熱力学四つの法則:その熱は何処に
今度こそ、熱力学です。
ゲルミナスは傍らを歩くモルテを見下ろした。
禁忌を返していた頃より、だいぶ性格が変わった。いや、性格が変わったと言うよりも、別人だ。
(……それもそうか)
あの時、モルテは「生まれたて」の死神で、その器は「アナモルテの抜け殻」だった。あの女神の残滓を色濃く遺した器は、モルテに多大なる影響を与えたに違いない。
好奇心旺盛で予測不可能な行動。理を知りたがり、どこまでも純粋。なのに、永遠の眠りをもたらす姿は、冷徹。
これが、本来の彼女の姿。
(もしかして、貴女も、苦しかったのですか)
あの狭い「檻」に詰め込められて。
女神アナモルテがなぜあんなにも理を壊し、禁忌を積み上げていったのかは謎のまま。
ゲルミナスの視線を感じたのか、モルテは顔を上げてニカッと笑みを返す。そしてそのままスキップで先へ進んでいった。
(……!)
彼の心臓は大きく「振動」し、「熱」を生み出す。それはじわりと体に広がって、想いの動力源となる。
エントロピーはどこまでも増大していく。
まったく、敵わない。
(んん……?)
モルテの鼻をふわりと、ツンとした匂いが掠めた。どこか、ほわりと熱を感じる。
(何だろ)
岩肌がゴツゴツと主張し、草は生えていない。もくもくと湯気が岩の割れ目から湧き上がって、時にぶわっと大量の蒸気が出ている。
周囲に「命の気配」はない。
チロチロと流れる水がある。水が流れる周囲は黄色く粉が吹き、茶褐色。モルテはそれに指を突っ込んだ。
「あああっ!? モルテ!?」
ゲルミナスの悲鳴が、岩に共鳴した。
(おお、「熱」がある)
恐らくその水の温度は八〇度程。だがモルテは熱は感じても「衝撃」は感じない。
「何してるんですかっ!」
ぐい、とモルテの細い手首が背後から掴まれ、水に浸けていた指が引き上げられる。
(うわっ!? バチって……来ない……?)
本来であれば「生」と「死」の圧倒的な電位差が、二人の間を越えられない壁となって流れる。けれど、今、ゲルミナスは確かにモルテの腕を掴んでいるにも関わらず、「電位差」は沈黙していた。
(あれー……?)
モルテは後ろにいるゲルミナスを見上げた。彼もまた、銀の瞳を大きくして驚いている。
「あ……すみま、せ……ん……?」
ぽすん。
上を向きすぎたモルテが、バランスを崩してゲルミナスの胸にはまった。
と。
バチチチチチィ!!
激しい音と煙、火花が立ち、彼らを襲う。
「ぎゃあああ!?」
(あびゃあああ!)
すぐさま二人は距離を取る。電位差はきちんと「仕事」をした。むしろさっきのは何だったんだ。
「……すみません、モルテ。大丈夫でしたか?」
(いだーい……。ごめん、ゲルミナス……)
しばらく二人は痛みと痺れに悶絶した。
「さっきはすみませんでした。つい……。モルテ、指は大丈夫ですか?」
問われてモルテは突っ込んだ方の指を触る。血の通わない、氷のように冷たい彼女の指が、ほんのりと温かくなっている。
(……なんで?)
何度も指を触って首を傾げるモルテに、ゲルミナスは安堵したように息をついた。
「……はあ。物質には、『熱平衡』というものがあるんです。あんなに熱い液体の中に指を入れれば、貴女の指もその温度に引き上げられてしまう。つまり、火傷します。ええと、私だったら」
(あー……まあ、私には無縁の……。ねつへいこう? それで私の指も温まったってこと?)
そうか、それで温かくなってるのか。
「これは、温度計の原理と同じ仕組みです。『お湯』に『温度計』を入れて、そのお湯と温度計が同じ温度となる、それで数値として温度が分かる……。これが熱平衡。熱力学の一番始め、『熱力学第ゼロ法則』です。まったく、本当に貴方の周りでは物理現象が仕事をしませんね!」
(ええー、私に言われても)
シュゥー……。湯気がまた岩から噴き出した。
(わっ! なんで!?)
白くもくもくとした湯気が勢いよく噴き出ている。
(これも熱いのかな?)
興味本位で湯気に手を伸ばそうとして。
「モルテ。これ以上はやめてください。(私が)保ちません」
懇願するようなゲルミナスの声に、伸ばした手を引っ込めた。何だか今、副音声が聞こえたような?
「……ちょっと目を離すとこれだ」
(え? 今なんてった?)
