スティック・スリップ、惹き合う旋律
次は海について。
力学です。
――ざん。ざざ……。
どこまでも広がるような、霞む地平線。遠くまで見えるからか、少し弧を描いて、この星は丸いのだと再認識される。
寄せては返す、星の鼓動のような波の音。
(海……!)
モルテは瞳を輝かせた。この広大な塩水の下には、幾億もの命が生まれては死んでいく。歴史を紐解けば、この海から生命は誕生した。それこそ、天文学的な確率の、「奇跡」が幾重も重なった結果である。
空の「青」より、少し深い「青」。向こうまでいけば、その境界線は溶けてしまいそう。
モルテは駆け出した。
――キュッ。
(おっ?)
靴が砂を踏みしめた途端、音がした。
(?)
キュッキュッと足を踏み降ろすたびに砂が鳴いている。
「『鳴き砂』ですよ。砂同士の摩擦による振動で、音が大きく聞こえるんです」
(鳴き砂?)
モルテは首を傾げた。ゲルミナスは屈んで砂を掬った。それは白く、日に照らされてキラリと光を反射している。
「ここの砂の主成分は『石英』。これは硬い鉱物で、砂粒が擦れ合う時に、この石英の粒が振動板のような役割を果たし、音が鳴ります。そして、粒の大きさが均一であるほど、擦れ合うタイミングが合うので、音が共鳴して大きい音になるんです。音は光と同じ『波』。粒の大きさがバラバラだと振動を打ち消しあって『音の波』が消え、砂は鳴りません」
(へえー! 音も、波なんだ)
寄せては返す音の波は、空気を伝わってモルテへと届く。
「さて、ここで問題です。この砂が『鳴く』には、もう一つ、重要な条件があります。それは何でしょう?」
(ええ? 砂が鳴く条件?)
モルテは足元を見下ろした。
足を踏み鳴らすと、砂は鳴る。これは、砂粒同士が擦れ合っているから。
(ん? 擦れ合うから?)
モルテは自分の作った石の器を思い出す。つるりとした滑らかな器。指で擦るとあれもキュッと鳴った。けれど、煤が付いていたり濡れたりしていると、ざらついたりぬるりと滑ったりして音が鳴らない。
その、何か閃いたと言うようなモルテの顔を、ゲルミナスは静かに見つめていた。
試しに、モルテは波打ち際の砂へと足を伸ばす。濡れた砂。踏んでも砂は沈黙を保っている。
(……おんなじ!)
モルテはゲルミナスに駆け寄った。波打ち際の砂を指差し、足元の砂を鳴らす。そしてバツ。次に石の器を取り出し、キュッと擦って見せる。そして、煤の付いた底を指差し、またバツを作る。ゲルミナスは嬉しそうに笑った。
「大正解です、モルテ。鳴き砂は、石英の粒が直接ぶつかって擦れ合う事で振動――音を出しています。しかし、その煤のような汚れや水が付着すると、石英の表面を覆ってしまって、潤滑剤のような役割をしてしまうんです。摩擦の起き方が劇的に変わってしまい、音が出なくなります。この、摩擦による振動は、『スティック・スリップ現象』と言うんですよ」
(やった、当たり!)
モルテも正解をもらって嬉しそうに笑う。
「この鳴き砂というのは、ほんの少し汚れただけで摩擦が変わってしまいます。綺麗な砂だけが『歌う』権利を持つんですよ。モルテの心のようにね」
――ひゅん。
ゲルミナスがさらりと付け加えた言葉に、モルテは固まった。
(な、な、な……。あっ、子どもっぽいってこと?)
そうだきっとそうに違いない。
(だって、綺麗なのは「死」ではなくって)
「生」の方だよ。
モルテはゲルミナスに何も返さず、海へと足を向ける。キュッキュッと歌っていた砂はやがて湿り気を帯び、沈黙していった。
(靴のままだとやっぱり濡れちゃうかなぁ……。すぐ乾くからいいかなぁ。でも気持ち悪いかなぁ)
うーん、と悩んでいると、背後から声がかかる。
「モルテ。海に入るなら靴を脱ぎましょう?」
ああ、そういう所だよ。私が子どもっぽいって言われるのは!
