第58話 条約ができるまで1
バルディウス関門がドラグナール帝国の制圧から解放されて七日。
ドラグナール帝国の外交官、カエリウス・ルミディア伯がドゥルガルド王国の王宮に到着した。終戦交渉の書記官に抜擢され、緊張しつつも準備を進めているところだ。
「ルミディア使節団、到着しました」
「遅滞なし、異常なし」
「現在規定通り控室にて待機中です」
伝令が忙しく飛び交う。
急に攻めてきた敵国の外交官を迎えるのにこれほど整然とした手際で臨むものなのかと疑問に思いつつも準備の手は止めない。
準備したものを抱え会議室へと向かう。会議室の扉が見えたところで足を止め、手に持っていた羊皮紙の束を確認して整え直す。
周りの伝令の声に比べて会議室の扉の前はとても静かだ。それがさらに緊張感を掻き立てていく。
大丈夫だ。会談の進行も書記手順も何度も確認して頭に入っている。教わった通りに記録すればいいはずだ。うん、大丈夫だ。
深呼吸をして気持ちを整えているとすぐ横から声がかかる。
「力むな」
驚いて声が聞こえた方を向くといつの間にか隣に上官の書記官が立っていた。
こんな近くにいることに気がつかないほど緊張していたのか……
「……はい」
返事は返すものの緊張感というものはなかなか抜けるものではない。
意識してもう一度深呼吸をしてみる。
「全部を書こうとしなくていい。拾うべきところだけ拾え」
拾うべき……ところ……? それはどういう意味だ?
「重要な発言、ということでしょうか?」
「違う」
首を軽く振りながらすぐに否定される。どういうことだろう?
「残る言葉だ」
残る? ん? ますますわからなくなった。
「意味は、後でついてくる」
後で? その時まで理解していなくていいということか?
でもそれだと選べないのでは?
「……考えすぎるな」
考えすぎるな……いまのこの状態のことか?
「条約を決めるのは我々ではない」
なんか違うっぽいな……会談の内容について考えすぎるな、ということか……
考えずに残る言葉を拾えってことか?
「我々は残すだけだ」
残す……
残る……
繋がったような、繋がってないような……?
かけられた言葉を考えている間に上官が先に歩いていく。扉を開いて振り向き、自分を呼ぶ声が聞こえる。
詰めていた息をふっと吐き出し、気持ちを整え、会場へと歩みを進めた。
考えすぎるな、はここにも当てはまるのだろうと、なんとなくわかった気がした。
後になって考えると本当にわかった気がしていただけなのだと理解することになるのだが、この時には知る由もない。
ペンとインクを整えながらまだ誰もいない席を見る。
机の配置は完璧だ。向かい合う机の距離まで決められている。
近すぎず、遠すぎない距離で整然と整えられ、それがこの場のすべてを表しているように思えた。
静かに扉が開く。
先に入室してきたのは、ドラグナール側だった。
足音が揃っている。
鎧は着ていない。武器もつけていない。だけど、静かに、だけど重く揃った足音が、雰囲気が軍人だと分かる。
誰も睨んではいない。それでも空気が張り詰める。むしろ目線は合うようで合わない。ただ、全てが崩れない。そんな印象が残る。
無意識に背筋を伸ばしてただその姿を見ていた。
続いて、ドゥルガルド側の担当官が入室してきた。
こちらはレオナルト・ハイゼン宰相を始めとした見慣れた顔ぶれが並んでいる。だけどこの場ではいつもと少し違って見える。
順に入室して決められた席に迷うことなく歩いて行ったのに誰も席に着かない。
そうか、待っている。
会談の予定進行を思い出す。
ほんのわずかな間の後、扉がもう一度開く。
扉は同じだ。だけど何故か重々しく感じる。
みなが注目する中、ヴァルデリウス・ドゥルガルド王が入室してきた。
ただそれだけで場の空気が変わった。
音ではない。動きでもない。ただ重くなった。
自然と頭が下がり視線は床を見ていた。隣をちらりと伺い見ると上官も同じように頭を下げて視線は斜め下を見ている。
王はゆっくりと歩いて、侍従が引いた椅子に腰を落ち着ける。それだけでかちりと場が完成したと感じた。
だけど完成したのに誰も、すぐには口を開かない。ただ静かに、誰も合図したわけでもなく一斉にみな席に着く。
書記官は羊皮紙に今日の日付を書き込む。その手が緊張からかわずかに重い。
ドゥルガルド王が口火を切った。
「本日は、よく参られた」
声は大きくない。だけど威厳のある遠くまで届く声だった。自然とああ、王なんだなと感じる声。
「此度の事態は我々の望むところではなかった」
区切って周りに視線を飛ばす。
「しかし、終わらせる機会は得られたと考えている」
一方的に攻められたのに責めない?
それが、意外だった。もっと最初から責任の追求をするものだと。
言葉を羊皮紙に連ねていく。
「ここに集った以上、言葉で決めよう。それが出来ぬのであれば、再び同じことが起きるだけだ」
責めているわけではない。だけど逃げ場がない?
書記官はただひたすらにペンを走らせていく。
「異存はありません」
ルミディア伯の返事は短い。だけどそれで十分だった。
王は、わずかに頷いて受け取る。
沈黙が場を支配する。
終わりか? そう思った瞬間に王が立ち上がる。誰もが反応するより早く声が届く。
「あとは任せる」
それだけ言って振り返らず、入室してきた時とは逆に素早く退室していく。
扉が閉まり、気配が遠ざかると知らずに入っていた肩の力が抜けた。
軽くなった。思わず、そう感じてしまった。
場の空気も変わっている。公式の場特有の重さは消えていない。だけど、王がいるのといないのでは場の重みが違う。
誰からともなく椅子が静かに引かれ席に着き、ハイゼン宰相が軽く周りを見回して口を開く。
「それでは、議題に入りましょう」
先ほどまでの言葉と、同じようでいて違う。
なんだろう。言葉に温度がある?
「問題ありません」
ルミディア伯の返事は変わらず短い。
ああ、ここから始まる。
書記官はペンを握り直してインクを含ませると始まりの一文を書き始める。
『本日、ドゥルガルド王国とドラグナール帝国は終戦に向けた協議を開始した』
その一文が、後に歴史へ刻まれることを、この時の書記官はまだ知らない。