モルテはゲルミナスを見上げる。けれど、彼は軽く肩をすくめるだけ。そのまま岩から噴き出す蒸気を指差した。
「それは地下で起きた『水の沸騰』と『圧力の解放』の、エネルギー噴出そのものです」
(……なんか、はぐらかされた……!)
じっと見ても、彼はつんと目を逸らすばかり。
(んー……、変なの!)
「んんっ……。地下深くにある水がマグマなどの熱源で温められると、百度を超えても液体のまま存在することがあります」
ぱちり。モルテは瞬いた。それって、沸騰してないってこと? モルテは流れている水を指差し、手を握ったり開いたりして「沸騰」を表した。そしてバツ。首を傾げる。
その様子を見ていたゲルミナスは、顎に手を当てて考える素振りを見せたあと頷いた。
「正解です、モルテ! 沸騰しない。実は、この地下深くではとてつもない圧力がかかります。この圧力こそ、水を液体のまま留めておく『力』なんです。……覚えています? 『温度は振動』。水の温度が高ければ高いほど、水分子は激しく動こうとします。ですが、圧力は沸騰――つまり水分子が広がって、気体になろうとしているのを押し込めるんです。さて、地上付近。そこは圧力が下がる。小さな通り道を見つけた、押さえつけられた水はどうなるでしょう?」
うん? だって、この噴き出す蒸気の説明でしょう? はじめから分かってるよ。
押さえつけられた水。周囲の「圧力」に、本当の自分を出せないもどかしさ。
モルテはなぜか、水にかつての自分を重ねてしまった。
ここから出して! と叫んでも檻の中。押し込められて、暴れようにも出られない苛つき。そんなところにほんの少し開いた扉。
(……そんなの、一直線に行こうとして、当然だよ)
圧力は理性。水は感情。この地下深くの水が、少しの隙間もないように、漏れないように。圧力をかけて蓋をする。
でもいつか、綻びが出た時。
(きっと私は壊れる)
ただの、地下から噴き出すエネルギー。
けれど、モルテはかつての自分を、ゲルミナスは今の自分を。同じものを別々のものとして、二人は見ていた。
モルテは考えに沈んでいたことを断ち切るかのように、小さくしゃがんだ。両手は、自分を抱きしめるように。そして、思い切り跳び上がって両手を広げた。
『ばーーん!』
爆発。
ぽかん。ゲルミナスはしばらく呆然とモルテを見つめたあと、脱力したように苦笑した。
「……貴女は全く……。ええ、正解。出口に一目散に向かった液体は、自分たちが抑えつけられていた力が弱くなると、あの蒸気のように、勢いよく噴き出します。これを、『フラッシュ蒸発』。このときの水の体積は、なんと一七〇〇倍にも膨れ上がる。すさまじいエネルギーになります。……だから、興味本位で指を突っ込まないでくださいよ。腕が吹っ飛ぶかもしれないんですから」
(一七〇〇倍! それは、どれぐらいなんだろう?)
でも、きっと。
開放感も凄まじい。
(そうだ、ゲルミナスはこの水が温まるのを、『マグマ』って言った。それは、何だろう?)
モルテは、流れる水を指差し、岩から出る蒸気を指差し、最後に地面を指差した。
(通じるかな?)
「……湯……蒸気……、地面……?」
だめか。ちょっと難しいなあ。
今度は、地面を指差し、手のひらで先ほどの「沸騰」を示す。
「ん……? 地面……沸騰? 地面……が……、沸騰……させる?」
そうそう! その力なんだけど、どうやったらいいの?
彼は眉間にしわを寄せた。口元にはいつもの手が当てられた。
(なんか、ごめん)
ここまで悩ませるなら、聞かなきゃよかった。少ししょんぼりし始めた頃。ゲルミナスは顔を上げた。
「水を、温める、力……!?」
(あっ!)
「『マグマ』について、何か聞きたい? 合ってます?」
通じた。こくり、と頷く。彼はどことなくホッとしたように息をついた。
「……マグマ。それは、岩石が溶けて液体となった、この星の圧倒的な熱源です」
(岩が、溶ける……!?)
「ふふ、驚いてます? そう、岩も溶けるんです。数十億年前、この星が誕生した時、数多もの隕石が衝突した時の運動エネルギーが莫大な熱エネルギーとなりました。表面はこのように冷えて固まっているんですが、内部はこんなに時間が過ぎ去ったというのに、まだ熱い。熱がまだ逃げ切っていないのです。そうそう、モルテ、熱いマグマと、地上に近づいて冷えたもの。どうなります?」
ええー……。モルテは眉を寄せた。ちょっと考えよう。
熱いものと、冷えたもの。ゲルミナスが聞いてくる、ということは、日常にもありふれた現象のはず。星の内部にある、閉ざされた空間という考えを一度捨てる。
石の器に入れた水。あれを火にかけたら。ポコポコと泡が出て――ううん、待って。ゲルミナスが作った汁物。熱々のものをそのまま置いておいたら。かき混ぜてもいないのにくるくると動いていなかった?
