からくりを忘れて
神が人の生死という理を捻じ曲げ、災害を「なかったこと」にした代償は、あまりにも重かった。
「……世界との、契約やったんやな」
静まり返った座敷の中、慧が掠れた声で呟いた。彼の前にあるノートには、これまでに分かった事実が殴り書きされている。
「本来なら、俺たちはあの土砂崩れで死ぬ運命だった。それを、キミト様が神の力で強制的に歴史を書き換えて救った。……でも、因果律の帳尻を合わせるために、世界は罰を与えたんや。キミト様という神の存在そのものを、この世の全ての記録と、人々の記憶から消去するという罰を」
俺は、手の中にあるガラスの髪飾りを見つめた。
この髪飾りだけが、世界が消し去り損ねた、唯一の「キミトの生きた証」だった。
「じゃあ……俺たちの記憶がバラバラだったのは」
「脳の辻褄合わせや」
慧が苦しげに顔を歪める。
「俺たちの脳は、『四人で遊んでいた』という厳然たる事実から、キミト様という存在だけを丸ごとくり抜かれた。でも、そうすると『じゃあ誰と遊んでたんだ?』『どこに集まってたんだ?』という矛盾が生じる。だから、脳が勝手に、一番それらしい偽物の記憶を作って穴埋めしたんや。俺は神社の裏、奏は川辺、勿忘は竹林。……全部、あの淵の周りの景色を使ってな」
なんて残酷なからくりだろう。
忘れたくて忘れたわけじゃない。世界という巨大な装置によって、俺たちの記憶は強制的に改ざんされていたのだ。
その時、俺の脳裏に、かつてキミトが秘密基地でぽつりと言った言葉が、鮮明に蘇ってきた。
『なぁ、奏。神様ってな、人々に忘れられてもうたら、本当に消えてまうねんよ』
あの時は、寂しがり屋の彼女が冗談めかして言ったのだとばかり思っていた。
だけど、あれは冗談なんかじゃなかった。
「神は、人の信仰や認識によって存在を維持している……。私、そういう古い伝承、よく聞くよ」
勿忘が、涙の乾きかけた目で俺たちを見た。
「みんなから忘れられた神様は、現世との繋がりを失って、ただの概念になって消えてしまう。……キミトは今、その一歩手前にいる」
十年もの間、誰一人として彼女の名前を呼ばなかった。
誰一人として、あの向日葵のワンピースの少女を思い出さなかった。
俺たちがのうのうと生きてきたこの十年は、キミトにとっては、世界からゆっくりと消し去られていく、あまりにも孤独で長いカウントダウンだったのだ。
「そんなの……あんまりだろ」
胸の奥から、どす黒い怒りと、引き裂かれるような切なさが突き上げてくる。
俺たちの命のために、彼女はすべてを投げ打った。なのに、残された俺たちは彼女を忘れ、東京で、地元で、ただ摩耗するように毎日を生きていたなんて。
「キミトはまだ、あの淵にいる。消えかけてるかもしれないけど、まだ眠ってるはずだ」
俺は立ち上がり、二人の顔を見据えた。
「会いに行こう。今度こそ、俺たちの言葉で、彼女の名前を呼ぶんだ」
ドォン、と地響きのような音が遠くから鳴り響いた。
龍神祭の始まりを告げる、打ち上げ花火の音だ。
窓の外を見下ろすと、村は色とりどりの提灯で埋め尽くされ、浴衣姿の観光客や地元の人々で溢れかえっていた。屋台の灯りが夜闇を賑やかに照らし、焼きそばや綿菓子の甘い匂いが、風に乗ってここまで流れてくる。
世界はこんなにも賑やかで、楽しげなのに。
勿忘の家の薄暗い座敷の中だけは、まるで時間の止まった墓標のように冷え切っていた。
「行くぞ。二人に、キミトのところへ」
俺はクローゼットから上着を掴み、二人の顔を見つめた。
十年前と同じ、夏の終わりの夜。当時と同じルートを辿って神社の奥宮、あの「龍神の淵」へと行けば、現世との繋がりを失って消滅しかけているキミトに、もう一度だけ会えるかもしれない。
だが、玄関へと向かおうとした俺の前に、慧が立ち塞がった。
「どけよ、慧」
「待て、奏。冷静になれ」
慧の声は、いつになく低く、冷徹だった。眼鏡の奥の瞳が、現実という名の刃となって俺を突き刺す。
「会いに行って、どうするつもりや。会える保証なんてどこにもない。世界から存在を消された神様やぞ。それに……もし、奇跡が起きてキミト様を消滅から救えたとしても、その後はどうする」
「どうするって、それは……」
「彼女は龍神様や」
慧は、俺の言葉を冷酷に遮った。
「俺たちの世界へ連れて帰ることはできひん。一緒に東京へ行くことも、この町で公務員や職人として一緒に暮らすことも、絶対に不可能なんだよ。神様は神様として、あの冷たい水底の境界に戻るだけや」
慧の言葉は、痛いほど正論だった。
冷たく見えるが、彼は誰よりも俺と勿忘のことが傷つくのを恐れている。だからこそ、残酷な現実を真っ先に口にするのだ。
「そんなこと……分かってるよ」
拳をぎゅっと握りしめる。爪が手のひらに食い込んで、生々しい痛みが走る。
「連れて帰れなくたっていい。自分の世界で生きていけなくたっていいんだ。俺はただ、キミトに謝りたい。助けてもらったのに、十年間も忘れててごめんって。……そして、もう一度だけ、あいつの名前を呼びたいんだ」
それが、叶うはずのない初恋への、永遠の別れを受け入れるための旅だと知りながらも、俺は前を向くしかなかった。
「……慧、行こう」
後ろから、勿忘が静かに言った。彼女の目には、もう涙はなかった。
「キミトちゃんがうちの髪飾りを遺してくれたのは、きっと、私たちが思い出すのを待っててくれたからだよ。ここで諦めたら、私たちは一生、あの夏に囚われたままになっちゃう」
慧はしばらく、俺と勿忘の顔をじっと見つめていたが、やがて、深く大きな溜息をついた。
「……ほんまに、お前らは大馬鹿野郎やな」
ぶっきらぼうに言いながらも、慧は車のキーをポケットから取り出した。
「行くぞ。祭りの混雑で、神社の手前からは車が通れん。そこからは歩きや」
ドン、と再び大きな花火が夜空に爆ぜ、一瞬だけ部屋の中を真っ赤に染め上げた。
火薬の匂いが鼻をかすめる。十年前の、あの嵐の日の記憶が、胸の奥で激しく疼いていた。