ちらりとモルテは「保護者」を一瞥し、丁寧に靴を脱いだ。そして、砂の上を歩く。目の前に広がるのは、近づいては引き返す、波。
(近づいて離れる……。決してそのまま停滞しない)
心のようだ。
足元を見る。モルテの白い足を、波がくすぐっては笑うように逃げる。
(あれ、青いって思ってたけど、透明なんだ)
大発見だ。後でゲルミナスに聞いてみよう。
遠くに見える地平線。なんだか丸い。
モルテは遠くを指差し、片手でなだらかなカーブを描いた。
(ちょっと通じなかったかな……?)
ゲルミナスは考え込むようにじっとモルテの手を見つめた。
「ええと……遠く……? が、弧を描く……?」
惜しい! モルテは手で三角を作る。彼は視線を向こうにやった。
「遠くの線……、地平線?」
(うんうん、近づいてきた!)
「……が……? 弧……。『地平線が丸い』?」
丸を作る。ゲルミナスは納得したように地平線をもう一度見た。
「確かに、この星は丸いので、この何もないところなら、丸く見えるかもしれません」
(違うの?)
「私たちの目は、自分を中心にして半径約四・五キロメートルの円を見ています。ですが、星の物理的なカーブはあまりにもなだらか過ぎて、肉眼では捉えられません。地平線が弧を描いて見えるのは、実は目の錯覚もあると聞いたことがあります。『目に見えるものが真実ではない』、面白いですよね」
(へー!)
そうだ、波。モルテは波を指差した。
(これは何で動いているんだろう?)
「うん……?」
モルテは引いていく波を追いかけた。そして波に今度は追いかけられる。そしてゲルミナスを見て、首を傾げた。
「波……の、動き?」
うんうん。
うーん、と、ゲルミナスは考えるように無言で海を見ていた。
(あれー?)
いつもならスラスラとまるで定石通りに言う彼が。考えている!
(どうしたんだろう?)
しばらくして、彼は何か思いついたように「あっ」と呟いた。
「ではモルテ、問題です。波は、この星の力によって引き起こされていますが、それは風、重力、どちらでしょう?」
モルテは首をひねった。
(ええー? どっちだろう。風……は気圧差で生まれる……。でも海を撫でていく? 重力……は、物質を引っ張る力……。ええ……分かんない)
一か八か。
『か、ぜ!』
その唇を読んだゲルミナスは意地悪そうに笑った。
「残念、『どちらも』です!」
むきぃ。モルテは口を尖らせる。どちらか、なんて聞いておきながら、どっちもだなんて。
『ず、る、い!』
ふふふ、とゲルミナスは笑いをこぼした。
「失礼、半分正解じゃないですか」
『ち、が、う!』
あははは! もう、朗らかに笑うなあ。モルテは裸足を振り上げた。だが、彼女の足が長い脚に当たろうとした時、ひょいと避けられる。
(うわ、学習してる!)
むっとしてゲルミナスを見上げると、彼はにやりと笑っている。
「そう何度も食らいませんよ」
きいっ! モルテは地団駄を踏む。キュッキュッキュッ。砂達も笑い声を上げた。
ひとしきり笑ったあと。ゲルミナスは降参したように両手を挙げた。
「この辺りで終わりにします。あんまりやると貴女に嫌われる。そうなったら、今度は私が立ち直れませんからね」
ぱちり。モルテは不思議そうに瞬いた。
(なんで?)
けれど、彼は意味深に微笑むだけ。
「波の話でしたね。風は海にエネルギーを与えて、平らな面をデコボコに乱します。これがまず『波』。ですが、波を『波』として形作るのは、重力なんです」
うーん。モルテは想像してみた。
波を作るのは風。草原を走る風が、草を揺らして通り過ぎていくのと同じ?
