十五章《二節 始動》2
音が聞こえる。
ノージスには外で響く楽器の音が、枯れた草の音のように感じられた。
それは耳に付き、頭の中を響きまわるのだが、自身とは最も遠い所にあるざわめきでしかない。
事実、彼女にとってこの新年と建国の祝いの催しは、己の身とは関係のない出来事になっていた。
去年までは、軍人貴族アーベルトの手勢の一部として護衛に混ざることもあったが……それも今年はない。
彼女が身に着けているのは、ただの服だ。
軍衣もなく、鎧もなく、仕立てがいいだけの一繋ぎの女性服、寛袍と羽織りを着ている。
無論ノージスは、今までも暇が与えられたときであれば、このような恰好もしていた。
だが、今は意味が違う。今、彼女にとってこれが普通の服装だった。
つまり、騎士の任を解かれたのだ。
それは、彼女が敬愛するベイセルがシルヴァストル家当主になってすぐ、言い渡された。
なぜですか! と、ノージスの耳には、叫んだ己の声の余韻がまだ残っている。
何故、どうしてと問うた喉がまだ熱い気さえした。
だが、いくら縋ろうと、拒否は許されなかったのだ。
そして……今、中流貴族の養女になっている。
子宝に恵まれず、どうにか授かった子さえも、遠いアディーシェの地で失ったという夫妻はノージスのことを温かく受け入れたが、……それさえも彼女にとってはどうでもいいことだった。
窓掛を通り抜けた暗い陽だけが照らす、茅色の部屋の中央。
ノージスは、自身の衣装箱をそっと開けた。
彼女が自身のものと認める物は、一抱えあるその箱の中にしかない。
軍衣は既に取り上げられている。
そうであるからこそ、彼女は自身の持ち物の中から動きやすいものを選び身に着けた。
女性らしい衣は脱ぎ棄て、着替える。そして最後に、彼女は箱の奥から一番重要なものを取り出した。
自身が持つ中でも、最も美しい襟巻きに包んだそれをそっと手に取り、結び目を解く。
そこにあるのは、短槍の穂先。
騎士の任を解かれてなお、それでも手元に置かせてほしいと願い残した獲物だった。
荷物の底に隠しながらも、ずっと手入れを欠かさなかったそれは、はっきりとノージスの顔を映す。そこに映る双子の片割れを覗き込み、彼女は言った。
「ジナ、仇は討つからね」
アィーアツバスの王子が、クゼリュス王ヒースヴィオラの公務に連れられている。
そのことは、新しい養父が中流の身分であっても十分に聞くことができた。
体調を崩していたが回復したのだという、いかにもな説明と共に。
で、あるならば……、とノージスは思考する。
あの白い化物が、この王都の何処かに隠れていてもおかしくはない。
証拠はないが、彼女には確信があった。
タロト大橋での姿をノージスは忘れていない。
かの白い化物は、紛れもなく馬司の王子の狂った剣だった。
死をも厭わず、ベイセルへと噛み付く姿は、未だ脳裏に残っている。
剣の主が、再び敵国へと捕らえられた今、それを奪還戦とするのは当然だろう。
であれば、あの白い化物は、どこに現れるか、どこで凶行に及ぶか。
彼女は思考しつつ、この屋敷の倉庫で見つけた短槍の穂先を、自身の持つものへと替えて目釘を打った。
手早く、固く、固く襟巻きを縄として巻き付ける。
そしてノージスは立ち上がった。
もう、これ以上この暖かいだけの屋敷に居る意味などないのだ。
「ノージス様!?」
ノージスが与えられた自室を出ると、先ず投げられたのは悲鳴に似た声だった。
屋敷で働く女中が声を上げたのだ。
だが、構わず歩く。
ノージスが玄関へと歩く間に、屋敷の婦人が小走りに顔を覗かせた。
「待って、ノージス! 行かないで!!」
約三ヵ月程、母と言うことになっていた……しかし、未だに名前すらぼんやりとしか記憶していない女性。
彼女へとノージスは一度だけ、小さく頭を下げた。
後はあかぎれも知らぬ、細く柔い手が縋ってくるのを、ただ振り解き屋敷を出る。
❖
笛が甲高い音を響かせていた。小太鼓、太鼓が踊れとばかりに鳴り交わし、竪琴と提琴が歌い合う。
道化と踊り手が跳ねまわり、見世物の男が芸を披露する。
露台を潰さんばかりに商品が立ち並び、鮮やかな日よけ布の下で食べ物と果実の匂いが入り交じった。
冬だというのに曇りない空。行き交う人々は、今日の空のような顔を浮かべている。
ノージスは、影のように歩いた。自身だけ切り取られている心地で、周囲を見渡し、ただかつてなく賑わう街の中を進む。
向かうのは、王からの贈り物の会場だ。
王城の張り出した露台での挨拶を終えた王が、民たちへの贈り物として開催している見世物の場所。
――つまり、闘技場。
それこそが、ノージスが狂剣が現れると見出した場所だった。
いざとなれば砦として機能するよう造られた城とは違う。あくまで催し物のために作られた施設。
王族が観覧するとのことで警備は厚いが、貴賓席の守りは城の設備と比べれば、外に開けてしまった場所だった。
ここへ馬司の王子も連れて来られている。
だが……、当然ではあるがノージスには入る権利などない。
故に彼女は、裏口へと回った。
警備を迂回し、裏路地からそっと見やる。
とはいえそこには、催し物の演じ手らしい、奇抜な装いに顔を化粧で塗りたくった者達があふれていた。彼らを見張る兵の姿もある。
すり抜けて、闘技場の中に入ることなどできない。
想像通りの光景を前に、ノージスは更に足を動かす。
闘技場から一見、離れた方へ。屋台のある大通りからも離れ、閑散とした方へ。
ノージスの足に迷いはなかった。
なにせ、ベイセルに拾われ、生まれ故郷よりも長くを過ごした街のことだ。
部屋に籠りがちだったジナとは違い、彼女は少々やんちゃをしている。
闘技場には、あまり知られていないが地下を抜けるように通された、不浄の通路があるのだ。
催し物の際に出る死体や、獣の遺骸、あるいは塵、またそれらを搬出する者達が通る通路。
それは漆喰で白亜に仕立てた正門を通すのも、物の搬入に使われる裏門を通すのも相応しくないものの出入り口だ。
そこにも当然兵が配されているはずだが……ノージスはそれを見た。
あるべき者たちはなく無人。鉄格子は閉められていたが、触ればふらりと動き固定されていない。
あるべきでない事が起こっている――そう気づき、ノージスの手は自然と槍を握りしめた。
ここで異変を起こす者を、他に考えられない。
間違いない。
予感を胸に、鉄格子を押し開く。
そして彼女は、暗い通路へと足を踏み入れた……




