十四章《四節 王ヒースヴィオラ》2
ヒースヴィオラが動く。
その姿に従者が慌てて従おうとし、アーベルトが腰を浮かせた。
王はそれらを一瞥だけで制する。この自身の領土において、何一つ恐れる物などないとばかりに。
真直ぐに、そして無造作に歩み――やがて、それはオルグレンの前で止まった。
そうして、重い鉄の声が言う。
「兄は昊天の峰の毒に倒れ、王は病を得て衰えつつある。弟もたしか軟弱な者であったな」
オルグレンは僅かに歯を食い締めながらも、クゼリュスの王を見た。
背はオルグレンの方が高い。しかし、ヒースヴィオラの体躯は、彼の目に決して小さくは映らなかった。寧ろ実際の身の丈よりも大きく、厚く感じられる。
その目に見えぬ空気の厚さに、足が下がりそうになる。それをオルグレンは意思の力で留めた。
顎を引き奥歯を噛み締める。それでいて、身構え過ぎた震えを抑え、ただ真っすぐに受けて立つ意思を向けて耐えた。
「お前の身一つで無用な争いは避けられるのだ、……それもまた嫡子の務めであろう」
悪い話ではなかろう、と王が言う。
聞きながら、もしも、と思う。念じるだけで人が殺められるのであればと、オルグレンの胸には冷たい刃が生まれた。
何せ敵が目の前に居るのだ。
だが、できない。剣を持っていたとしても。今この場には、黒い騎士と赤い軍人貴族が控えているのだ。
アーベルトはともかくとして、ベイセルの強さはオルグレンもよく知っていた。
警戒を注いでくる従者の姿もある。そして、部屋の外にもまた、過不足なく兵が配置されていることだろうと知れた。
その中で……
「――長く続くと思われぬことだ」
オルグレンは身の内に感情を沈め、言った。
途端、ヒースヴィオラの目が細くなる。
アィーアツバスの王が病み衰えているのであれば、オルグレンを人質とした和平など、そう長くは維持できない。
王が滅びれば必ず次なる者が現れる。
その者に対しては、オルグレンを交渉の材料にはできはしないのだ。
「王家の首が挿げ替わるか。王子自らがそれを口にするとは」
野太い声に僅かな笑いが混ざった。蓄えた髭の奥でヒースヴィオラが嗤う。
「……そうであったとしても、余には好都合」
内に混乱が生じるのであれば、クゼリュスは必ずその混乱を使ってみせよう。
我らは、決して逃しはせぬと、ヒースヴィオラが髭を扱く。
その言葉の通り、今馬司の国の主に何かあれば……アィーアツバス国内の混乱は、避けられない。
であれば、外力に脆くなる。
オルグレンは胸に硬いものを飲み込んだ心地を得た。
現に、エーイーリィが破られたのも、内なる綻びを利用された点にあったのだ。
前王の逝去に伴ってできた結束の歪みを、うまく使われたという。そう逃亡の最中に、耳にしたことを思い出す。
これによってエーイーリィを守ってきた籠城作戦、それの要である焦土作戦が徹底されず……結果、クゼリュスの進軍に使われる形となっていったのだ。
「……自国を護るためであれば、手段は選ばぬ、と?」
オルグレンがそう呻くと、ヒースヴィオラが髭を揺らす。
「我らの鉄鉱を泥混じりと呼びながら、貪った国の一つがよく言ったものだ」
硬質な部屋の中に満ちるのは、暗い笑声。
「そなたの立場が余……或いは我が国の王子であったとすれば、同じことをするであろうよ」
言うクゼリュス王を目の前にしつつ、オルグレンは体中が不快を訴えてくるのを感じた。肌に重みを感じ、喉が渇く。
構わず、ヒースヴィオラの言葉が続く。
「我ら王家は連綿と、民を餓えさせぬことだけを考えてきたのだ」
その言葉には、ただただ深い響きだけがあった。
「この地を故郷と呼び、愛する者たちを護り、慈しみ、富ませることを考えて、何が悪いか」
ヒースヴィオラの代となって、クゼリュスは白き峰々より西の大地を統べるようになった。
そして、標星の大国を名乗るようになったのだ。
多く抱えた者たちを、この王家は直向きなまでに護りつなげている。
優れた王、王家であることには間違いがない。
だが、と。オルグレンはひたりと、クゼリュス王の瞳を見返した。
自身よりも遥かに長く、遥かに多くの歴史を抱えた王と、真っ直ぐに視線を交わらせる。
逸らしはしない。
クゼリュス王の言い分を一つの正理だと、オルグレンも感じる。
しかし、彼らの有り様を、認められはしない。
かつて過ごしたはずの故郷の風景を今はまだ、はっきりとは思い出せない。そうでありながらも、オルグレンにもわかることがある。
馬だ。
この標星の大国の地には、あまりにもオルグレンの胸に、懐かしさを掻き立てる馬が多い。立ち居振る舞いから、はっきりと祖国の匂いを感じられる同胞が。
いかに馬司の国とて、軍馬に適した馬が無尽蔵に生まれるわけではない。
にもかかわらずの有様は、オルグレンの存在を盾とした供出を感じさせた。
クゼリュス王の言い分を認めることは、これを容認することとなる。
やはり、認められはしない。
これ以上、奪わせはしない。
オルグレンは強く思う。
アィーアツバスを、西の草原に生きる遊牧の民たちの、自由を、文化を、クゼリュスという国の血肉にさせてはならないのだ。
どうか、お救い下さい……。荒波に紛れた友の声が、オルグレンの耳奥に蘇ってきた。
その声に、帰らねばならないと、そう胸に刻み込む。
クゼリュスが、木材資源と海運に優れた、白き峰々の国エーイーリィを落としながらも、完全には屈伏させきれていない今。
豊穣なる実り大き土地を持つ滔々たる大河の国と、諍い続けている今。
ここが好機なのだ。
これを逃せば、世の有り様は一つ一つ、白き峰々の国から崩れていくに違いない。
ふと静かにクゼリュス王の従者が、主の傍らへと寄った。言葉を交わしたわけではなかったが、意図を汲み取ったらしい王が従者へと、小さく頷いて返す。
「草の民の王子よ。勉学のためだ、公務でそなたを連れ歩いてやろう」
決して親切心などからではない言葉を、ヒースヴィオラが言う。
そして、その護衛をアーベルトに任せると、王は指示を下した。
拝命を復唱する軍人貴族の言葉を聞き終わってから、もう一度低い声が発せられる。
「新年の、我らが建国記念の式でも臨席を許そう。アィーアツバスの者も招いてやる」
王はそう発し、踵を返した。
オルグレンは細く息を吸い込んだ。
そして、思う。そこだ、と。
人が多く動き、そして自身がもっとも外へと身を晒していられるであろう催し。
それが、新年に執り行われる。ロゼが動くのであれば、恐らくその日に違いない。