「風によって盛り上がった水面を、元に戻そうと引っ張るのが重力。つまり、風が水面を持ち上げる、それを重力が引っ張る、引っ張りすぎて沈む、また元に戻る……この、『上下の復元力』が連続して起こることで、波が波として続くんです。波というのは、目に見えない重力そのものを形にしているんですよ」
(波は、「見える重力」……!)
「もう一つ、波を作る『遠い力』があるんです。ヒントは重力」
彼は指を一本立てた。
(遠い力? 何だろう)
彼の顔は「何だと思います?」と言っているようで、モルテは首を捻った。
遠い。風よりももっと遠い。波は、重力で形作られる。ならば、この「重力」よりも影響がある――この星の、重力を凌駕するもの。
重力は、「質量」で引き起こされる。ならば、この星よりも大きいもの?
『た、い、よ、う?』
「うーん、モルテ、惜しいです! 半分正解です。確かに、太陽はこの星の潮の満ち引きに影響を与えます。けれど、太陽は重いですが遠すぎる。この星よりもずっと小さいけれど近いもの。わかります?」
小さいけれど近いもの。そして、この星に影響を与えるもの。
(あ)
もしかして。モルテは空を指差した。でも、指すのは太陽ではなくて――。
『つ、き!』
ゲルミナスは頷いた。
「そう、月。月の『引力』が関係しています。実は、海って、真ん丸じゃないんですよ」
(えっ、そうなの? 月に引っ張られてるから?)
ゲルミナスは両手を丸から少し楕円に引き伸ばした。
「星は自転していますよね。この時、外に向かう『遠心力』が働くので、月側に向かう海と、その月側の真反対にも外に引かれる海があって、その二つは盛り上がります。これを満潮。満潮の地点から九〇度程ずれた場所は海が薄くなるので、干潮となるんです」
ひっそりと夜を照らす月。宇宙から見ればあんなにもちっぽけな天体が、近くの星に干渉して驚くべき「奇跡」を起こしている。
(……離れていても、見えない力で海を動かす。……まるで、魔法みたい)
じゃあじゃあ、この「音」は。
モルテは海を指差して、耳を澄ますように手を耳に当てた。
「波の音ですか?」
うん。なんだかとても落ち着く、不思議な旋律。モルテは瞳を閉じた。
ざん。……ざぁあ。ざん……。
規則的な、どこか不規則な、安定で不安定な音。寄せて返して、大きくて小さい。
モルテの見えない視界の中で、頬の近くを何かが掠めたような、でも何も触れない、そんな気配がした。
「……波の音は、泡が弾けている音なんですよ」
ほんの少し、切なさを含んだゲルミナスの声。モルテは瞳を開けた。
「波が崩れる時、大量の空気が水の中に巻き込まれて、無数の気泡ができます。この気泡が生まれたり、弾けたり、振動してあの音を生み出しているんです」
(泡の音?)
「一つの泡なら、ただ『ぱちん』という小さな音ですが、それが何百万、何千万重なって音を出すことで、あんな複雑な音になるんですよ。そして、波が崩れて水のトンネルのような空洞ができると、音が反響して、低く、大きく響く。それがその『落ち着く音』の正体です」
へえ。海も「歌う」のか。
鳴き砂と、幾億もの泡の音。しばらく、モルテはその音の海に揺蕩った。
(危なかった)
ゲルミナスは、自身の指先を見つめた。あと少しでモルテの頬に触れるところだった。
耳を澄ます彼女が、海に溶けてしまいそうで、つい手を伸ばしてしまった。
「生」と「死」の壁は、こんなにも高い。けれど、こんなにも惹かれるのは、それがどこかで終焉となることを知っているからなのだろうか。
寄せては引いていく、想いの波。引力で引かれる満潮のように膨れ上がって。
逃げられない。
鳴き砂はほんの少しでも汚れると「鳴かなく」なるそうです。環境保全していかないとですね。




