第59話 条約ができるまで2
ハイゼン宰相が淡々と議題を示していく。
「ではまず捕虜の取り扱いから始めましょうか」
ルミディア伯にも異存はないようで頷きが返ってくる。
「捕虜の大半は負傷兵と聞いています」
ハイゼン宰相が手元の紙を見つつ捕虜の現状を連ねる。
「重傷の者が多かったため、命をつなぐために軽度の治療は施してあります」
「治療費を支払った上で引き取りは可能です」
「輸送手段はこちらで用意しましょう」
「助かります」
「では、次の議題です」
え? 終わり?
捕虜は交渉材料になるものだと思っていたのだが、違う?
交渉ってこんな簡単に終わるものなのか?
疑問は尽きないがやりとりは漏らさずに羊皮紙に書き連ねていく。
本当にこれで決まってしまうのか? と若干不安に思いながら……
「緩衝地帯については現状維持、でよろしいでしょうか?」
「異論はありません」
この議題もあっさりと終わりそうだな。普段の国内の会議の方がよほどやり取りが陰湿で全く進まない。これくらいあっさりと決まればいいのに。
「警備については従来通り民間名義での配置を継続となりますが、認識に間違いはございませんか?」
ん? 民間……?
あれって国が手配した兵ではないのか?
「形式上は、そうですね」
形式上……?
「今までもそれで問題は起きていないはずです」
「では現状維持ということで、次に進めましょうか」
次の確認事項へ移っていく。
国境を含めた緩衝地帯での物資の通行、商人の営業、宿泊施設の利用についても確認が行われたが、いずれも現状維持で合意。
目立った意見の対立はなく初日は静かに終了した。
国同士の交渉というものはこんな簡単に終わるものなのだろうか?
話し合いをしている両者はもちろん、補佐や他の書記官も特に疑問に感じていないようだ。
こういうもの、なんだな。
『考えすぎるな』
上官の言葉が頭をよぎる。うん、考えてはいない。だけどどこか引っかかる。
何も進んでないような気がするけれど問題は起きていない。
これが交渉の序章に過ぎないことにはまだ気がつかない。
朝この部屋に入ったときは昨日と同じく全てが順調に流れていく。そう思っていた。だから初日の緊張は何だったのかと自分でもびっくりするくらいに自然体で席につけた。
だけど二日目は違った。朝から続く会談の空気は重い。だけど静かに言葉の応酬が続く。
休憩は挟んでいるが短い時間だけだ。ずっと続けられている議論は書記官たちの前に同じ条文の書き直しが何枚も何枚も積み上げられていく。
例えば『停戦』の表現一つでも一度では決まらない。
「『戦闘を停止する』では不十分です。『一切の武力行使を行わない』とすべきでしょう」
「それでは期間の定義が曖昧です。恒久か、一時かで意味が変わってしまう」
一つのことに揉め始めればすぐに別の場所にも指摘が入る。たった一行。それが決まらない。
どちらも同じ意味のように感じるのだが、どう違うのだろうか?
「では『本条約発効以降』を付け加えましょう」
「発効の定義が先でしょう」
なぜその流れになるのか理解ができない。
とりあえずそのまま羊皮紙に文字を落としていく。もうこの一行を何度書き直しただろうか。
考えたくもない。
やっと決まったかと思えばまた別のことで進みが止まる。
「現場の誤認による小競り合いは起こり得ます。それを違反と断じるのは現実的ではありません」
「その余地を残せば、意図的な挑発も誤認と主張されます」
「では『直ちに停戦に復帰する義務を負う』と追記しておくのはいかがか?」
「直ちにとは、どの程度の時間を指しますか? 曖昧すぎます」
どちらの言い分も正しい気がするけどいつまでたっても決まらない。
そしてそこに含まれていた『停戦』は先ほどの議論からも影響するものではないか?
頭が混乱してくる。
たまに手が止まりそうになるが他の書記官の手は止まらない。書かなければ……その義務感だけで手を動かした。
気がつけば昨日はあっさりと流された緩衝地帯の話題となっていた。
緩衝地帯は現状維持で決着したのではなかったのか?
「緩衝地帯の範囲を明確にしなければなりません」
「地図に基づくしかないでしょう」
「その地図の基準年は?」
地図に基準年があるのか……そんなもの気にしたことがなかった。もっと広く勉強しないといけないな。
「最新の測量に基づくのが一番です」
「最新は更新され得ます」
これは……決まるのか……?
それが落ち着いたかと思えば軍の表現一つが決まらない。
「『軍勢』で統一する」
「『軍勢』には補給部隊が含まれない可能性があります」
「ならば『兵力』」
「『兵力』は戦闘員に限定される解釈も可能です」
どれも同じ意味にしか聞こえない。
ルミディア伯も同じように感じたのか珍しく眉を寄せ、わずかに語調を強める。
「ならば何と書けという?」
「『戦闘行動を構成し得る人員および物資』でいかがでしょう」
なるほど……? 一言で表現できないのであれば全てを書く。そういうことなのかな?
つまりこれからずっとこの細かい表現が積みあがっていくわけで……
『考えすぎるな』
上官の言葉が頭に浮かぶ。
無心。
無心で書かなければ……
「違反の判定はどのように?」
「事実に基づく、でよろしいのでは?」
「その『事実』を誰が認定する? 視点が変われば覆されます」
続いていた議論が止まり場に沈黙が流れる。
ここは双方とも決めかねているのか?
「……協議としましょう」
この沈黙の合間にペンを置く。そのペンを置く指先がわずかに震えていた。
言葉というものは、こんなにも決まらないものなのか……
初日は互いの認識確認に近かったのだと、今なら分かる。
目の前では、まだ穏やかな声でやり取りが続いていた。
ずっと同じような繰り返しなのに誰も声を荒げない。だけどどちらも一歩たりとも譲っていない。
これが交渉。
言葉で戦っているのだな。
『言葉で決めよう』
王の言葉が頭にふと浮かんだ。みんな知っていたのだ。長い戦いになるということを……




