壊れた近似式、二人の伝送損失
二部、始まりました。よろしくお願いします。
ほうほう、と夜の鳥が鳴く。熱を冷まし安らぎの時を迎える喜びのさえずりは、どこかさみしく、それでいて優しさを伴っている。
「……焼けたんでしょうか」
どこか迷ったような声音で、銀髪の男は火に炙っていた魚を手に取る。そして口へと運んだ。
「……熱っ! でも、火が通ってます、うん、『味』がする」
火を挟んだ向かいに、黒いドレスを着た、黒髪黒目の全身真っ黒な少女は首を傾げる。そして焼き目のついた魚を指差した。
(……美味しい?)
彼は少し困惑したような顔で彼女を見、そして何かに気がついたように微笑んだ。
「ああ、美味しいですよ。この『味』も『熱』も、『生きている』感じがします」
神性を失い、徒人となってしまったゲルミナス。彼がまた神となるには、世界に散らばった「アナモルテの欠片」を取り込まなくてはならない。
そんなゲルミナスの傍ら、死を司る神のモルテは、彼と共にいることを選んだ。こんな気持ちとしてはよく分からないけれど、ゲルミナスを「人」に落としてしまったのはモルテだ。
(責任を取るっていうのも、なんか違う気がするけど……まあ、いっか)
天に輝く星の光以上に、モルテにとっては眩しいけれど、人は弱い。どんな些細なことでもすぐその命の輝きを失ってしまう。
(私が、そこそこ守ってあげなきゃなんだけど――)
そんなモルテの視線に気がついたのか、ゲルミナスはもう一本の魚を差し出した。
「食べたいんですか、モルテ?」
(違う違う。私は食事なんて要らないし)
慌てて首を振る。思わず抑えていた「死」がちょっとだけ広がって、モルテは余計に慌てた。
声が出ないモルテではあったが、今まではゲルミナスと会話は成立していた。モルテはゲルミナスと同一の、アナモルテから生まれた鏡合わせの個体であったためだ。
だが、アナモルテから切り離されたゲルミナスは、モルテとは全く別のもの。モルテの心の声はもちろんのこと、彼が今まで使っていた「アナモルテの演算」まで失ったことから、観察と勘が頼りの、人間初心者には難しい、なんとも言い難い苦労が透けて見える。
(ジェスチャーも限界があるし、何か言語化できればいいのだけど)
むう。とモルテは悩んだ。
というか。
(一緒にいてもいいかなって思ったけど、それはそれで逆に「私」がゲルミナスを殺しちゃう……)
モルテの足元は死に絶えた草が広がっている。彼女は今まで制限なしに広げていた「力」を初めて、抑えようと意識した。
ゲルミナスが「生」の神であった頃は、どんなに近づいても蹴飛ばしても触れても死にはしなかったけれど。
ぐぬぬ。モルテは、自らの力を生まれて初めて「やるせない」と感じた。
あふ……、とゲルミナスは欠伸を漏らした。そろそろ夜も更けている頃。彼は目をこすった。
「……失礼。これが、睡眠欲というものですか……」
半ば感動気味に呟く彼に、モルテは両手を合わせ、頬の隣に当てて寝るジェスチャーをする。
(寝たら? 火の番は私がするし)
火と自分を交互に指をさすと、ゲルミナスは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「モルテが、火を……? ですが」
(あんたは寝ないと死んじゃうんだから、さっさと寝た寝た!)
しっしっ、と手で払うようにする。けれど、彼の顔はさらに苦々しくなった。
(気を遣う必要、ないのにな……)
もどかしい。あ、とモルテは思いついた。
(短い単語なら、伝わるかも)
そして、モルテはゲルミナスを見上げる。
『お、や、す、み』
大げさなほど口の開閉をすると、ゲルミナスはようやく肩の力を抜いたように苦笑した。
「……そう言えば貴女は睡眠の必要がないんでしたね。ええ、モルテ。ありがとうございます。――『おやすみなさい』」
モルテが命を刈る時、何度も言ってきた言葉。けれど、ゲルミナスに向けたその言葉は、「また、明日」。そんな響きがあった。
ぱちん。薪が大きく爆ぜる音がする。
(――これ、ゲルミナスだったら、なんて解説するんだろ)
頬杖をつきながら、モルテはゲルミナスの寝顔を見つめる。この世の現象には全て理由があって、理を生み出している。
(……面白いな)
ぶるり。「寒い」のか、彼は眉間にしわを寄せて身震いした。
(あら)
モルテは枯れ木をもう一本火に放り込む。
人間は不自由でひ弱で不格好。
(…………面白い)
モルテは、ちょっと口の端を上げた。
太陽が、地上からほんの少し顔を出し始めた。今まで光を失っていた黒は、やがて濃い青へ。だんだんと赤みがかり橙と変わる。
太陽の近くは真っ赤に燃え、離れるほど青みがかり色が変わっている。
朝焼け。モルテは眩しそうに目を細めた。
「……うう……、体が、痛い……」
うめき声を上げながら、ゲルミナスが目を覚ました。起き上がる時に「バキィ」と大きな音がして、彼は肩あたりを抑えて悶絶している。
(……大丈夫?)
モルテは火を挟んでゲルミナスを覗き込んだ。しばらく蹲っていた彼は、ようやく顔を上げる。
『お、は、よ!』
にか。
ゲルミナスは朝日に照らされるモルテの顔をしばらく、呆けたように見ていた。
(え? 伝わらなかった?)
反応のない時間が過ぎ、モルテが焦りだした頃。
「あ、ああ、おはようございます、モルテ。すみません、その……。眩しくて」
言いながら彼は下を向いて片眼鏡を装着する。俯く彼の耳が少し赤い。
(ありゃ? 寒かったかな)
もう少し火を大きくすればよかったかも。
「じゃあ、行きましょうか」
ゲルミナスはモルテに手を差し出した。
彼の手のひらは、昨夜火を起こすことに苦労した跡が刻まれている。小さな豆が幾つも潰れ、見るからに痛々しい。
(……?)
モルテは差し出された手とゲルミナスを交互に見比べる。彼は「あっ」と言ってその手をゆっくりと下ろした。
「すみません、つい」
今のゲルミナスは生身の人間。そんな彼にモルテが触れたら、あっという間に「枯れ木」行きだ。
(つい、じゃないわよ。……死にたいの……?)
やれやれ。
モルテは先に足を踏み出した。数歩進んで振り返る。
(……ほら、行くよ)
神の頃の歩みよりずうっと遅く。ゲルミナスがついてこれる歩調で。
散らばった欠片は七つ。それは世界に「命」を撒き散らし、不可思議な現象を引き起こしているという。
「……というか、これ、禁忌を正す旅に逆戻ってません……?」
ゲルミナスがぼやく。前を歩くモルテはチラと振り返る。
(……違うよ。全然)
以前は奔放女神の尻拭い。
今度は、ゲルミナスを「取り戻す」旅。
(貴方の為だけの、旅なんだよ)
伝えたいのに伝わらない。ふう、とモルテは息をついた。
かつて世界を観測していた神は、今、一人の少女の背中だけを観測している。
かつて死を撒き散らしていた神は、今、一人の男の歩幅だけを気にかけている。
これからルビが増えていくことに戦慄しています。