同じことがマグマに起こる。空気と同じ、温かいものは上へ、冷たかったら下へ動く。
モルテは腕をぐるんと回した。そして、汗を拭うような、「暑がる」を上へ指差し、今度は体を抱きしめ震えて、「寒がる」を下へ指差した。
(わかるかなあ。ジェスチャーも限界があるんだよぉ……)
彼は満足そうに微笑んだ。
「大正解です。最初の腕を回す動き、それは『対流』と言います。熱いマグマは上へ動き、冷めたら下へ沈む。この動きが、地上へと熱を伝えているのです」
(おお……! 伝わってた!)
モルテは、自分のジェスチャーの腕が上がった(勘違い)ことに感動した。
(私もなかなか上手くなったもんだ)
「ですが――」
ゲルミナスの口から零れた、逆接。
(ん?)
「ですがモルテ。もし、沈んでいった冷たいものが、二度と温められない場所まで行ってしまったら、どうなると思います?」
それは酷く切なさをまとい、同時に微かな「恐怖」が散らされていた。
(え……)
こんなにも熱いものが、冷えて沈んで、もう二度と登ってこない。どんどん遠く。熱は消え、鼓動を止め、沈黙する。
――エントロピーが極大。それは、「死」。
(なんか、嫌だな)
その問いに、寂しさを覚え、モルテは腕をだらりと下げた。
ただの、「もし」の話。けれど、いつもの淡々とした彼には混ざることのない「感情」がどうしても見えて、なんだかモルテは少し悔しくなった。
(「安定」が怖いの?)
いや、違う。死じゃない。ゲルミナスは生神だ。生み出した命が死ぬことはあれど、彼は死なない。であれば、「終わり」が怖いのだ。
(何の?)
モルテであれば何が終われば嫌?
(この放浪は、いつか「終わる」。嫌だな。ゲルミナスと離れるの)
その考えに行き着いた時、モルテは愕然とした。
(離れるのが、怖い……?)
何が。何で。
「……すみません。少し意地悪でしたね。物理現象です。気の遠くなるような未来の、一つの可能性です。『熱的死』。エントロピーが極大となって、熱が混ざって全て停止する、そんな話しです。……ああ、泣かないで」
(……え?)
言われて初めて、モルテは瞳から雫が零れていることに気がついた。
「……まさか泣くなんて……。すみません、本当に、意地悪でしたね」
違うよ、ゲルミナス。質問に泣いてるんじゃなくて、そこに隠された「気持ち」に泣いてるんだ。
まだモルテにはその気持ちが「何」かは分からない。けれど、確かに、離れ離れになるのは嫌だと強く思ったのだ。
「ハンカチ、要ります……?」
困ったような声と、差し出された手に握られた布。
(全てが「停止」なんて、そんなの、そんなの……!)
辿り着く先は、無秩序の、「バラバラ」な未来。エネルギーが消える。対流が消える。
モルテはゲルミナスのその手をぎゅっと握った。
「モルテ!?」
途端、二人の「電位差」に反応して、バチィ!! と火花が激しく散った。
『私は! やだ! バラバラはやだ! ……またっ、私が! 力を加えて対流させてやる!』
手を離す。彼女の、声なき叫び声。火花が散れば、モルテの「声」は届く。もう痛みなんて何とも思わなかった。
はあはあ、と肩を動かすモルテを、ゲルミナスは呆然と見つめ、そしてじわじわと顔を赤くした。
「……っ、貴女と、いう……ひとは……」
そのまま片手で顔を覆ってしまう。その手から逃れた耳は、真っ赤だった。
(……なんで顔赤くしてんの……?)
変なこと言っちゃった? 対流を起こすって、無理だったの……?
モルテの頬を伝った涙はすでに乾いてパリパリしている。ゲルミナスは覆っていた手をずらし、赤い顔を覗かせた。
「……もう貴女に勝てるわけがないと身に沁みました。連敗記録、更新中ですよ。責任取ってくれますか」
責任? いや、だって。
(対戦なんてしてないからね!?)
その熱は、二人の指先への熱平衡。
その熱は、かつての孤独という絶対零度。
その熱は、消えずに鼓動へと。
その熱は、止まらない未来へと。
理屈が溶け、定義が揺らぎ、それでも確かにそこに在るもの。
――その熱は、今何処に。
熱力学はゼロから第三法則まであります。
ゼロは熱平衡、第一はエネルギー保存の法則、第二はエントロピー増大の法則、第三は絶対零度(熱的死)と、まあざっくり。
ルビ地獄でトドメを刺されそうでした。




