第65話 ヴァルカディアンの駒
ヴァルカディアンの軍議室で皇帝から届けられた一枚の命令書が広げられていた。
『帝国防衛のため、貴領軍の一部を北方へ再配置せよ』
内容自体はわかる。
ドラッケン軍が没収された以上、北方には軍侯貴族がいないことになる。そこに軍を配置することは理にかなっている。
だがヴァルカディアンには条約がある。この命令に応じて軍を出せばその軍は簡単には戻せない。
「……なるほど」
アルドレウスの声に感情はない。ただ静かにつぶやきがもれた。
視線が机に広げられている地図をなぞる。
緩衝地帯、北方の国境線。そしてその先——
「再配置、か……」
命令書を手に取り、ひらひらと遊ばせて机に落として戻す。
「戻せんな」
周りにいる指揮官たちは何も言わない。
「軍を分けろ」
「どのような規模で……」
「『大規模』と捉えられない範囲で」
被せるように命令を出す。
だがまさか、皇帝から命令として出してくれるとはな。好都合だ。
顔に冷たい笑みが浮かぶ。
「道は一つにするな」
地図の上を指でなぞっていく。
「複数のルートで、時間をずらして出せ」
帝都の近くを、国境の近くを、指でなぞっていく。
「常に集まっていない状態を維持しろ」
「北方に集めるのではなく?」
「流す」
「……流す?」
指は変わらず地図をなぞる。
「通すだけだ」
アルドレウスの指が地図の一点を叩くと指揮官たちの視線がその一点に集まる。
そこは北方路の外縁。森に接する細い国境線。
「留めず、集めず、ただ通せ」
「……どこへ?」
「必要な場所へ」
すっと指が動く。
北方の国境線の先。
あの夜。影が処分された時に居合わせた指揮官が息を呑んだ。
「しかし、補給がもちません」
「もたせる必要はない」
各領地をなぞる。
「集まるわけではなく通過する、それだけだ」
命令書を地図の上に置く。
「こちらは命令を守るだけだ。それに必要なことには協力させる」
皇帝命令に従った軍の移動。補給を同行させれば大規模な軍事行動と見なされる。ゆえに現地補給とする。大規模にしないことは条約を守ることになる。
「各領で数日ごとに補給だけを受け、次の小隊へ役目を引き継ぐ」
条約と皇帝からの命令。この移動は誰も止める理由がない。通過する領は協力せざるを得ない。
「再配置、分割、集結しない。すべて書かれている通りだ」
小隊を何度も巡回させる。
「……いつか接触する危険があります」
「それは向こうの問題だ」
エルヴァリエルは閉鎖的な国だ。ドゥルガルド王国とドラグナール帝国との条約のことなど知る由もない。そこに軍が近づいてきたら、どう反応するか――
「行け」
次の日から準備できた小隊が時間をずらし、道をずらし、ぱらぱらと出発していく。
その様は通過する他領にも異様な緊張感を運んでいた。
カルヴァス邸の執務室ではサルクが苛立ちを抑えることができずにいた。
処分の連絡が届いてから、サルクの周りには誰も近づきたがらなかった。いつもなら様々な報告を持ってくる軍の関係者も、皇帝の命令下に入ったことを理由に一切姿を見せなかった。
そんな誰もいないはずの部屋に、するりと気配が入り込んでくる。
「警戒は不要です、閣下」
顔を上げたサルクの前には見知らぬ男が立っていた。
「……侵入者がよく言う」
男は一礼するだけだった。
「本日は取引の提案に参りました」
「帰れ。今の私に売れるものはない」
「補給網なら、いかがです?」
その一言で空気が止まる。
それはサルクが最も誇っていたものだった。だが失った。ないものをどう取引にのせようというのか。
思わず眉が寄る。
「資金も人も用意できます。規模は……失われた分を補う程度には」
サルクの目が細くなる。
つまり補給の運搬だけ担えということか。
「……見返りは何だ」
男は少しだけ間を置いた。
「必要な時に、必要な場所へ物資を流していただくだけで結構」
「敵味方の区別は?」
「正当に扱われるべき側へ」
わずかに皮肉が混じった返答にサルクは鼻で笑う。
「曖昧だな」
「ですが、閣下なら見誤らない」
部屋に沈黙が満ちる。
短いがサルクが思考を走らせるには十分な時間。
やがてサルクが重く口を開く。
「……私の判断は正しいと思うか」
「はい」
「ならば……その正しさを証明する機会は、買ってやる」
のせられている、ということはわかる。だが、サルクは誰かに認められたかった。そして培ってきた経験を活かす場所をただ欲していた。
バルドリックは領地没収後の住居へ早々に引っ越しをしていた。
それというのも、元の邸にいると入れ代わり立ち代わり元部下たちがやってきて世間話という名の説得をしてくる。
「お前ら……なんでここにくる……」
「待機中なんでやることないんですよ」
「訓練でもしてろ」
「もう一通りやりましたよ」
「……もう一周やればいいだろ……」
そういうちょっとした命令っぽい言葉を引き出しては喜んで戻っていく。
だから俺はもうお前らの大将じゃないって言ってるだろ。元部下たちの愛が重い。
おかしいといえば妻もだ。
軍侯貴族ではなくなるから政略的な理由もなくなるだろうと離縁を進めたら、襲われた……
「待て……離縁が決まってる男にそんな執着してもいいことないだろ」
「どうせ実家に戻ったら金のためにどこぞの後妻に売られるだけですわ。それなら育てるのはバルドリック様の子供がいい」
は? そんなセリフ初めて聞いたぞ、おい。
「……ってこら、距離が近い! 離れろ!」
「妻が夫に甘えて何かおかしなことがあるとでも?」
いや、だから、その関係はもうすぐなくなるわけでだな。
密着するな!
◇◇◇
部下のはまだわかる。そうなるようにふるまってきた覚えはある。
だが、妻のは本当にわけがわからん。今まで距離を保っていた妻がなんでああなった? 政略結婚で冷めた関係だっただろう?
そんなここ数日の状況を思い出しては、深いため息をつく。やっと一人になれたと思っていたら気配が部屋の中に入ってくる。
「……今度はなんだ?」
「戦う場所のご提案に……」
「帰れ」
まったく……どいつもこいつも……しかし、この独特な影の気配は覚えがある。
「お前、ヴァルカディアンだろ?」
あれの下につくつもりはない。
「だいたいドゥルガルドの山で騎士殺したの、お前らだろ?」
逆恨みじゃないが、騎士が殺されていたことで中に入る手段が絶たれて手詰まりとなった。おそらくヴァルカディアンの企みも失敗したのだろう。何が目的だったかは知らないがな。
「……我らの新しい盟主になっていただきたく……」
……は?
「……断る」
一体なんだ? こいつらまで誑し込んだ覚えはないぞ。
だいたい処分された将が陰でだろうと動いていたら叛意ありとしか捉えられないだろう。
自分が選んだ行動の先で死ぬのは構わないが、そうなったら暴れ出す奴らがいるから今は勘弁してくれ。




