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可逆・不可逆、エントロピーの泉

今回は「時間」になります。

よろしくお願いします。

 ごしごしとゲルミナスは服の泥を落としていた。

「……人間とは、いかに不便な……」

 ぶつくさと文句をたれながらも、丁寧に流していく。次第に彼の手にある泥だらけの布は、服としての輝きを取り戻していった。

(……ついでにゲルミナスも体洗えば?)

 モルテはゲルミナスを見て、泉を指差した。そして体を洗うジェスチャーをする。

「は? 私も洗えと?」

 うんうん。モルテは頷く。それを見たゲルミナスはみるみるうちに顔を赤くする。

「わっ、私は……!」

(だって、そろそろ臭いんじゃない?)

 モルテはゲルミナスを指差し、鼻をつまんだ。赤かった顔を青くし、ゲルミナスは震えた声でモルテを見る。

「く……臭い……!?」

 そして彼は自分の腕の匂いを嗅ぐ。

(あー、無理無理。自分の匂いは鼻が慣れてるから分かんないって)

 モルテは神だ。食事も睡眠も排泄も必要なければ代謝もない。服が汚れることはないし、臭くなることもない。

 だが、ゲルミナスは今のところまだ人間が強い。ほぼ人間だ。腹も減れば代謝もするし「生きてる」匂いがしてくる。そんな親切心で言っただけなのに、思いのほか彼を抉ったようだった。

「……身を、清めてきます……。決して、見ないでくださいよ……」

 洗濯物を干した後、彼はとぼとぼと泉の向こうの茂みに消えていった。

(やれやれ)



 ゲルミナスは震えた顔のまま、茂みで服を脱いで影になっている泉に近づいた。

(……くさいと言われてしまった……)

 はあ。どんよりとしたまま、泉の水を掬おうと――。

「冷たっ!?」

 水が手のひらに掬われるよりも先に、彼の腕が濡れた。

「は……? ああ、水を掬うんでしたね……?」

 順番が、狂っているような気もしないでもないが……?

 そしてその数秒後。

「いや、何で元に戻ってるんですか!?」

 彼の腕は、水に擦る前の、ほんのり茶色の乾いた状態へと戻っていた。

「…………これ、は……」



(一、二、三……)

 モルテは手に萎びた花を持ち、時間を数えていた。数秒後、その花は黒く染まり、灰へと変わって地面へと還った。

(……やった、五秒もった)

 一人、「死」の力を抑える練習をする。今日は五秒。気を抜くとまだ一瞬で土に還してしまうが、練習は徐々に実を結び、日に日にその時間は長くなっている。

(もう少ししたら、ゲルミナスにハイタッチくらいはできるかな。驚くかなぁ)

 ふふ、と微笑む。

 と、モルテは気がつく。そろそろ洗濯物も乾きそうなんだけど。

(……そう言えば、あの人、どんだけ体洗ってんだ……?)


 ひょこ、とモルテが茂み側の泉を覗くと、そこには――。

「だあああ! 何なんですか! 私の肌はエントロピーの増大を拒否しているんですが!? これでは……、これでは、永遠に清潔になれないではないですかっっ!!」

 半狂乱で泉を叩いている全裸のゲルミナスがいた。

(……何やってんの……)

 茂みに近づきすぎるとあの草むらを枯らしてしまう。モルテは「あの枝」で草をガサガサと鳴らした。

(おーい)

 ゲルミナスは初め、突然揺れた草むらに驚いて振り返り、日陰に佇む黒衣の死神と目が合って、悲鳴を上げた。

「うわぁあぁあ!? モモモモルテ!? 来ないでくださいって『さっき』言いましたよね!?」

 必死に前を隠すゲルミナスに、モルテは呆れたような視線を送る。

(……乙女か。いや、「すごい」時間かかってるんだけど。何やってんの)

 膝を抱えたゲルミナスは彼女の視線をじっと見て、少し首を傾げた。

「……? モルテ?」

 そしてハッとしたように彼は泉を指差す。

「そうだ、見てくださいこれ! 『時間』の流れがこの周辺おかしくなっています!」

 言いながら彼は泉に手を差し入れ――る前に、彼の腕が濡れ、水を掬ったと思ったら手のひらから消える。さらに数秒後、彼の腕は濡れてなどなかったかのように元通りに。

(ええ……? なにこれー……)

