十四章《四節 王ヒースヴィオラ》1
また、雨が降っている。
雫が外壁を叩く些細な音と冷たさが、その部屋を満たしているのをオルグレンは感じた。
クゼリュスの首都アスデウス。王の屋敷にある、応接室。
室内には磨き上げられた調度が立ち並んでいた。
それらすべて、彫刻による装飾が施され、布地や織物には刺繍、或いは鮮やかな色染めがなされている。
それらで華やかさを醸そうとしているらしい。
だが、戦場で振るわれた剣に華奢な装飾を与えたような、組み合っていない重たさのみがある。
薄曇りであるために既に四方の燭台にも、天井の集合輝灯にも、火が灯されていたが雨雲に似た暗い重さが垂れ込めていた。
部屋の中央にある卓を囲んで置かれた椅子と長椅子には、複数の光源からなる複雑な影が落ちている。
今しがた潜らされた扉が、陰鬱に軋んで閉じた。
それをオルグレンが背後に感じる間に、先に入室していた一人が息を吐く。
そうしたのは、長椅子の背もたれに、深く体を預けている人。
赤い髪に白髪が混じった男――アーベルト・ルガト・エルベリア。
細やかな刺繍の入った服に身を包むその人は、オルグレンが部屋に通されるや、切れ長の目でそれを確認し――すぐに別の方、もう一人の人物へと目を向けた。
水滴の打ち付ける硝子の窓の前にいるのは、黒い男だ。
その男が振り向き、オルグレンは短く息を吸う。
ベイセル・ライア・シルヴァストル――彼は先のない肘を、もう片方の手で掴むようにし、腕を組んでいた。
タロト大橋で見た鎧姿ではなく、黒地の美しい上着を纏った姿。だが、その居住まいは、武装をしている時と何ら変わりはない。
黒い騎士が、石造りの床に足音を響かせる。
そうしてオルグレンへと詰め寄り、ベイセルが足を止めたのは丁度剣の間合い。
「狂剣はどこだ」
ベイセルが言う。低く呟くようでありながら、それでいて鋭い声だった。
黒い視線は、鋼そのものであるかのように砥がれている。
それを聞き、オルグレンは察した。
この男の意識は、もはや自身にはない。別の事に移っている、と。
「……」
オルグレンは沈黙を選ぶ。欺きの言葉を紡ごうと、この黒妖犬は嗅ぎ分けるに違いない。
なによりも答える意味などない。
なぜならば……
「……お前は餌だ」
視線を外さぬまま、ベイセルが紡ぐ。
「呼び寄せろ。そして、お前はただ意味もなく、老いさらばえてゆけ」
それだけを言い、黒い騎士は赤髪の軍人貴族へと向き直り、硬質な足音をその方へと向けた。
「――アーベルト殿」
ベイセルの言葉に、アーベルトが歯をかみ合わせるように顎を動かす。
「ああ、わかって――」
ややあっての、アーベルトの重い返答。
――しかし、それは扉を叩く音に遮られた。
オルグレンが通されたのとは違う、奥側の扉だ。
音を聞くや、アーベルトが長椅子から立ち上がり横へと出る。
そして赤と黒の男達が膝を折り、頭を垂れた。
双方、指先をそろえた両手の手のひらを外に向けたまま、その先だけを合わせ、垂れた頭の位置へと上げる。
それを待っていたかのように、扉が開いた。
従者と思しき者が先ず室内へと姿を現す。その彼は扉の脇に視線を走らせてから、開いた扉の裏までを確認し、来たるべき人を招いた。
深い足音が鳴る。
オルグレンの背と腕に、緊張の痺れが奔った。
無意識に片膝を落としたくなる。それを、胸に息を貯めて耐えた。
姿を現したのは深く陰のある、紫の衣に身を包んだ男だ。元は黒髪であった名残のある白髪と、髭を蓄えた、老齢の人。
ただし、背は真直ぐと伸び胸が張られている。自身が鉄であるとでも名乗らんばかりの風格があり、槌のような凄みは衰えをまるで感じさせず、揺るがぬ足取りに押されるかのような圧力が重い。
クゼリュス国王――ヒースヴィオラ・ヨグトゥス・クセルジェルク。
入室の時から氷のような眼を、オルグレンから逸らすことなく向けてくる。
そのまま王は応接室へと入り、やがて立ち止まった。
額の頭冠が集合輝灯に鈍く輝く。
「儀に及ばず、……顔を上げよ」
命じる。
その言葉で、黒い騎士と赤髪の軍人貴族が手を降ろし、顔を上げた。
そして、
「よくやった。アーベルトよ」
オルグレンにひたりと目を向けたまま、標星の大国の王たる人は言う。
「もったいないお言葉にございます」
「褒美を取らせよう。何なりと申せ」
王の心遣いを前に、アーベルトがちらりとベイセルの方を見た。
その視線を受けつつも、ベイセルは何ら動きを見せない。王権者へと目を向けたまま沈黙している。
オルグレンの視界の端には、その乾いた横顔が映った。
黒い騎士は、必要のままに振舞ってはいるものの、その作法に心を乗せているようには感じられなかった。
王もまた、片腕の男を視界に入れるそぶりは、見られない。
「……、恐れながら」
アーベルトが言う。
「このオルグレン・サイラス・レヴァニールの身柄は、我らに預からせていただきたく」
それを聞き、王ヒースヴィオラが、アーベルトへ目だけを向ける。
「やつとは違うのであろうな」
短い、端的な問いだった。
「私は西の者でございます。東への伝手などございません」
王とアーベルト、二人の話を聞き、オルグレンは胸に冷たさが沸くのを感じた。
それと共に、思い出す。耳を凍らせる、冷たい風を。
一年足らずほど前――オルグレンは、この地から逃げ出している。
軟禁先であった壮年の軍人貴族を説得し……、彼に国外へ脱出する手はずを整えてもらったのだ。
そして彼の伝手を頼り、エーイーリィへと逃げ延びて行くこととなった。
彼らはそのことを言っている。
かの壮年の軍人貴族はどうなったか。オルグレンの心に緋色の水滴が落ちた。ただの罰だけでは済んでいないことは、明らかだろう。
すまない……、そう考えつつも表情を保つ。
そうしながらも、頭の芯にはしびれたような感覚を覚えていた。
次々と波濤の向こうに消えたはずのものが、脳裏に浮かんでくるのを感じる。
脱出した夜の夜気の冷たさ。刺すような、空気の匂い。
手配してもらった馬で駆けた、クゼリュスの凍てついた荒涼の大地。伝手――エーイーリィの軍人サーダリスと、彼女の配下の手を借り、港へとたどり着いたこと。
それらの旅路には、友が居た。
その面影が蘇り、オルグレンはただ表情を崩さぬままに、手を強く握りしめ耐えた。
胸中では思う。
なぜ、自身は今まで彼のことを忘れ、平気で生きてきたのだろうか。
幼馴染であり、片腕であり――親友。そんな彼のことを、なぜ今まで思い出してやれずにいたのだろうか、と……
一方で、
「――ならば、そなたに任せよう」
「幸甚に存じます。私、アーベルト・ルガト・エルベリアが、確かにお預かりいたします」
拝命いたしますと、アーベルトが深く頭を下げる。
それを見届けることなく、ヒースヴィオラの視線が再び動いた。
「徒労であったな、草の民の王子よ」
それは、揶揄するような言葉であった。そうでありながら、王の目にも声にも嘲りの色の気配はない。




