十五章《一節 胎動》1
長雨の秋が終わってしばし……クゼリュスの冬は乾いている。
それは東の白き峰々、或いは西の昊天の峰の向こうに雪を落とした後の、乾燥した冷風が大地を撫でるからだ。
ゼオンが恩師から習ったのだという言葉を、ロゼは胸の中に反芻する。
事実、風になぶられていると、肌に痛みがあった。触れる物を細かく裂いていくような、湿り気のない風だ。
「御者を代ろうか?」
犛牛の引く牛車。
幌の中から顔を出し、ロゼはシェンナへと聞いた。
細身のその女性は今は軍装ではなく、毛氈の厚い上着に、長裙といった、標星の大国の村や町に住む女性らしい服に身を包んでいる。
ロゼも同じ有様だった。頭巾をかぶった旅装の平民の姿。
顔立ちが異なるがために、家族とは見えないだろうが、同じ里の者が買い出しか、何かの納品に来た程度の風体に見える格好だ。
「慣れております。お気になさらず。それに、もうすぐですから」
シェンナが首を緩やかに振る。
彼女の言う通り、行く先にはクゼリュスの首都アスデウスがあった。
そのそびえ立つ姿が目に入る。
漆喰で塗り固められた、それ自体が輝く囲郭。
いっそ美しくもあるが、惜しむらくは、その輝く壁の上に武骨な鋸壁がしつらえてあることだ。
石肌が露出したそれは、まるで華奢な装飾の椅子の上に、全身甲冑の騎士が座っているような、釈然としない風体となっている。
先王の御代に作られた囲郭の上に、首都防衛のために現王ヒースヴィオラが設置させたのだという。
養い親から聞いた知識をまたも思い返しつつ、ロゼは徐々に近づきつつある囲郭を眺めた。
そしてぼんやりと思う。
かの王は、瘴禍が登らぬ壁の上の方まで輝かせる趣味は、どうやらないらしい、と。
そんな囲郭の奥には、城が見えた。
アスデウスは小高い丘の傾斜を利用してできた街だ。
いつかのルキフの街と同じように、山手に行くほど上流階級の屋敷となっており、頂上には城がそびえている。とはいえ、ルキフとは比べ物にならないほど街が大きいため、そそり立つ城の外観はかすんだように見えていた。
近づいているはずだったが、あまり近づけているような感覚はない。
進んだ分だけ遠ざけられているようなロゼの気持ちをしり目に、犛牛は歩調を崩さない。
横を背負子を負った商隊が足早に通り、馬が引く車や荷車に追い抜かれた。
牛車は金属片の魔物避けが左右に立ち並ぶ、整備された街道をのんびりと進む。
やがて、たどり着いた首都アスデウスの門。
そこには、長い長い検疫と検問の列が出来上がっていた。
❖
「北西の村より参りました。宵の一番星亭への納品でございます」
列の整理をする兵へと向け、シェンナが先に名乗る。
「ああ、クゼリュスの者は奥の列だ」
朝にも関わらず、目の辺りをくぼませた兵が、さっさと行けとばかりに手を振った。
指図されるがまま、シェンナが近郊住民の列へと牛車を寄せて加わる。
そうして、
「兵士様、乾酪と乳酪の納品でございます」
ようやく順が巡って来ると先に検疫を受けていた人達と同じように、シェンナが用向きを伝えた。
そうして彼女が兵へと向けるのは、届け先と数量が書かれた木札だ。それを兵が受け取るのに合わせ、そっと手の中に包んだものを差し出す。
「人が多く、お疲れでございましょう」
せめてものお慰みになれば、と彼女が言う。
その様子を、ロゼは幌の中からそっと伺った。
シェンナの手から兵士がそれを受け取り……、手の上のものを木札に隠して確認するのが目に映る。
すると兵の目に、喜色が浮かんだ。彼の横を通り過ぎる若い兵も、その手元を覗き同じような色を浮かべる。
様子を見て取り、ロゼは幌の中へと引っ込んだ。そうして、狭い荷台で姿勢を変える。
待つまでもなく牛車へと乗り込んで来るのは、先ほどの若い兵だ。
彼が検分役なのだろう。
荷台の床が彼の体重で、耳障りに軋む。
「こんにちは」
足元へ視線を落とす兵へ、ロゼは囁くように声を掛けた。
それで若い兵が、ようやく存在に気づいたらしい。幌の中にいるロゼへ、おっと声を上げた。
とはいえ、挨拶ができるような間などない。
咳払いをした外の兵が、すぐに木札を読み上げ始めたからだ。
「山羊の乾酪はこっちだよ」
背の低い幌の中で動き辛そうにする兵士に、ロゼは細い声を作り、小さな声で言ってやる。
そして、一つの木箱の蓋を開けてみせた。
幌に阻まれ鈍った薄日陰の中で、兵が箱を覗き込む。
彼はそのまま底の方まで凝視して、箱の中に手にした棒を突き込んだ。
そうしてから取り出し、今度はその棒を木箱の外に当てる。つまり、上げ底ではないかを測っているらしかった。
そして、その検分役が、外に向かっていいぞと声を出す。
次に読み上げられる品物を聞き、ロゼはまた淀みなく別の木箱の中身を見せた。
木札にはもう少し多くの品が書かれているはずだが、適当に読み飛ばされていく。監督役に手抜きを見咎められない程度に、適度に。
程なくして……、
「よし、終いだ。おい、ベイセル様のお達しを忘れるなよ。若い白髪の件だ」
外の兵士の言葉に、ロゼは思わず小さな息を吸った。
やはり生きていたのだ、と声に出さず呟く。タロトの大橋から、あの黒妖犬は逃げおおせたのだと感じると同時、胸の芯に冷たいものを覚えた。
そして優れているとはいえ、一介の騎士に過ぎなかったはずのベイセルの影響力を疑問に思う。
一方で、おうよ、と荷台の兵士が答えた。
そして――返答が早いか、
「ひゃっ」
頭巾を急に引っ張り外され、ロゼはいつもより、僅かに高い声で悲鳴を上げてみせた。
頭巾を下ろされ、中にまとめていた髪が流れ落ちる。
「お前――」
兵士がわずかな声を漏らす最中、ロゼは俯いて顔を隠した。
縮こまるようにしながら……だが、内心では平坦に、冷静に、後ろの気配を探る。
「――女の子だったか、すまん」
確かにどっちかなとは思ったんだと、謝りつつ兵士が笑う。
急に顔を露わにさせられて、恥ずかしがっているとでも解釈したらしい。
「虱と蚤だけは確認させておくれよ、そのままで構わんから」
そう言って、兵士がロゼの耳の後ろの辺りを見る。
そうして男の指が掻きやるロゼの髪は、白ではない。
昊天の峰に自生する、縹蓼の藍色の染料と、蜜蝋、植物油などを混ぜ合わせた毛染膏を塗った、青黒い色だった。




