風の精霊、定常波の異常
よし、物理が出てきましたよ!
読み飛ばしていただいても大丈夫です。
ヒュオオオオ……。
空気を裂く音が耳元でする。その風音に混じって、誰かの囁き声が途切れ途切れに聞こえた。
――……しい、……ね。……!
一瞬だけゲルミナスの足元が揺らいだ。だが、彼の背後の極彩色は、変わらず命を爆発させながら芽吹いている。
半歩先を歩くモルテはゲルミナスの様子には気づかない。
(……変な声)
風の唸り声の、単なる「音」は、モルテにとっては騒音に過ぎない。
バタバタとはためくゲルミナスの礼装は、銀の飾りに日の光が反射して眩しい。モルテはベールの中で目を細めた。
こんな騒がしい風が渦巻いているというのに、モルテのドレスは沈黙を保っている。彼女の髪一本さえ、風にはためかない。
モルテは、風の吹きすさぶ荒野を見回した。この一帯のどこかに、還すべき精霊がいるはず。
(……いない……?)
視界は舞う木の葉に覆われ、よく見えない。かき分けようと手を伸ばせば、嘲笑うかのように風が遠ざかる。
(…………もうっ)
少し、イラッとした。
一方、ゲルミナスは、風音の中に流れる声に、足を止めてしまっていた。
楽しそうな笑い声。
少し調子の外れた歌。
慈愛に溢れた、温かい声。
聞き覚えのある会話を懐かしむように目を細める。
(……あのひとの、声)
は、と自嘲気味に息を吐いた。
(……もう、いい加減にして!)
腕を広げて風を捕まえようとする。だが、風はするりとモルテの腕からすり抜けてしまう。
そもそも、風の命を奪うことはできるのか。――答えは、モルテならば「是」である。この風は物理現象でもない、精霊の力で巻き起こっているもの。であれば、大元の精霊を「奪って」しまえば風は止む。原理上は。
――そう、原理上は。
(〜〜馬鹿にして……!)
モルテは思わず、ダン、と地団駄を踏んだ。その衝撃で枯れた地面がその力の分だけ沈む。彼女の踏みしめた跡は足跡の形以上に死地となっていた。
そしてモルテは風の中に立ち尽くしているゲルミナスをちらりと見た。
(邪魔! ぶつかっちゃう!)
『うっひゃ、やめてくれよぅ、オイラ、まだ死にたくないよ!』
初めて風音と異なる声が聞こえた。これはきっと――。
(風の精霊……!)
やっと尻尾を出したわね、とモルテはベールの中で口角をほんの少し上げた。
認知できれば後は捕まえるだけ。姿を消すことはもうできない。
気が抜けるような声が響いて、ゲルミナスはハッと我に返った。声の方を見ると、風をクシャクシャにしたような影が一つ。
(風の精霊か)
その傍らには、じりじりと距離を詰めているモルテの姿が。ベールで隠された顔は分からない。けれど「心」はどこか楽しそうであった。
『ひゃあぁあっ! 殺される〜!」
ぐるぐるぐる。つむじ風は情けない声を上げて渦巻く。ぴょん、と飛び上がったモルテは両手を伸ばすが、精霊はさらにその上を飛ぶ。
(……っ! ……!)
なんだか歯噛みするようなモルテの「声」が聞こえて、ゲルミナスは思わず笑みを漏らした。
ベールが一度こちらを向いた。じとりとした視線を感じたが、ゲルミナスは肩を震わせたまま。
(……覚えてなさいよ)
「ああ、アナモルテ。精霊の創り出した風は乗れませんよ。それは物理法則ではありませんからね。本来、風が発生する仕組みというのは、『気圧傾度力』が働いているからです。空気は気圧の高い場所から低い場所へと押し出されます。この気圧の差が大きければ大きいほど、風は強く吹くのです。……この、『高い場所から低い場所への移動』とは、ほぼこの世に存在するすべての現象に当てはまりますね」
ぴょん。モルテはもう一度精霊に向かって飛び跳ねた。ゲルミナスの蘊蓄は、今のモルテにとっては耳障りな騒音にしか聞こえなかった。
「ちなみに、鳥が空を飛ぶというのは浮き上がる『揚力』と前に進む『推力』の二つが関わっているからです。翼に風が当たると空気の流れが、上側が下側よりも速くなります。流体の速度が上がると気圧が下がります。つまり、上側の気圧が下がる。先ほど説明した『風』の原理を覚えていますか?」
(知る、わけ、ないじゃ、ない!)
精霊はモルテの指先すれすれを飛ぶ。モルテはイライラと舌打ちをした。しかし、「物理モード」に入ったゲルミナスには聞こえない。
「……そうです! 『高い所から低い所に移動する』でしたね! 気圧差が翼の下側を押し上げる力、『揚力』が生まれます! そして翼がその空気を押し下げる『反作用』により、上向きの力を得るのです。そして! 鳥たちは羽ばたくことで空気を後ろに押し出して前に進む推力を生み出しているのです! ですが、精霊は自分たちの勝手に風を生み出し、空を飛ぶ。これはどの物理法則さえも無視している。……ああ、話が逸れましたね。物理法則にしか影響しない貴女が風の精霊に対抗するには、この世の理に基づいた風でないと。手伝ってあげましょうか?」
本当は駄目なのですけど、と彼は少し意地悪そうに微笑んだ。
そして指をくるりと小さく回す。
ギュルルル……と強大な気圧差で生まれた突風が吹く。それはモルテのベールやドレスを激しくはためかせた。
(……!)