「これは『時間の逆再生(リワインド)』が起こっています。通常、時間というのは我々が意識する、マクロの空間では不可逆性です。未来から過去へ遡ることは不可能だ。それは、『時間の矢』と言うものが存在し……」

 立ち上がって語り始めたゲルミナスを、モルテはまじまじと観察した。

(……へえ、人間の男って、「こんな感じ」なんだ)

「聞いていますか、モルテ? ……どこを見て……」

 モルテの視線があらぬ方向に向いていることに気づいたゲルミナスは、彼女の視線を辿り、もう一度「乙女」のような悲鳴を上げた。



 服を着たゲルミナスは地面に突っ伏して落ち込んでいた。モルテはそんな彼を見て、労わるように枝で肩を叩く。

(まあまあ、人は生まれたときは「そう」なんだから、落ち込まない落ち込まない)

 涙目でゲルミナスはキッとモルテを睨みつけた。

「貴女が言うことですか……っ! だいたい、女性がそのような事をしてはいけませんっ! ……変なこと考えてないでしょうね?」

(うん? うーん、あの花より、どっちが先に「枯れる」かなってちょっと思った)

 首を傾げて目を泳がすモルテを見て、ゲルミナスはもう一度地面に突っ伏した。

「……やっぱり、何か考えたんですね!!」

 しばらくは立ち直れなさそう。

(「人間」を謳歌しているようで何より)



(……で? 何だっけ、矢?)

 しばらく経過して。ようやく立ち上がった(立ち直ってはない)ゲルミナスにモルテが顎をしゃくる。

「あ、ああ……。説明が、途中でした……ね……」

 顔を、青を通り越して白くなったゲルミナスは、先ほどの出来事を思い出してたまに「うっ……」と胸を押さえながら、よろよろと泉を指差した。

「……リワインドでしたね。うっ……。失礼……。時間は、過去から未来へ、一方向にしか進まない事、それを『時間の矢』と言います。時の神を除いて、普通は過去へ遡ることは不可能でしょう?」

 頷く。

「物理の基本的な法則では、時間を逆再生しても現象は成立します。これを、『時間反転対称性』と言います」

(何それ。逆再生しても成立する現象?)

「簡単に言うと、『逆再生してもあり得ない動きに見えない』性質のことです。原子や素粒子の世界――ミクロの世界では、多くがこの性質を持っています。分かりやすい例えとなると……ああ、二つの玉が転がってぶつかり、それぞれ別の方向へ転がっていったとします。これを逆再生しても、二つの転がった玉が近づき、ぶつかって離れていく映像となります。違和感ありませんよね?」

 確かに。ふむふむとモルテは頷いた。

「しかし、我々の世界――ミクロの反対なのでマクロの世界ですね――は、この対称性が成立していないように見えます。卵を落とすと殻が割れ、中身が飛び出します。これを逆再生すると飛び散った中身が殻の中に戻り、割れたひびは消えるという、あり得ない結果ですね?」

(当たり前じゃん)

「では、なぜ『あり得ない』のか? これは、物理法則そのものが時間を区別しているのではなく、『エントロピー増大の法則』というルールが存在しているからです」

 は? モルテは首を傾げた。えんと……ろ?

(わかんないよ。知らなくても生きていけるでしょ?)

「まあまあ。知ってても損にはなりませんから。……これは『熱力学第二法則』ともいいます。簡潔に言えば、物事は放っておくと、自然にバラバラになり、自発的に元通りになることはない、ということです。丸めて作った泥団子。放っておくと乾いてボロボロに崩れます。そして、何もしなければそれが再び団子になることはない。それと同じです。泥団子の状態がエントロピーが『低い』、崩れた状態が『高い』わけです。この、エントロピーが高い、ばらばらになっていく方向を我々は『未来』と認識しています」

 つまり、とゲルミナスは泉を指さした。

「この泉は、時間が遡る……エントロピーが低くなる現象が起こっているのです」


 んんん? モルテはさらに首を傾げた。これまでの現象を思い出してみる。

 風。それは気圧が高いところと低いところの気圧差によって生まれる。

 物は、高いところから低いところに向かって落ちる。ん? これは重力?

