離ができたように感じられる。
その中で、
「俺ぁ、アディーシェの者だが、その話乗ってもいいのかい」
一人が声を出した。
他にも口々に地名が漏れた。クゼリュスに平定された、もうない国の名前もある。
それらが静かな名乗りを上げた。




