第60話 条約ができるまで3
三日目に入ると議論は一進一退を繰り返すばかりで一向に終わる気配がなかった。
議論は静かに交わされているものの、どこか焦れた空気も流れ始めている。
日も暮れようという頃、ハイゼン宰相がため息を交えつつ言葉を放った。
「話が進みませんね。結局のところ、貴方方は何も決められないのではないですか?」
「何を根拠にそのようなことを?」
「簡単な話です。貴方方は『帝国』でしょう」
両者の視線が静かにぶつかる。
「皇帝の元に統制はなされている。だが、実際には一枚岩ではない」
補佐官たちに動揺が走り、身じろぎで生じた音がさざ波のように寄せる。
ルミディア伯は深く眉を寄せ、不快を露わにしている。
「……続けよ」
「では、はっきりと申し上げましょう。ヴァルカディアンは貴方方の指揮下にはありません。その軍も貴方方の意思では動きません」
場の空気が凍る。
ここまでの議論は進まないまでも相手を攻撃するものは何もなかった。ここで流れが変わった?
「それでいて『帝国としての合意』を語る。話になりません」
空気が一気に悪くなる。聞いているだけで息苦しい。これは一体、何が始まったのだろう?
「貴方方がここで何を約そうと、別の領がそれを破ればこの約束は何の意味もないものとなる」
この会談が、条文が、全てないものとなる?
それならなぜ、こんなに時間をかけて話し合いをしているのだろう?
「つまり、貴方方の言葉には、一切保証がない。違いますか?」
短く区切り、はっきりと言い聞かせるように発せられた言葉が場に長い沈黙を落とす。
誰も何も発しようとしない。身じろぎもしない。
ただ誰もがルミディア伯の反応を待っていた。
「……確かに、帝国は一枚岩ではない」
とても重く言葉を発し、内容を認める。
「だが……だからこそ制御されている」
制御? 一枚岩ではないことが?
「……それはどういう意味でしょう?」
「逸脱した者は切られる。それは確実に決められている」
ルミディア伯は一度言葉と視線を切る。そして再び正面から見据えて言葉を続ける。
「我が方が保証するのは『統一』ではない。逸脱を許さぬという事実だ」
場の空気が少しだけ和らぐ。
……逸脱を許さないというのなら、なぜ今回の戦争は起きた?
文字を記す手が完全に止まる。
書けない。
残すか残さないか決めるのは自分じゃない。でも……
「それは単なる事後処理です。戦いが起きた後の話に過ぎません」
一刀両断に切り捨てたハイゼン宰相の言葉に再び場が凍りつく。
「我らが求めているのは『戦いが起きない保証』です」
両者の視線がぶつかり合ったまま沈黙が続く。
……これは……まだ続けられるのか?
他の書記官たちは書き続けている。
書かなければ……
だけど……
昨日まで書いた条文の束を見る。
これが全て、何も決まっていない?
「……本日はここまでとしよう」
ルミディア伯のその言葉に意識が戻される。終わりの言葉が出たのに誰もすぐには立たない。立とうともしない。
上級の書記官がルミディア伯の言葉をなぞるように言葉を発する。
「……本日は、ここまでと致します」
再び訪れた静寂の中で椅子がわずかに軋む音が響く。だが誰も口を開かない。
ピリピリと痛いほどの空気の中、先に動いたのはドゥルガルド側だった。席を立ち礼はするものの、誰とも目は合わせない。
歩き出す前にハイゼン宰相の低い声が響いた。
「明日も同じ話を繰り返すつもりはありません」
ルミディア伯は何も答えず、ただわずかに頷くだけで返した。
こうして三日目の会談はひりついた空気のまま終わることとなった。
根底から信用が崩れた。そんな中で交渉ってできるものなのだろうか? 明日から一体どうなるのだろうか?
今日の重いやり取りがぐるぐると回る。
『考えすぎるな』
わかっている。
自分が考えたところで何も変わらない。
だけど頭から思考を追い出すことは、できそうになかった。
最低限の明かりが灯された長い廊下を足音を殺して歩く。
歩く先には扉が開け放たれ、中の明かりが廊下を照らしている部屋が見える。カエリウスは明かりの中に立ち、部屋の中にドゥルガルドの宰相が座っているのを確認すると軽く扉をノックした。
レオナルトはゆっくりとカエリウスの方に振り向き、穏やかな声をかける。
「お越しいただけると思っておりました」
カエリウスは軽く一礼をしてレオナルトの方へ歩み寄る。
「呼ばれた覚えはないがな。だが、来る必要はあった」
レオナルトはわずかに頷きを返しながら目の前のソファーを手で勧める。
カエリウスが座ったのを確認して早速話を始める。
「本日の議論はいささか遠回りが過ぎました。本題に入ってもよろしいでしょうか」
「構わん。どうせ同じところで詰まる」
「ヴァルカディアンの軍についてです」
カエリウスの眉が寄る。
「そこは動かせん。あれはうちの指揮系統じゃない」
「承知しております」
レオナルトはあえて笑みを顔に浮かべて言葉を重ねていく。
「ですので、削れとは申しません」
「……ほう?」
カエリウスは視線を動かして先を促す。
「必要なのは結果です、脅威とならぬ状態であれば、それでよい」
「言うのは簡単だな」
「簡単にいたしましょう」
互いに黙考する。
直接削らずにヴァルカディアンを弱体化、もしくは軍をすぐに動かせる状態でなくすにはどのような手があるか。
「……緩衝地帯を空にする」
カエリウスが思いついたことをぽつりと口にする。レオナルトは言葉の意味を考えつつ内容を促す。
「空、とは?」
「駐留なし、拠点なし、補給も通さない。前に出る足場を全部潰す」
「……加えて?」
「一定距離内に大軍は置かせない」
レオナルトは頭の中で整理と想定を繰り返す。そして問題点を詰めていく。
「監視は」
「そっちに持たせる。監視を拒めば、『再び攻めるつもり』だと我らが認めることになる」
間を置かずに返された答えにレオナルトは軽く頷きを入れる。
「十分機能するでしょう」
どのような運用にするのかはまた別途決めなければいけないが、運用次第では抑えとして十分有効であろう。
「その条件であれば、再戦の懸念は大きく低減されます」
レオナルトはカエリウスの目をまっすぐと捉え問う。
「対価をお聞かせ願えますか」
カエリウスは軽く目を伏せ思考を走らせる。
「賠償は軽く。それと……」
視線を上げレオナルトと視線をぶつける。
「『謝罪』の文言はどこにも使わない」
「問題ありません」
一般的にはそんなことかと思うかもしれない。だが力を示すことで周りを取り込んできた帝国には大事なことだった。
「実質が伴えば言葉は飾りです」
落としどころが決まって自然と空気が緩む。
「責任の所在については」
「すでに処分は皇帝決定が下されている。ドラッケンとカルヴァスは切る」
「それで十分でしょう」
沈黙が場を支配する。
詰め残しがないか。互いに話し合った内容を反芻していく。
「……表では、もう少しやり合う」
「もちろんです」
レオナルトの笑みが深くなる。
「あまり早くまとまると安く見られますので」
時間にして一時間も経っていない。だが、互いに納得のいく形にまとまり、どちらからともなく部屋を後にした。




