初恋を祈って
一度決壊した記憶の水門は、もう誰にも止められなかった。
勿忘の実家の座敷。畳の上に広げられた古い郷土史を囲んだまま、俺たちの意識は、あのどこまでも青く、そして切なかった「十年前の夏」へと完全に引き戻されていた。
――それは、うだるような暑さが続く、八月のこと。
神社の禁足地「龍神の淵」で出会った風変わりな少女――キミトは、自らをこの地を統べる水の神様だと言い張った。
最初は怯えていた俺たちだったが、向日葵のワンピースを着て、ちょっと古風な京都弁で喋る彼女は、神様というにはあまりにも無邪気で、どこか寂しげな普通の女の子に見えた。
『神様やからって、毎日退屈しとるんです。誰もここへは来おへんし、お喋りする相手もおらへん。……なぁ、うちら、もう友達やろ?』
キミトにそう乞われて、俺たちは毎日のように神社の奥宮へと通うようになった。大人たちに見つかれば大目玉を食らう、俺たちだけの秘密の同盟。川辺の岩陰も、神社の裏手も、竹林の獣道も、すべてはキミトのいる「淵」へと繋がる、俺たちの秘密基地の通り道だったのだ。
ある日の午後。俺たちは小遣いを出し合って、村の駄菓子屋で買ったお土産を淵へと持ち込んだ。
『な、何やこれ……? 瓶の中に、きらきらした硝子の玉が入っとる……!』
キミトは、俺が手渡したラムネの瓶を両手で包み込み、まるで見たこともない家宝でも眺めるように、黒い瞳を輝かせた。
『キミト、こうやって蓋で、中の玉を押し込むんだよ』
俺がやってみせると、カシャン、と涼やかな音を立ててビー玉が落ち、シュワシュワと白い泡が弾けた。キミトは「わぁっ!」と声を上げて飛び上がり、おそるおそる瓶に口をつけた。
『……んんっ! 鼻の奥が、パチパチするっ……! でも、甘くて、冷たくて、美味しいなぁ……っ』
喉を鳴らしてラムネを飲むキミトを見て、慧は呆れたように笑い、勿忘は嬉しそうに目を細めていた。
『神様なのに、ラムネも飲んだことなかったのかよ』
『仕方ないやん、うちはずっとこの淵の中から出られへんのやから。……なぁ、奏。外の世界は、どんなところなん?』
キミトは流木に腰掛け、白い素足を青い水面に浸しながら、俺の顔をじっと見つめた。
『外の世界はさ、もっと広いよ。ビルっていう高い建物がたくさんあって、夜でも太陽みたいに明るい街があって、電車っていう鉄の箱に乗れば、どこにだって行けるんだ』
俺が東京のテレビで見た景色や、教科書の知識を必死に話して聞かせると、キミトは夢を見るような目で耳を傾けていた。
『すごいなぁ。うちは、この山と、この空しか知らん。……いつか、奏が色んなところへ連れて行ってくれる?』
『うん。約束するよ。俺が大人になったら、キミトを外の世界に連れ出して、もっと美味しいものをたくさん食べさせてあげる』
何の根拠もない、十四歳の子供の約束だった。
だけど、その時のキミトの、嬉しそうに、だけどどこか酷く切なげに揺れた瞳が、俺の胸の奥を強く締め付けた。
『ふふ、嬉しい。……このまま、ずうっと夏が終わらへんかったらええのになぁ』
夕暮れの茜色が、キミトの横顔を赤く染めていく。それはどこまでも美しくて透き通っていて、儚かった。
彼女の黒髪で揺れる髪飾りが、寂しげな光を放っていた。
その時、俺の胸に宿ったのは、神様に対する畏怖ではなかった。どうしようもないくらいに純粋淡い恋心だった。キミトを守りたい。この寂しそうな少女を、ここから連れ出してあげたい。
だけど――。
夏休みは、永遠には続かない。
記憶の回想の中で、世界の青空が、急激にどす黒い雨雲に覆われていく。
楽しかった日々の背景に、あの「土砂崩れ」の日の、激しい雷鳴が轟き始めた。