 モルテは頭がこんがらがってきた。鳥のように手をパタパタとさせた後、上に手を上げて勢いよく下ろし、首を傾げる。時間を置いて、小石を上から落とす。鳥のジェスチャーと小石を持って、もう一度首を傾げた。

 ゲルミナスはふむと頷いた。

「つまり、貴女が言いたいのは、この世の現象は『高いところから低いところ』へ行くのに、エントロピーは『低いところ』から『高いところ』に行く、ということが分からない、ということですか。小石が落ちる、これは重力でエントロピーは関係ないのか? と言いたいわけですね」

(いや、だからなんでこれで通じてんの……!?)

 いや、怖い。モルテは感動を通り越して戦慄した。物理馬鹿だ。これは物理に関しては会話不要だ。

「……まあ、今回は『時間』ですから、後々説明しましょうかね……。でも、着眼点としては良いところです。極々簡単に言うと、エントロピーとは、『散らかっている度合い』のことを言うので、貴女の言う『高いところから低いところ』というのはエネルギーの安定を求めた現象と異なるものです」


(ふうん……? まあ、いいか。それで? この泉からどうやって欠片を取り出す?)

 モルテは泉を覗き込んだ。深い水深の割にはとても澄んだ水が満たされている。水底の石は揺れる水面で輪郭が歪んでいるのが見えた。

(……綺麗な水)

 けれど。こんなに澄んでいるのに、生き物の気配は感じられない。その違和感から、モルテはゲルミナスの説明と合わせて気がついた。

(……そうか、この泉、「変化」しないんだ)

 物理馬鹿の言葉を借りれば、「エントロピーが低い」と言ったところ?

 むくむくとした好奇心がモルテに湧く。

(手を入れたら、濡れるのかな……?)

 モルテは、指先を泉にちょんとつけてみた――。

 と。

 バチバチバチバチ……ッ! 熱した油が跳ねるような音と水しぶきがモルテの指先の周りに発生した。彼女は驚いて突っ込んでいた指先を引っ込める。

(うわ、びっくりした!)

「モルテ、それは……!」

 ゲルミナスも驚いて目を瞠った。

(ね、ね、ゲルミナス、何これ!?)

 モルテは驚いた顔のまま、ゲルミナスを見上げる。彼は、何か思いついたように呟いた。

「……そうか、『死』は極大のエントロピー……!」

 そして、モルテの両肩をガシッとつかんだ。布越しなら彼の手が焼けることもない。それはいいけれど。

(わ……!)

「モルテ、お手柄です! これで解決の糸口が見えました!」

(近いって! 危ないから!)

 ゲルミナスの銀の瞳の中に、困惑したモルテの顔が映っているのが見える。モルテは枝を取り出してゲルミナスの胸板をぐいぐいと押した。モルテが触ると、布越しでも彼の肌を焼いてしまう危険性がある。それほどまでに「力」の差があった。

 ゲルミナスはハッとしたように固まる。

「あ……。すみません、つい」

(だから、「つい」じゃないんだよなあ!)


 こほん、とゲルミナスは咳払いを一つ。

「いいですか、『死』というのは、物理的には『最高に拡散した状態』を言います」

(へ? 死ぬって、ただの「生命活動を終えたもの」じゃないの? ほら、土に還るって……あっ!?)

 怪訝そうな顔から、何か気づいたようなモルテの瞳の光を見て、ゲルミナスは、ふっと微笑んだ。

「気づきましたか、モルテ。そう、土に還る。――『泥団子』です。最後の極小の一片まで、ばらばらに――エントロピーが極大になった状態が、『死』なのです。そして、貴女はその極大の力を持っている。この泉の底に、あの欠片がある。普通に手を入れて取ろうとするならば、時間は遡って永遠に回収はできないでしょう。けれど、その遡ろうとする力を上回る貴女の力があれば、恐らく強制的に時は進むはずです」

(はいはい、分かった。つまり、()が取りに行けばいいのね)

 一つ頷いたモルテはおもむろに泉に身を乗り出した。ゲルミナスは途端に焦りだす。

「ちょ、モルテ、待ってくださ――!」

 ドプン。――バチチチチッ!

