十五章《一節 胎動》2
ロゼが幼い頃を過ごしたあの集落では、植物から作った顔料をよく用いていたのだ。
糸を染め、布を織る。
或いは、手や額などに魔除けの祈りを込めた、模様を描く、といった具合に。
そのことを思い出せば、山に自生する植物を準備するのは、ロゼにとってさほどの手間ではなかった。
とは言え、洗うと髪色が落ちてしまうため、塗り直さなくてはならず、油と蝋を纏った髪がかき崩したいほど重く煩わしいのだが……
「よし、行っていいぞ」
兵が離れる。許可の声にシェンナが頭を下げ、牛車を進ませた。
車輪の歪と、石畳の凹凸が組み合い、重い重い音を立てながら荷車が鈍く動き始める。
次の荷馬車に取り掛かった兵たちは、振り返ってくることもなかった。
ややあってから、
「荷駄は無事だよ」
ロゼは髪を結い直し、いつもの外套を目深に被りシェンナへと声を掛けた。
何も、乾酪のことでは無い。この牛車の本当の荷物は、武器。
検問の兵が、本当に見つけるべきだったのは、それなのだ。
無論、兵士は木箱などの二重底を気にしていた。だが、本当に欺きの術が用いられたものに彼らは気づかなかった。
二重になっていたのは、この牛車の荷台そのものだ。
本来の荷台の上に柄を外した剣を敷き、その上にもう一枚床板を張った格好だ。
「ええ、よかった。……もう少しで揃いますね」
大きく頷きながらも、シェンナの語尾は少しだけ硬い声となっている。
ここ一ヶ月程で鎧や弓、矢弾などを持ち込み、少しずつ数を整えていた。
他にも準備を進めなくてはいけない。
全て、来たるべき刻までに――
サーダリスの部隊は、決死隊だ。
その目的は、クゼリュスの現王ヒースヴィオラを、民の目の前、諸外国の賓客の前、建国記念式の見物人全ての前で打ち倒すこと。
圧倒的な力を持つヒースヴィオラがいなくなれば、クゼリュスは必ず揺らぐ。そこがエーイーリィの残存勢力にとって、最大の反撃の糸目となる。
サーダリスのその後が、大業を成し凱旋する、英雄譚のようにならないのだとしても……
「でも、本当に瞳を見られなくてよかった」
シェンナが言い、大きく息を吐いてみせてくれた。
それに乗りロゼも、うん、と頷く。
「幌の影にはいたけれど、目だけは覗かれたら誤魔化しようが無いからね」
だから、兵の動揺を誘う事をしたし、煩わしいものの髪色も変えた。
動揺があれば人は誤りやすい。見るべきものを見ず、調べるべきを忘れる。直前ちょっとした小遣いに浮かれた気分であったら、尚の事だっただろう。
「あなたには心労をお掛けしてしまったね」
ロゼが言うと、シェンナが軽く息を漏らして笑った。
「本当に。この程度の運を掴めなくてなんとする、と言われた時には、どうしようかと」
彼女は言いつつ、片手で胸を押さえて見せた。
自分も街に入りたいと言い出したのは、ロゼだ。
クゼリュスの建国記念の日が迫りつつある今、早めに街に入り、その様子を感じておきたい、と。
一人で街に入ろうともしていた。
そうすれば万が一、正体が露呈したとしても、捕まるのはロゼ一人で済む。
その為の頃合いを、サーダリスに相談した結果が、これだった。
ロゼが捕縛されれば、当然乗っていた馬車も調べられる。丹念に調べを受ければ、床の二重底なども看破され、やがて計画へと行き着くはずだ。
にも関わらず、サーダリスは何とも剛毅な運試しに出た。
それの道連れにされたシェンナは、楚々と笑っている。
たおやかな印象のある彼女だが、命令は毅然と受け、実際の調べでもあの様子だ。サーダリスの副官に十分以上足る、なかなかの人物だと言わざるを得ない。
「さて」
穏やかな会話を楽しみ……やがて、宿屋という第二の拠点にたどり着く頃。
ロゼは、そう一言を発した。
シェンナが、はい、と応じる。彼女はロゼがもう了解しているだろうことを、重ねて言ってくることはなかった。
ただ短く言う。
「お気をつけて」
「何か面白い事に気付いたら知らせるよ」
少し街を見てくる、と。のんびりとした牛車の歩みの上から飛び降り――、一度御者台に追いつく。
「あなたは、一旦あっちに戻るのだっけ?」
ロゼの問いに、シェンナの返答は首肯だった。
「ええ、例の通路のことを打ち合わせたら、それをお伝えせねばなりませんので」
答えて、何かありますか? と、細い首が傾げられる。
ロゼは小さく笑った。そして、言う。
「なら、彼に大人しくしておくように、もう一度言っておいて」
例え髪色を弄ろうと、ゼオンの存在は露呈しやすい。
今クゼリュスは不完全とはいえ北方を平定し、アディーシェとは休戦状態にある。
過去一番盛大なものになるだろう建国記念があと一か月ほどに迫った今、前線にいた将兵が戻って来つつあるはずだ。
彼らは、きっとゼオンのことを忘れていない。
いい意味でも、悪い意味でも。
故に、剣聖の所在は昊天の峰のままだ。
ロゼは、そのまま隠れ潜んでいてくれれば、とも思う。
ゼオンの存在は、何よりも心強い。サーダリスでさえ、それとなく彼の意見を参考にしている。
しかし、それでも。だからこそ。
……もう、失いたくない。ロゼは胸の内にそう呟いた。
快く、はい、と頷きをくれるシェンナが、牛車を御していく。やがてその姿が路地へと消えた。
独りだ、と。ロゼは久しぶりにそう感じた。
より一層強まったクゼリュスの冬の気配からだけではなく、芯から凍りつきそうな心地が満ちる。
それでも、ロゼは振り仰いだ。小高い丘を利用して作られた街に貴族の邸宅と、城がある。
そのどこかに、彼がいるはずなのだ。
いつかツァーカで救ってもらったように、自分もできるだろうか……胸中につぶやき、すぐに自身で首を振る。
いや、――必ず救い出す。
彼に約束した通りに。
冷たい空気を吸い込み、ロゼは拳を握りしめた。