飛ばされないよう、反射的にベールを押さえる。体がくん、と風に煽られて浮いた。
『うわっ、うわわわ! 死神!』
精霊に向かってモルテは腕を伸ばす――。
けれど。
『そう簡単に捕まってたまるか!』
そこは風を操る精霊。ぐい、と精霊はモルテを飛ばす風の向きを変えた。
(!!)
そのまま、彼女の体はゲルミナスに向かっていく。驚愕に目を見開く水銀の様な瞳が見えた。
「!?」
(っ、ぶつかっ、ちゃう……!)
伸ばした手が、ゲルミナスに当たってしまう。くるん、とモルテは体を捻り、そのまま――。
「ぐっ……!」
ゲルミナスを思い切り蹴飛ばした。
ぽーん。
軽々と彼は飛んでいき、荒野の砂地に落ちた。彼がいるところだけ、幾重もの命が咲き誇っているから、多分あそこにいるだろう。
(びっくり、した……!)
触れたら、きっと。
いや、蹴り飛ばしはしたが、彼は生きている。大丈夫大丈夫。あと、長ったらしい解説と小馬鹿にしたような態度にちょっと苛ついていたから。
(……スッキリした)
ばさっと草が舞った。上体を起こしたのだろうか。
「……アナモルテ……っ。……まあ、……まあ、いいでしょう。……ふふ、いい蹴りでしたよ……」
やっぱり無傷だった。
ふふふ、と笑うゲルミナスに、モルテはちょっと引いた。
(……もう少し黙るまで力入れたほうがよかったかしら)
『あぶねーあぶねー! おいこら、種まきの神! 何死神に加勢してんだよ!? おかげでオイラ死ぬとこだったじゃん!」
精霊が何やら喚いている。
その言葉にゲルミナスは片眼鏡を上げた。
「……はて。何のことでしょう? 加勢したつもりはありませんが?」
しらばっくれるゲルミナス。
『っていうか、なんで死神といるんだよ!? この前、別の女がいたじゃん! オイラを生んでくれた――』
彼の片眼鏡がきらりと光を反射し、その表情が見えなくなる。
「少々喋りすぎましたね。アナモルテ」
『そうそう、そんな名前――』
ぐるん。ゲルミナスは二本指を回した。
――ゴ……ッ!
(う……わ……!)
くん、とモルテの体が突風に煽られる。もはや竜巻とでも言いそうなその風に巻き込まれ、モルテは精霊に向かって凄まじい速度で飛んでいった。
『へ……』
手袋をはめたままの両手が、精霊に――。
(捕まえた……!)
『お、お、オイラ……オイラ……!』
死んじまう、と精霊はモルテの腕の中でカタカタと子猫のように震えている。そんな精霊をモルテは手袋のまま撫でた。
(よしよし。大丈夫、怖くない怖くない)
周りに吹き荒れる荒野の風と異なり、精霊は柔らかく、それでいて温かい。
『……なんで、何でだよぅ、オイラ、死にたくないよぅ』
グスグスとした声を聞きながら、モルテは手袋を片手だけ脱いだ。
(お前はただ還るだけよ。歪んだものを脱ぎ捨てて、新たに生まれなさい)
そっと素手でひと撫で――。
『冷てぇ……。あのひとは、あったかかったじゃんよ――』
ふっ、と精霊はモルテの腕の中でかき消えた。
同時に、耳元でわんわんとしていた、誰かの笑い声が木霊を残して消えていく。
「……思い出など、私の心の中で閉じ込めておくだけで良いのです……」
ゲルミナスはやるせなさそうに呟いた。それには触れず、モルテは彼を見上げる。
(……ほら、貴方は「お仕事」しないの?)
彼女を見下ろしたゲルミナスは、ふ、と微笑んだ。
「……忘れていませんよ。余韻に浸るくらい、別にいいでしょう」
そう言って彼は黒い手袋を外し、荒野に手をついた。
ブワァアァア……、と乾いた砂が舞っていた土地が、モルテの足元を除いて一気に色づいていく。そして、そよ、と風がモルテの髪を揺らした。
暴力的なまでの「生」の眩しさに、モルテは目を伏せる。そして、また、死の足跡をつけて歩き出した。
(……次は、「光の王女」)
――なんて綺麗なの……! 楽しい! ね、ゲルミナス!
競うように咲き誇る花々を見、彼女は感嘆の声を上げた。虹色の瞳は幼さを残すようにきらきらと輝いている。
そして、その場に座ると鼻歌を歌いながら花輪を作り始めた。
――貴方も歌いましょ?
――いえ、私は歌など……。
いいから、とその腕を引っ張って隣に座らせ、彼女はまた歌い出す。そのどこか調子の外れた音に、肩の力が抜けた。
つられて、控えめに音を追いかける。
――ゲルミナスが歌った……!
――貴女が歌えって言ったんでしょう!?
クスクスと笑う。そうだ、と彼女は悪戯を思いついたかのように笑みを深くした。
――この「思い出」を、永遠に。
小さなつむじ風を生み出す。風に巻き込まれた「記憶」は、周囲に風とともに耳に届いた。
これが、二つ目の「禁忌」。
基本法則、「高いところから低いところ」だけは覚えてくださいね!
これ、テストに出ますよ!
鳥が空を飛べる理由でした!
誤字報告ありがとうございます。