 モルテが泉に入った瞬間、まるで沸騰しているかのように水が沸き立った。それは凄まじい、(過去)モルテ(未来)とのぶつかり合いであった。


 モルテの黒いドレスは水を吸ってぐんと重くなった。ゴボボ……と時のぶつかり合いを感じる。黒く長い髪を漂わせながら、モルテは水面を見上げた。

 泉を照らす太陽は白い光を幾筋も挿し、揺らめいている。モルテが飛び込んだ衝撃で水面が揺れ、光の網目模様が水中をキラキラと動いているのが見えた。

 真上だけが丸い窓のようになっていて、外の景色が歪んで見える。窓の周りは鏡のようになって、水中を映していた。

(……綺麗)


 モルテは泳がない。「泳ぐ」という行為は、命が「もがく」ための行為。彼女はただ、己の身が沈む現象そのまま、身を任せていた。

(さて、欠片はどこかな)

 澄んだ水、揺らめく光の中。モルテは視線を巡らせると、水底にきら、と応えるように光る欠片があった。

(あったけど……これ、「生」そのもののやつじゃん。熱そう……)

 ここまで来た手前、引き下がるわけにもいかず、モルテはそっと欠片を摘んだ。泉との時の戦いよりもっと激しく、モルテを拒むような「熱」を感じる。

(うわあ……熱ちち!)

 冷たい水の中。熱を感じないモルテが唯一感じる、「生」の熱。

(……どうやって戻ろう……)



 モルテが欠片を手に取る、少し前。

「モルテー! だ、大丈夫でしょうか……? ああ、やっぱり私が取りに行くべきだった……!」

 激しく後悔しているゲルミナスがいた。

 そして彼ははたと気がつく。

(モルテは「泳がない」のではなかったか……?)

 つまり、浮かんでこない。

「っ、貴女が『カナヅチ』だということ、忘れてましたよ……!」

 今なら、モルテの力を受けて泉は未来へ向かって時が進んでいるはず……!

 居ても立っても居られず、ドパーン! とゲルミナスは泉に飛び込んだ。



(あ、来た来た)

 まるで乗合馬車でも待っていたかのように、モルテは泳いできたゲルミナスに呑気に手を振る。

 彼の顔は険しく、ともすれば怒っているようにも見える。

(……なんで?)

 そのまま彼女はゲルミナスに腰を掴まれ、ゆっくりと引き上げられていった。そして欠片は、彼の手に強引に奪われる。

(ああっ、私の功績が……!)


「ぷはっ! ……モルテ! 貴女、何無理してるんですか!」

 水面に顔を出した瞬間、ゲルミナスに怒鳴られる。

(いや、理不尽……!)

 むっと口を尖らせると、ゲルミナスは大きなため息をついた。

「この手! 焼けただれています! 欠片を握り締めるなど!」

 彼はモルテの手首をつかみ、モルテの手のひらを見る。命を握りしめていた彼女の手は、その熱さを示すかのように真っ赤にただれ、赤黒く皮膚が剥けていた。

(いや、落とすと悪いし、そんなすぐ治るのにー……)

「……っ、そんな顔しても駄目です! さっさと上がりますよ! ほら、這い上がる!」

 怒りながら、ゲルミナスは泉の縁にモルテを押しやった。

(ちぇー……)

 泉から上がった瞬間、モルテの髪はさらりと水分を無くし、ぐっしょりと彼女の体にまとわりついていたドレスはからりと乾く。

 濡れた事実を「拒絶」する現象に、ゲルミナスはため息をついた。

「……それは羨ましい能力ですね……。こちらは寒くて風邪を引くかもしれないというのに」

 ぶる、と震えてくしゃみを一つ。

(火、おこそうか?)

「まあ、とりあえず欠片を取り込んでからにします。……寒……」

 ゲルミナスの手の中にある欠片は、閃光を放ち、彼の中に組み込まれた。

 そして、特大のくしゃみをもう一つ。

「力を取り込んでも寒いものは寒い! モルテ! 火を、火をおこしてください!」

(はいはい。すぐに)

 呆れたように息をつく。でも。

 モルテは既に修復された自分の手のひらを見た。

(心配、してくれたのかな……?)

 モルテのために、自分がこんな目に遭うことを分かっていて来てくれたのだろうか。

(……ちょっと、カッコよかったよ)

 ふふ。モルテの口元は、少しだけ弧を描いた。


エントロピー、少し理解するのに時間かかりました。

このエントロピーは、何度も出てくるので覚えててもらえると嬉しいです。

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