2403話 地獄の門番たれ
「すま、ない……あとは……頼……」
黒銀騎団詰め所の執務室の隣室に在る、軍団長私室。
今はサキュドが私室として使っているその部屋に辿り着いたテミスは、倒れ込むようにその身をベッドの上へ投げ出すと、今にも消え入りそうな声で呟きを残し、静かに目を閉じる。
事実。気力だけで持たせてはいたものの、亮とマグヌスの姿をした亡者の戦いが終わった頃から、テミスを襲う眠気は限界を超えていた。
その事は、テミスの放つ生気の揺らぎが大きくなっていたため亮も理解しており、だからこそ幼子を導くかの如く手を引いて、この部屋まで連れてきたのだ。
「フッ……大和男児としては、見知らぬ男を部屋に残したまま意識を絶やす迂闊さを叱るべきか、そこまでの信を寄せられたことを喜ぶべきか、悩むところではあるな」
既に寝息を立て始めたテミスを見下ろした亮は、穏やかな表情で苦笑いを浮かべると、テミスが下敷きにしてしまっている布団を身体にかけ直してやる。
亮は自分がここに在る以上、この場が生者にとって害を成す場所であることは承知していた。
だがそれでも、一度は敵として相対した武人と、死後にこうして再びまみえる事ができたのは、幸運という他は無かった。
「……日ノ本の男として。その信には応えよう」
コツリ、と。
亮は硬い軍靴の音を一つ鳴らして身を翻すと、背筋をピンと伸ばして無感情に呟きを漏らす。
今この瞬間も、亮の中には生者であるテミスに襲い掛かり、その身に残った生気にむしゃぶりつきたいという渇望は確かに存在した。
おそらくこの衝動は亡者として、生を喪った死者としてあって当然の欲求なのだろう。
生気さえ取り戻せばまだ、自分は生き返る事ができるかもしれない……と。
本能的な願望が、欲望を衝き動かしているのかもしれない。
「…………」
馬鹿馬鹿しい。と。
軍団長私室の扉を閉じた亮は、己が内に滾る欲求を一笑に伏すと、執務室の窓からファントの町を見下ろした。
例え他者の生命を喰らって復活を果たしたとて何になる?
静まり返った執務室の中で独り、亮は胸の内で自問する。
確かに私にも無念はある。
御国へ戻ること叶わず、遠き異界の地で果てたのは、腹を掻っ捌きたくなる程に強烈な現世へと遺した心残りだ。
「だがこの無念が、痛みこそが、私が私であったというただ一つの証明だ」
噛み締めるような声で亮は静かに呟くと、隣の部屋で息づく生気が僅かに強くなったのを感じ取った。
この世界に数多存在する亡者という存在は、酷く不確かなものだ。
肉体を有する訳でもないくせに、個として確立した意識を持っている。
それ故に、強烈な個としての意識を失った時、若しくは個を持たない思念のような存在こそが、ただただ本能に従って生気を求め彷徨う亡者なのだろう。
「地獄とは、斯様なものであったか」
皮肉気な微笑みを浮かべて執務室を出ると、亮は淀みの無い足取りで階下へと向かう。
どう考えても、この場が極楽浄土であるとは思えない。
否。生前に遺してきた無念に魂を焼きながら、延々と無念に焦がれて虚ろな世界を彷徨い歩く。
これ以上に、地獄と呼ぶにふさわしい場所は無いだろう。
「なればこそ、私はこの意尽きるまで、地獄の門番と在ろう。生者を護り、生者を在るべき場所へと還す。既に終わった者が、悪霊と化さぬように」
詰め所の建物から歩み出ると、亮は腰の軍刀をスラリと抜き放ち、誓いを込めて言葉を紡ぐ。
死者が生者に害を成せば、それは恨みや怨念といった悪霊の仕業であると称される。
本来はあってはならない、死者による生者への干渉。
亡者がその身を焦がしている渇望は、ある種の希望なのだろう。
しかし、その希望は幻想だ。
既に果てた身であるが故に亡者と化しているのだから、たかだか生気を得た所で、現世に肉体を得て復活できるなどあろうはずがない。
「っ……!」
テミスとのやり取りでそう事実を認識した亮が、屈強な精神力で己の内に在る渇望を完全に律した瞬間だった。
耐え難い飢えのような感覚が消え失せ、生気に感じていた渇望が消えて失せる。
その代わりに、感覚が鋭敏に冴え渡り、周囲に漂う鬱屈とした霧が澄み渡って見えた。
「これは……? っ……!?」
突然己に起きた変化に戸惑いながらも、亮は意識せずに呼吸を繰り返す。
しかし、澄み渡って見える霧を吸い込んだ途端、腹の内側から燃えるような力が湧き上がり、僅かに感じていた疲労感が解けて消えた。
「フッ……ハハハッ! 霞を喰らうとはまるで仙人だな。だが、地獄で仙人を気取るのも一興か」
軍刀を携えたまま、亮は晴れた視界の中を力強く歩んで広場へと進むと、その中心で渦を巻き始めていた影の前へと立ちはだかった。
それは亡者が現れる時の現象で。
亮の前で渦巻き始めた影はみるみるうちに形を成し、槍を携えた幼子の姿を形作る。
「意思無き虚ろの亡骸どもよ。この場を通りたくば、私を斃すほどの渇望を見せてみろ」
そんな亡者を前に亮は高らかに口上を述べると、槍を構えて戦闘態勢を取る亡者に応ずるかの如く、携えていた軍刀を構えたのだった。




